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第136話 最後の明日

白い輪の前に、クラウスは立っていた。白い外套。痩せた背中。左目から首へ続く灰色の線が、輪から伸びる光と同じ周期で脈打っている。


巨大な固定機構は、研究室から見たときよりも近く、そして大きかった。直径は王城の塔より高い。輪の内側に何もない。空白だけ。だが、その空白の向こうへ王都が見えている。市場。北門。食堂。避難する人々。採石場。白い兵器。複数の場所が重なり、一枚の薄い膜の中へ映し出されていた。


ところどころで、人の動きが止まる。馬車の車輪。落ちる水。泣く子どもの口。数秒後、再び動く。固定はもう、試しに触れている段階ではなかった。世界を掴み始めている。


「来たか」


クラウスは振り返らない。「ああ」


伊織が答える。「遅かったな」


「道が混んでた」


「客を迎える準備はしていない」


「前はコーヒーがあった」


「もう冷めた」


「最初から不味かった」


クラウスの肩が僅かに動く。笑ったのかもしれない。


アリアは双剣を下ろしたまま、老人の背中を見ている。「止めてください」


クラウスは輪を見る。「それを言うために来たのか」


「いいえ」


「では」


「止めます」


アリアの声は静かだった。迷いはない。


「あなたが止めなくても」


「王統魔力は使い切った」


「知っているのですか」


「施設内で起きたことは見えている」


「なら、私たちがここまで来たことも」


「ああ」


「指揮機を倒していません」


「あれは追ってくる」


背後。遠くで轟音。研究区画の扉。指揮機が破壊を続けている。


「長くはない」


クラウスが言った。「対話の時間を作ったつもりか」


伊織が尋ねる。「違う」


「では」


「最後に、聞いておきたかった」


クラウスが振り返る。疲れた顔。怒りはない。怯えもない。五十年を終わらせようとしている者の顔だった。


「日本へ帰れるとしても、お前は残るのか」


アリアの指が僅かに動く。伊織はすぐには答えなかった。クラウスも急かさない。白い輪の中。王都の食堂。リナが鍋を混ぜている。その手が一瞬止まる。また動く。


「今、聞くのか」


「今しかない」


「答えで固定を止める?」


「止めない」


「なら意味がない」


「意味のない確認は、お前もするだろう」


グロック。薬室。弾倉。落ち着くための動作。伊織は僅かに目を細めた。


「見てたのか」


「五十年、観測を続けてきた」


「趣味が悪い」


「知っている」


伊織は輪の中を見る。日本。桜。南条。帰るはずだった場所。戻れるなら。戻りたいと思う部分は、今もある。消えたわけではない。消す必要もない。


「分からない」


伊織が言った。クラウスの表情は変わらない。「まだか」


「ああ」


「ここまで来ても」


「ああ」


「なら、なぜ私を止める」


「分からなくても、止められる」


「矛盾している」


「人間だからな」


クラウスの目が僅かに細くなる。「帰るか、残るか。まだ決めてない」


伊織は続ける。「でも、選べる時間は残す」


アリアを見る。クロ。白い輪。「俺だけじゃない。全員の」


「選択が世界を壊す」


「選択しなくても壊れる」


「固定すれば残る」


「止まったままな」


「死なない」


「生きてもいない」


「同じ話だ」


「同じ答えだからな」


クラウスは輪へ向き直る。「では、終わりだ」


「一つ聞く」


伊織が言う。「何だ」


「昨日の菓子」


クラウスの手が止まった。「食べたか」


「食べた」


「全部?」


「半分だけだ」


「残りは」


「研究室にある」


「なぜ」


長い沈黙。白い機構音。背後の衝撃。扉の亀裂が広がる。


「明日、食べるつもりだった」


クラウスが言った。声は小さい。


「次を作らない男が?」


「ああ」


「矛盾してるな」


「人間だからだ」


伊織は老人を見る。クラウスも。同じ言葉。違う答え。


「なら、まだ遅くない」


アリアが言った。「何が」


「戻ることが」


「どこへ」


「研究室です」


「そこを帰る場所と呼ぶのか」


「呼べます」


「一人だ」


「今は」


アリアは一歩前へ出る。「今後も一人とは限りません」


「甘い物を作れと?」


「次は焦がさないでください」


クラウスの目が僅かに揺れる。「王女殿下」


「アリアです」


「何?」


「今は王女として話していません」


彼女は老人を見る。「アリアと呼んでください」


クラウスは答えない。だが、目を逸らした。「無理だ」


「なぜ」


「もう起動した」


輪の光が強くなる。床。壁。クラウスの身体。すべてが白い線で繋がる。


『固定準備工程 第十段階へ移行』


声。世界全体へ。


『最終固定を開始』


白い輪の中で、王都が止まった。市場。北門。採石場。食堂。すべてではない。だが、広い範囲。人。火。風。動かない。


「クラウス!」


アリアが叫ぶ。「止めろ!」


伊織も。「もう遅い」


クラウスの身体が僅かに揺れる。首元の灰色の線が白く燃える。「私は中枢と接続した」


「解除しろ」


「できない」


「嘘だ」


「本当だ」


「お前なら、逃げ道を作ってる」


「作った」


「どこだ」


「使わないと決めた」


「決め直せ!」


クラウスの顔に、初めて苦痛が浮かぶ。輪の出力。五十年分の機構。すべてが老人の身体を通っている。


「もう一度、失敗するのか」


伊織が言う。「何?」


「次があるのに、自分でなくす」


「黙れ」


初めて。クラウスの声が荒くなる。「明日、残りを食べるんだろ」


「黙れ」


「焦げてるけどな」


「黙れ!」


白い輪が震えた。固定波。伊織たちへ向かう。


「クロ!」


黒い犬が前へ出る。黒い揺らぎ。白い波へぶつかる。完全には止まらない。境界が軋む。クロの脚が床へ沈む。


「無理です!」


アリアがクロの背へ手を置く。通常魔力。王統権限ではない。彼女自身の力。黒い揺らぎへ流す。


「使い切ったんじゃ」


「王統魔力です」


アリアは歯を食いしばる。「私の魔力は残っています」


「どれくらい」


「分かりません」


「止めろ」


「嫌です」


「アリア」


「一緒に決めると言いました」


白い波が近づく。クロ。アリア。二人の力。それでも押される。伊織の右肩。血。痛み。左手。拳銃。撃つ場所はない。クラウスを撃てば止まるか。分からない。中枢と接続している。殺せば固定が完成する可能性もある。


「撃て」


クラウスが言った。伊織の指が止まる。「何?」


「私を撃て」


「それで止まる?」


「分からない」


「なら撃たない」


「お前は拳銃を使うのだろう」


「今じゃない」


「何を待つ」


「撃つ意味ができるまで」


「遅い」


「お前よりは早い」


背後。轟音。研究区画の扉が破壊された。白い指揮機。両盾。胸部の輪。


『中枢侵入対象を確認』


『最終固定を支援』


指揮機が入ってくる。前。固定波。後ろ。指揮機。逃げ道はない。


「東さん」


アリアの声。苦しい。それでも、伊織を見る。「考えがありますか」


「まだない」


「本当に?」


「ああ」


「では」


彼女はクロの背から片手を離した。伊織へ伸ばす。「一緒に考えます」


「手を離せば押される」


「片方だけです」


「無理だ」


「できます」


アリアの右手。伊織の左手。重なる。魔力。彼女の通常魔力が、伊織へ流れ込む。背中からではない。手から。正面。直接。熱。アリアの呼吸。指の震え。全部が伝わる。


「これは」


「支えるためだけではありません」


アリアの紫の瞳。濃い。「私も戦います」


その言葉が、ようやく完成する。伊織の中へ魔力が流れる。鋼鉄の具現。黒い粒子。今までより重い。大きい。だが、何を出す。戦車。まだ違う。多連装ミサイル。ここではない。狭い地下。中枢。指揮機。固定波。必要なのは火力ではない。道。クラウスへ届く道。


「アリア」


「はい」


「指揮機を止める」


「どうやって」


「お前が開く」


「何を」


「盾の内側」


指揮機。両盾。胸部。姿勢補助は再構築されている。地上戦の情報も持つ。それでも、弱点はある。固定波を支援するため、胸部の輪が中枢へ出力している。防御と出力。同時にはできない。


「クロ」


黒い犬が唸る。「白い波を三秒だけ持たせろ」


鼻が鳴る。弱い。「二秒でもいい」


もう一度。アリアが伊織の手を強く握る。「私が指揮機へ行きます」


「一緒だ」


「また」


「最後まで」


「はい」


指揮機が進む。両盾。白い壁。伊織とアリアは走る。手を繋いだまま。クロが固定波を押し返す。一秒。指揮機の右盾。横薙ぎ。アリアが風を足元へ集める。二人の身体を沈める。盾の下。滑る。二秒。左盾が閉じる。挟む。アリアが双剣を片手で抜く。右剣だけ。盾の継ぎ目へ差し込む。風。内側。


「開きます!」


盾が僅かに浮く。伊織は拳銃を具現。左手はアリアと繋がっている。右手。傷。動かす。激痛。それでも握る。グロック17。右手。久しぶりの形。


「東さん!」


「一発だけだ!」


盾の内側。姿勢制御の発光部。アリアの風が位置を示す。一発。銃声。白い光が弾ける。指揮機の右盾が落ちた。


三秒。クロの身体が固定波へ押される。前脚が止まりかける。


「クロ!」


伊織とアリアが指揮機の横を抜ける。クラウス。中枢。距離十メートル。指揮機が左盾を振り返す。伊織の背中。アリアが伊織の手を引く。風。半歩。盾が外套を掠める。右肩。痛み。視界が白くなる。


「東さん!」


「行け!」


「一緒です!」


クラウスが二人を見る。目が見開かれている。手を繋いだ二人。クロ。指揮機。固定波。


「なぜ」


老人が呟く。「なぜ、そこまで」


「帰る場所がある」


伊織が答える。「失うぞ」


「ああ」


「それでも?」


「ああ」


アリアも。「だから守ります」


クラウスの顔が歪む。怒り。悲しみ。羨望。何かは分からない。


「私は」


声が震える。「私は、戻れなかった」


「知ってる」


「待っている者はいなかった」


「今はいる」


「誰が」


アリアが答える。「私たちが」


クラウスの呼吸が止まる。「何?」


「研究室に戻ってください」


「できない」


「菓子が残っています」


「そんなもの」


「明日、食べるのでしょう」


固定機構が揺れる。白い輪。出力が僅かに乱れる。クラウスの迷い。中枢へ反映される。


「今です!」


アリアが叫ぶ。「何をする!」


「クラウスを連れ戻します!」


彼女は伊織の手を離した。老人へ走る。


「アリア!」


「任せると言いました!」


クラウスへ。白い線。中枢接続。触れれば固定される可能性。それでも止まらない。


「来るな!」


クラウスが叫ぶ。「私は固定されている!」


「まだ動いています!」


「触れば、お前も」


「一人にはしません!」


アリアが老人の腕を掴んだ。白い光。彼女の身体が止まる。指。髪。瞳。クラウスと同じ時間へ固定される。


「アリア!」


伊織の声。彼女は動かない。だが、クラウスの腕へ触れた手だけが、僅かに震えている。完全には止まっていない。通常魔力。最後の残り。彼の中へ流している。


「......戻りましょう」


アリアの声。途切れる。それでも届く。「明日が、あります」


クラウスの目から、一筋の涙が落ちた。落ちない。頬の途中で止まる。


「私は」


「はい」


「帰っても、いいのか」


「自分で決めてください」


アリアは答える。「でも、決める時間は残します」


クラウスの手が動いた。僅かに。中枢操作盤。白い光。指。


『緊急解除経路を確認』


伊織は表示を見る。日本語。


『中枢接続を切断』


その下。


『物理解除』


「どこだ!」


クラウスの目が伊織へ向く。声は出ない。視線。白い輪の根元。小さな赤い点。物理解除。手動。だが、指揮機が戻ってくる。右盾を失ったまま。左盾。胸部の輪。クロも限界。アリアはクラウスと固定されかけている。


伊織は赤い点を見る。距離。十五メートル。拳銃では届く。装甲。覆い。そのままでは壊せない。最後の一発。まだ。今ではない。


「伊織!」


クラウスが声を絞る。「撃て!」


赤い点ではない。その横。小さな金属レバー。物理解除。弾丸で押せる角度。拳銃。精密射撃。意味ができた。


伊織は息を吐く。グロック17。右手。血。痛み。スライド。薬室。確認。意味のない動作。落ち着く。南条。食堂。アリア。クロ。クラウス。全部を照準の外へ置く。残るのは、小さなレバーだけ。


指揮機が迫る。五メートル。クロが吠える。アリアの瞳が伊織を見る。クラウスも。


「撃て」


老人がもう一度言った。伊織は引き金へ指をかけた。


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