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第137話 暴走

伊織は引き金を引いた。銃声は一発。乾いた音が、白い中枢へ短く響く。弾丸はクラウスへ向かわない。赤い点にも。その横。物理解除と書かれた小さな金属レバーの根元へ当たった。火花。レバーが跳ねる。下へ。


『中枢接続を切断』


日本語の表示。次の瞬間、クラウスの身体から白い線が消えた。首元。左目。両腕。輪へ繋がっていた光が、一斉に途切れる。


「クラウス!」


アリアが老人の腕を引いた。固定されていた二人の身体が、重力を思い出したように床へ落ちる。アリアは膝をつく。クラウスも。老人の身体は軽かった。五十年を生きた人間とは思えないほど。


伊織は右手から拳銃を落としかけた。傷。激痛。一発撃った反動だけで、肩の奥が裂ける。指が開く。それでも、銃は消さない。左手へ持ち替える。


「クロ!」


固定波の前。黒い犬の身体が床へ沈みかけている。白い光。境界。アリアがクラウスを引きずりながら、クロへ片手を伸ばす。


「もう少しです!」


通常魔力。残り。薄い。それでも流す。クロの前脚が動く。一歩。白い波から抜ける。黒い身体が床へ転がった。伊織が左腕で抱える。


「クロ」


鼻が鳴る。弱い。だが、意識はある。「よくやった」


尾が一度だけ動いた。固定機構の白い輪が暗くなる。王都の像。市場。北門。食堂。採石場。止まっていた人々が、同時に息を吸った。馬車の車輪が回る。火が揺れる。水が落ちる。音。世界へ戻る。


「止まった」


アリアが言った。「固定は」


クラウスが顔を上げる。白い輪を見る。明滅。不規則。「違う」


老人の声が掠れる。「何が」


伊織が尋ねた。「停止ではない」


輪の内側。表示。


『統括接続喪失』


『管理権限を確認できません』


『緊急制御へ移行』


白い文字。古代文字。日本語。複数の警告が重なる。


「安全装置では?」


アリアが言った。「安全装置ではある」


クラウスの顔から血の気が引く。「何に対する」


「固定出力の損失だ」


「失われると?」


「別系統へ逃がす」


表示が切り替わる。


『固定出力再分配』


「どこへ」


伊織が聞く。クラウスは答えない。答えられないのではない。見たくないものを見ている。


「クラウス」


「自律防衛系統」


声が震えた。「古代兵器へ流れる」


白い輪が強く光った。先ほどまでとは違う。内側へ集めていた光が、外へ走る。床。壁。配管。中枢から無数の線が伸びる。地上へ。採石場へ。換気塔へ。王城へ。地下通路へ。指揮機の胸部にも、太い光が流れ込んだ。


『最終防衛手順へ移行』


『固定出力を戦術系統へ転用』


「止めろ!」


伊織が叫ぶ。「できない」


「お前が作ったんだろ!」


「私は接続を切られた!」


「なら戻せ!」


「戻せない!」


クラウスが初めて声を荒げる。「統括権限が失われた! 施設は、私を管理者と認識していない!」


指揮機の胸部。白い輪が膨らむ。右盾を失った機体。姿勢補助を傷つけられたはずの巨体が、ゆっくりと直立する。床。壁。施設全体から力を受けている。


『管理対象を喪失』


『固定工程阻害要因を排除』


指揮機の左盾が持ち上がる。先ほどより速い。白い壁。伊織たちへ向く。


「アリア!」


「分かっています!」


彼女はクラウスの腕を掴む。引く。老人は足に力が入らない。伊織が左側から支える。右肩は使わない。クロは自力で立つ。


「研究室へ!」


「戻るのか」


「地上経路がある!」


クラウスが言う。「第一観測区画の奥だ!」


指揮機が踏み込む。盾。横薙ぎ。


「伏せろ!」


四人と一頭が床へ沈む。白い盾が頭上を通る。壁。機械。研究机の残骸。すべてをまとめて砕く。風圧。アリアの髪が広がる。クラウスの身体が転がりかける。伊織が外套を掴んだ。


「走れるか」


「五十年前なら」


「今を聞いてる」


「無理だ」


「正直だな」


「年齢だ」


指揮機が方向を変える。旋回。もう遅くない。固定出力が姿勢制御を補っている。学習。再構築。地上で得た戦術情報。すべてが統合されている。


「クロ」


黒い犬が指揮機へ向く。「行くな」


クロの耳が動く。「止めなくていい」


伊織は研究室の奥を見る。クラウスが示した扉。半開き。その先へ細い階段。


「通るだけだ」


クロが一度吠える。指揮機の観測が黒い犬へ向く。


『守護獣を高優先度対象へ設定』


クロは正面へ走らない。左。指揮機の周囲を回る。距離を保つ。注意だけを引く。


「今だ!」


伊織とアリアがクラウスを支え、扉へ走る。指揮機の盾がクロを追う。途中で止まる。学習している。陽動。クロを追えば、ほかが逃げる。


『侵入対象を再設定』


「早い!」


アリアが叫ぶ。指揮機が伊織たちへ戻る。胸部。白い輪。細い光が収束する。射撃。


「横へ!」


三人が別れる余裕はない。クラウスを残せば終わる。アリアが前へ出る。


「私が逸らします!」


「受けるな!」


「分かっています!」


風。真正面ではない。胸部の光の周囲。空気を渦へする。固定出力で動きを抑えられる。風の流れが鈍る。アリアの足が床へ滑る。


「動かない!」


「動かすんじゃない!」


伊織は指揮機ではなく天井を見る。配管。冷却。白い光の射線上。拳銃。左手。一発。配管の継手。クラウスが後付けした金属。破裂。冷却水が噴き出す。指揮機の胸部。白い光へ水が入る。蒸気。射線が僅かに散った。アリアの風がその蒸気を横へ押す。白い閃光が四人の右側を通過する。壁。消える。


「走れ!」


階段。クロも戻る。最後に伊織。指揮機が追う。扉へ左盾を入れる。広げる。壁ごと破るつもりだ。


「閉じられない!」


アリアが階段上から叫ぶ。「閉じなくていい!」


「追ってきます!」


「狭い」


指揮機の幅。階段。人間用。両盾を広げたままでは通れない。機体が盾を折り畳む。


「学習しています!」


「時間は稼げる!」


クラウスの足がもつれる。膝。アリアが支える。伊織が背中を押す。右肩へ響く。視界が一瞬暗くなる。


「東さん」


「止まるな」


「顔が」


「動いてる」


「それは聞いていません」


「あとで」


「必ずです」


「ああ」


階段。上。非常通路。白い壁ではない。古い石。王城以前からある避難路。クラウスが使えるよう改修したのだろう。壁には日本語の矢印がある。


『地上』


「出口は」


伊織が聞く。「王城北側の礼拝堂跡だ」


「採石場より近い?」


「近い」


「古代兵器は」


「地上へ出る」


「全部?」


クラウスは答えなかった。階段の途中。小さな観測盤。白い表示が浮かんでいる。王都全域。古代兵器の位置。採石場。換気塔。石材置き場。地上二十三体。すべての胸部が白く光っている。止まっていた機体。拘束された機体。地盤へ沈んだ機体。岩へ挟まれた機体。動き始める。縄を焼く。泥を蒸発させる。岩を砕く。固定出力。戦術系統へ再分配。


「強化されてる」


伊織が言った。「ああ」


「どれくらい」


「分からない」


「お前でも?」


「この運用は想定していない」


「安全装置なのに?」


「施設にとっての安全だ」


クラウスは表示を見る。「世界ではない」


採石場。ゼクト。鉄鎖団。白い機体が一斉に立ち上がる。換気塔。十三体。塔から離れ、王都へ向きを変える。石材置き場。七体。互いの進路を塞いでいた機体が、力任せに石材を砕き始める。北門。避難列。王都軍。すべてが進路上にある。


「どこへ向かってる」


アリアが尋ねる。「固定妨害要因」


クラウス。「何です」


「生きて動いているもの」


沈黙。「全部か」


伊織が言う。「ああ」


「殺さない設定は」


「失われた」


「なぜ」


「生命活動を維持する必要がない」


クラウスの声が震える。「固定工程を守るべき管理者が、もういない」


「お前だろ」


「施設は、そう認識していない」


観測盤。地上の一体。四脚型。避難列へ照準。背部の白い光。ゼクトたちが間へ入る。鉄鎖団。王都兵。盾。間に合わない。


「止めろ!」


伊織が盤へ手をつく。何もできない。映像だけ。白い射撃。地面。爆発。煙。人影が吹き飛ぶ。


「ゼクト!」


返事はない。観測盤の映像が揺れる。煙の中。黒い鎖の旗が立ち上がる。ゼクト。生きている。外套は破れている。隣の男を引き起こす。口が動く。音声はない。それでも分かる。死ぬな。前へ出るな。生きろ。


伊織は拳を握った。「戻る」


「地上へ出るところだ」


アリアが言う。「違う。戦場へ」


「その肩で?」


「ああ」


「無理です」


「無理でも行く」


「一人で決めないでください」


アリアの声が強い。伊織は彼女を見る。


「では、どうする」


「一緒に行きます」


「クラウスは」


「連れていきます」


「足手まといだぞ」


クラウスが言った。「自覚があるなら歩いてください」


アリアが返す。「厳しいな」


「あなたが始めたことです」


「ああ」


否定しない。クラウスは壁へ手をつき、立ち上がる。


「まだ止められる」


伊織が顔を向ける。「方法が?」


「ああ」


「何だ」


クラウスは観測盤を操作する。王都北東。山。古い観測施設。第一観測所。


「ここだ」


「第一観測所」


「知っているのか」


「行った」


古代兵器。最初の敗北。調査。クラウスの痕跡。


「地下に兵器があると言ったな」


「観測衛兵器だ」


「何が残ってる」


「分からない」


「お前が管理してたんじゃないのか」


「起動できなかった」


「なぜ」


クラウスは伊織を見る。「私には形が分からなかった」


「図面は」


「ある」


表示。第一観測所。地下格納区画。日本語の注記。


『長距離観測支援車両』


輪郭。多輪車両。後部。長方形の発射管。複数。伊織の呼吸が止まる。現実のものではない。だが、知っている。VR。Steel Requiem。長距離火力支援。敵集団の進路を面で封鎖する兵器。


「......MLRS」


クラウスの眉が動く。「知っているのか」


「ああ」


「私は使えなかった」


「なぜ」


「私はその兵器を知らない」


「図面がある」


「形だけだ」


クラウスは表示を拡大する。内部構造。発射制御。弾道補正。魔力変換。欠損。表示されない部分。


「古代施設は、異世界から来た記憶を読み取って機構へ形を与える」


「鋼鉄の具現と同じ?」


「似ている」


「なら、お前も」


「私はVRを知らない」


クラウスの声は静かだった。「戦場で使ったこともない。操作した記憶もない。形を理解しても、兵器として完成させられなかった」


伊織は図面を見る。VR。無数の戦闘。地形。射線。距離。再装填。面制圧。誤射。使い方を知っている。強さだけではない。危険も。


「俺なら使える?」


「分からない」


「またか」


「だが、お前しかいない」


白い表示。地上兵器二十三体。王都へ向かう。指揮機。背後の階段。まだ追ってくる。時間はない。


「第一観測所まで」


アリアが尋ねる。「地上へ出て、北東へ」


「距離は」


「馬なら一時間」


「ない」


伊織が言った。「別の道がある」


クラウスが盤へ触れる。地下。中枢。第一観測所。細い線。


「観測所間転送路」


「使えるのか」


「固定出力の逆流で不安定だ」


「行ける?」


「片道なら」


「帰りは」


「分からない」


アリアが伊織を見る。「行きます」


「聞く前に決めるな」


「一緒に決めるのでしょう」


「ああ」


「では、行きます」


「クロは」


黒い犬が伊織の脚へ身体を寄せる。疲れている。それでも、行く。


「クラウス」


伊織が言う。「何だ」


「お前も来い」


「私は」


「使えなかったんだろ」


「ああ」


「なら、使うところを見ろ」


クラウスの目が僅かに動く。「私が行って何になる」


「帰ってきたあと、説明してもらう」


「何を」


「全部だ」


「誰に」


「食堂で」


アリアが言う。「菓子の残りもあります」


クラウスは二人を見る。長い沈黙。背後。指揮機の足音が階段へ近づく。


「......分かった」


老人は答えた。「行く」


観測盤。転送路。クラウスが起動する。


『第一観測所への転送を準備』


『片道接続』


『復路保証なし』


白い円が床へ浮かぶ。


「また白か」


伊織が言う。「嫌いになったか」


「元から好きじゃない」


アリアが伊織の左手を取る。「何だ」


「転送中に離れないためです」


「クロは」


黒い犬が二人の間へ入る。クラウスも円へ足を乗せる。後ろ。指揮機が階段の下へ現れた。胸部。白い光。


『阻害対象を確認』


転送円が強く光る。


「クラウス」


伊織が言った。「何だ」


「任せると言え」


「なぜ」


「区切りだ」


「意味があるのか」


「落ち着く」


クラウスは一瞬だけ、伊織を見た。それから。


「......任せた」


指揮機の射撃。白い閃光。転送円。足元が消える。四人と一頭の身体が、光の中へ落ちた。


最後に見えたのは、観測盤の地図だった。王都へ向かう二十三体。それを食い止める黒い鎖の旗。止まりかけた世界が、もう一度動き始めていた。


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