エピローグ 次の飯の話
三日後、王都の鐘はまだ一つ足りなかった。北広場の時計塔が倒れたせいだ。朝を告げる鐘は王城側からしか聞こえず、以前より少し遠い。それでも決まった時刻に鳴り、人々は店を開け、瓦礫を運び、壊れた屋根へ板を打ちつけていた。
王都は傷だらけだった。北門の一部は崩れたまま。街路には白い石粉が残り、建物の壁には古代兵器の攻撃跡が黒く焼きついている。死者も出た。まだ名前の確認が終わっていない者もいる。勝ったからといって、全部が元へ戻るわけではない。
伊織は食堂の前へ椅子を出し、左手でコーヒーを飲んでいた。右肩は厚く固定されている。今度は自分で外していない。
「珍しいですね」
隣から声がした。アリア。「何が」
「言いつけを守っています」
「信用がないな」
「実績です」
彼女は伊織の右肩を見る。「痛みは」
「ある」
「どれくらい」
「昨日よりまし」
「本当ですか」
「ああ」
「なら結構です」
アリアも椅子へ座る。手には紅茶。その足元。クロ。黒い犬は横になって日を浴びていた。三日前から、食べて、寝て、少し歩いて、また寝る。それだけ。
「クロ」
伊織が呼ぶ。耳だけが動く。「元気?」
尾が一度。「随分偉そうですね」
「生きてりゃいい」
「そうですね」
二人とも、しばらく何も言わなかった。街路。人。荷車。槌の音。遠くで子どもが笑う。全部が動いている。
食堂の中からリナの声が飛んだ。「伊織!」
「何だ」
「暇なら皿運んで!」
「右腕が使えない」
「左がある!」
アリアが笑う。「言われていますよ」
「怪我人なんだけどな」
「私も手伝います」
「王女が?」
「今は客です」
「客が働くのか」
「食べるので」
アリアは立ち上がる。伊織も。クロは動かない。
「お前は?」
黒い犬は目を閉じた。「賢いですね」
「最近覚えたらしい」
二人が中へ入る。食堂は満席だった。復旧作業の兵士。職人。ギルドの冒険者。家を失った者。手伝いに来た者。普段なら一緒に座らないような人間が、同じ机で飯を食っている。
「東!」
奥から声。エルマだった。左腕の包帯はまだ外れていない。それでも右手でパンを掴んでいる。
「座る場所取ってあるぞ」
「今働かされてる」
「怪我人だろ」
「左があるらしい」
「誰に言われた」
「リナ」
「逆らうな」
「お前まで言う?」
エルマの向かい。ゼクトが座っている。なぜか。
「帰ってなかったのか」
伊織が言う。「随分な挨拶だ」
「東部へ戻るんじゃなかった?」
「戻る」
「いつ」
「飯を食ってから」
「三日前から食ってるぞ」
「借りが高い」
「関係ある?」
「ある」
ゼクトの前。皿が三枚。空。
「食い逃げでは」
「借りだ」
「リナに言え」
「言った」
「何て」
「皿洗いしろと言われた」
「やれよ」
「今からだ」
立つ気配はない。
「ゼクト」
伊織が言う。「何だ」
「死んだ奴は」
食堂の空気とは関係なく、声だけが少し低くなる。「十三」
「そうか」
「名前は全部分かった」
「ああ」
「家族へ知らせる」
「お前が?」
「俺たちの旗で来た」
ゼクトは皿を見る。「俺が行く」
伊織は何も言わなかった。
「借りは」
ゼクトが続ける。「死んだ奴からは取れん」
「ああ」
「だから残った奴から取る」
「高そうだな」
「一生かかる」
「なら長生きしろ」
ゼクトが伊織を見る。「お前もな」
短い。それで終わる。
「出発は明日?」
アリアが尋ねた。「ああ」
「また王都へ来ますか」
「借りを取りに」
「それ以外では?」
ゼクトは少し考える。「飯が美味ければ」
「なら来ますね」
リナが厨房から言った。「勝手に決めるな」
「不味いの?」
「美味い」
「なら来る」
ゼクトが笑う。「決まったな」
伊織は皿を置いた。「次」
「何だ」
「皿洗い」
ゼクトの笑みが消えた。
◆
午後。王城の一室。窓は開いていた。以前なら護衛も侍従もいた。今日は誰もいない。アルドとアリアだけ。伊織は廊下の壁へ背を預けている。中へ入る気はない。聞く気も。
「東さん」
扉からアリアが顔を出した。「何だ」
「なぜそこに」
「父娘の話だろ」
「逃げるのですか」
「気を遣ってる」
「似合いません」
「知ってる」
アリアは少しだけ笑う。「終わったら呼びます」
「ああ」
扉が閉じる。中の声は聞こえない。聞こうと思えば聞こえる。聞かない。
クロが廊下の床へ伏せる。「長くなる?」
鼻が鳴る。「だろうな」
また。次。あとで話す。その「あと」が来た。
伊織は窓の外を見る。王都。復旧。人。白い古代兵器の残骸は、城壁外へ運び出されている。停止した二十三体。クラウスが一体ずつ中枢系統を切り離した。再起動はしない。少なくとも、彼の計算では。
「完全に?」
伊織が聞いたとき。クラウスは、
「完全などない」
と答えた。その言葉は、以前と同じだった。意味だけが違っていた。だから、監視する。調べる。必要なら壊す。次に任せる。全部を止めて残すのではなく、動きながら残していく。
扉が開く。アリア。目元が少し赤い。
「終わった?」
「終わっていません」
「揉めた?」
「違います」
彼女は少しだけ考える。「これからも話します」
「そうか」
「今日は、ここまで」
「十分?」
「十分です」
部屋の奥。アルドが椅子へ座っている。こちらを見る。伊織と目が合う。王は僅かに頭を下げた。伊織も。それだけ。
アリアが扉を閉じる。「帰りましょう」
「食堂?」
「はい」
「父親は?」
「あとで来るそうです」
「またあとで?」
「今度は来ます」
「信用してる?」
「少し」
アリアは歩き出す。伊織も。クロも。
◆
クラウスの研究室には、まだ桜の写真が残っていた。翌日。伊織たちは地下へ来ていた。固定機構は停止している。白い輪は暗い。機械音も小さい。クラウスは机の前へ座っていた。欠けたカップ。代用品のコーヒー。そして。皿。焦げた菓子。
「残ってたのか」
伊織が言う。「保存容器へ入れていた」
「三日だぞ」
「腐ってはいない」
「味は」
「最初から期待していない」
アリアが向かいへ座る。「約束です」
「ああ」
「食べてください」
「分かっている」
クラウスは菓子を持つ。小さい。端が黒い。一口。噛む。眉が寄る。
「どうです」
「固い」
「味です」
「焦げている」
「知っています」
「甘い」
「それも知っています」
伊織は壁へ寄りかかる。「美味い?」
クラウスは長く考えた。「悪くない」
「またそれか」
「お前に言われたくない」
アリアが息を吐く。「次は私が作ります」
「また作るのか」
「嫌ですか」
クラウスは菓子を見る。残り。
「焦がさないなら」
「努力します」
「約束はしない?」
「失敗するかもしれません」
「そうか」
「でも、また作ります」
クラウスの口元が僅かに動いた。「なら、待つ」
伊織はその言葉を聞いた。五十年間。待つしかなかった男。今度は、自分で次を待つ。
「ところで」
伊織が言った。「何だ」
「日本へ帰る方法」
アリアの手が止まる。クラウスは伊織を見る。「残っている」
短い答え。「本当に?」
「ああ」
「固定機構がなくても?」
「帰還機構と固定機構は別系統だ」
「使える?」
「今すぐは無理だ」
「壊れた?」
「違う」
クラウスは操作卓へ向かう。表示。境界座標。日本。数値。伊織には読めない部分も多い。
「お前の世界へ繋がる座標は残っている」
「なら」
「再接続できる可能性はある」
「確率は」
「今は出せない」
「時間は」
「分からない」
「またか」
「嘘を言うよりいい」
「それはそうだ」
アリアは何も言わない。伊織を見ることもしない。机の上の菓子を見ている。
「聞かないのか」
伊織が言う。「何をです」
「帰るか」
「今、決めますか」
「いや」
「なら聞きません」
「怖くない?」
アリアは少し黙った。「怖いです」
正直だった。「あなたが帰ると言うかもしれない」
「ああ」
「それでも」
紫の瞳が伊織へ向く。「私が決めることではありません」
クラウスが二人を見る。何も言わない。
「でも」
アリアは続ける。「決めるまでの時間は、一緒にいます」
伊織は答えなかった。必要がなかった。今すぐ帰るか。残るか。選べる。その時間がある。それでいい。
「東」
クラウスが言う。「何だ」
「もし帰るなら」
「ああ」
「私も見届ける」
「帰らないのか」
「私はもういい」
「日本」
「ああ」
「本当に?」
クラウスは桜の写真を見る。昔の日本。もうない時間。
「帰りたかった」
老人は言った。「ずっと」
「ああ」
「だが、帰りたい場所と、今帰る場所は同じとは限らないらしい」
伊織は少しだけ笑う。「誰に教わった」
「面倒な男と王女と犬だ」
「犬まで?」
クロが鼻を鳴らす。「本人が入れろと言っている」
「都合がいいな」
アリアが笑う。「それから」
クラウスは焦げた菓子を持ち上げる。「これを作る女も」
「次は焦がしません」
「まだ期待していない」
「待つのでしょう」
「......ああ」
◆
夕方。食堂。ゼクトの姿はもうなかった。黒い旗も。東部へ出た。エルマはギルドへ戻った。アルドは王城。クラウスは研究室。それぞれの場所へ戻った。
伊織はいつもの席へ座る。クロが足元。アリアが向かい。リナが皿を置く。
「今日は?」
「シチュー」
「また?」
「嫌なら食べなくていい」
「食べる」
「素直」
アリアの前にも皿。「甘い物は」
「あとで」
「何ですか」
「食べてから」
「気になります」
「待って」
待つ。アリアは少しだけ考え、それから頷く。「分かりました」
クロの皿。肉。黒い犬が食べ始める。伊織も。スプーン。湯気。
窓の外。王都。まだ瓦礫は残っている。鐘も一つ足りない。死んだ者も戻らない。南条も。それでも。誰かが明日の約束をする。また来ると言う。あとで話すと言う。次は焦がさないと言う。もう一杯と頼む。
伊織はシチューを口へ運ぶ。
「東さん」
「何だ」
「明日はどうします」
「明日?」
「はい」
伊織は少し考える。依頼。復旧。クラウス。日本。いろいろある。
「朝起きてから考える」
「予定がありませんね」
「悪い?」
「いいえ」
アリアは笑う。「なら、私もです」
「王女の仕事は」
「午後からです」
「午前は」
「ここにいます」
「そうか」
「嫌ですか」
「いや」
それだけ。
窓の外で、夕方の鐘が鳴った。遅れない。止まらない。一度。二度。いつもの間隔。
クロが皿から顔を上げる。リナが厨房で鍋を混ぜる。アリアが次の一口を食べる。伊織も。
帰る場所という言葉は、口にしなかった。もう、確かめる必要もなかった。明日の飯の話をする者がいる。それで十分だった。




