第135話 十五秒
指揮機は、動かなかった。通路の中央。高さは四メートルを超える。両腕へ備えた白い盾を左右へ開き、その奥で胸部の輪だけが静かに光っている。地上で戦った人型兵器よりも装甲は厚く、関節の隙間も少ない。
壁から伸びる光の線が、指揮機の背中へ繋がっていた。一本ではない。天井。床。左右の壁。施設全体が、目の前の一体を通して三人を見ている。
『戦術情報を統合』
無機質な声。
『砂塵による観測妨害』
『水分および泥による駆動阻害』
『地盤崩落』
『落下誘導』
『拘束』
『関節部への精密射撃』
『風圧による軌道偏向』
『守護獣による境界干渉』
使ってきた手が、一つずつ読み上げられる。
「全部、知っていますね」
アリアが双剣を構えた。「ああ」
「新しい手は」
「ない」
「言い切るのですね」
「便利な武器は増やさない」
伊織は左手の拳銃を下げた。撃てる場所がない。指揮機の観測部は、胸の輪そのもの。顔に見える場所には、光もレンズもない。関節も盾で覆われている。
アリアが風を流す。ごく細く。正面から。指揮機の周囲へ。装甲の隙間を探る。だが、風は機体へ触れる前に左右へ分かれた。
「弾かれます」
「盾?」
「違います。空気の流れそのものを制御しています」
胸部の輪。固定機構。指揮機の周囲だけ、空気の位置が動かない。風が届かない。
クロが低く唸る。黒い揺らぎが足元から広がった。指揮機の輪が一度だけ強く光る。
『境界干渉を確認』
『局所固定を開始』
「クロ、下がれ!」
黒い犬の前脚が止まった。床へつく寸前。身体の一部だけが空中へ留まる。クロが目を見開く。後脚は動く。前半身だけが時間から外れている。
「クロ!」
アリアが手を伸ばす。「触るな!」
伊織が止める。指揮機の胸部。白い輪から細い光がクロへ繋がっている。ベルタ村。夕食。走る途中で止まった王都兵。局所固定。
「線を切る」
伊織が拳銃を構える。狙いはクロではない。白い光。撃てるものかどうかも分からない。一発。弾丸が光の線へ触れる。通過。効果なし。二発目。指揮機の胸部へ。盾が閉じる。着弾。白い火花。装甲は抜けない。
『既知の攻撃を確認』
「撃つと思われていました」
アリアが言う。「それでいい」
「何がです」
「盾を閉じた」
指揮機の両腕。胸部を守るため、中央へ寄っている。その分、左右の通路が開いた。
「通るぞ」
「クロは」
「置いていかない」
「では、どうします」
「十五秒」
「先ほど決めました」
「残り十三秒だ」
「もう数えているのですか!」
伊織は左へ走った。指揮機を倒さない。胸部を撃った目的は一つ。盾を中央へ寄せる。身体の横を通るため。
『侵入経路を予測』
指揮機の左盾が開く。伊織の進路を塞ぐ。速い。読み切っている。盾の縁が壁へ当たり、通路を完全に閉じた。
「右!」
アリアが叫ぶ。自分は反対側へ走っている。二手。指揮機は右盾も開く。両方を塞ぐ。
「分かっていました!」
「俺たちが分かれることもな」
伊織は止まる。アリアも。指揮機の両盾。左右の壁へ届いている。胸部が開いた。白い輪。
「東さん!」
「撃たない」
「今なら胸部が」
「待ってる」
胸部の輪は、射線の中央にある。撃てば固定される。あるいは、拳銃の弾道そのものを止める。地上戦の情報を持っているなら、精密射撃も読まれている。
『攻撃待機を確認』
『次行動を予測』
「予測が好きだな」
伊織は拳銃を解除した。黒い粒子が散る。指揮機の輪が揺れる。
『武装解除を確認』
『脅威値を再計算』
伊織の脅威値が下がる。アリア。双剣。王統魔力。そちらへ比重が移る。指揮機の右盾が僅かにアリア側へ傾いた。
「私を狙わせるのですか」
「嫌?」
「いいえ」
アリアが一歩前へ出る。「支えるだけではありません」
まだ、その言葉を完成させる場面ではない。だが、同じ意志が声にある。
「何をします」
「攻撃するな」
「では」
「見せろ」
「何を」
「最後の王統魔力を使うと思わせる」
アリアの瞳が僅かに見開かれる。「実際には使わない?」
「ああ」
「騙せますか」
「お前が迷えば無理だ」
「迷いません」
アリアは双剣を胸の前で交差させた。銀色の魔力。最後の高出力。使えば中枢で必要な一回を失う。使わない。だが、使う寸前まで高める。紫の瞳が濃くなる。銀紫の髪が持ち上がる。指揮機の胸部が反応した。
『王統高出力を検知』
『最優先妨害対象を更新』
左右の盾が動く。アリアを囲むように角度を変える。左側。伊織側の隙間が広がる。
「今です」
「まだ」
「十分では?」
「クロが残ってる」
黒い犬の前半身。まだ固定。光の線は胸部から伸びている。指揮機の注意はアリアへ向いた。固定出力は維持されている。
「クロ」
伊織が呼ぶ。黒い目だけが動く。「自分で抜けられるか」
前脚は動かない。首も半分。それでも、黒い揺らぎが身体の内側へ集まり始める。外へ広げない。固定された自分と、動いている自分の境界。そこへ力をかける。白い光が強くなる。
『境界離脱を検知』
指揮機の胸部がクロへ出力を戻そうとする。
「アリア、もっとだ」
「使わずに?」
「ああ」
「難しいことを」
「できる?」
「できます」
銀色の光が膨らむ。王統魔力。最後の一線だけ越えない。使う寸前。留める。指揮機の盾がアリアへさらに寄る。固定出力がクロから薄れる。
「今だ!」
クロが吠えた。声が途中で途切れ、次の瞬間に繋がる。前脚が床へ落ちる。固定から抜けた。黒い身体が前へ転がる。
「クロ!」
伊織が走る。左腕で抱き起こす。黒い犬はすぐに立つ。足元は揺れている。
「行ける?」
鼻が鳴る。弱い。だが、動ける。
「十分だ」
『守護獣の固定解除を確認』
『対策を更新』
「次はない」
伊織が言う。「ここを抜ける」
指揮機はアリアへ向いている。伊織とクロは左。通路の隙間。広い。
「アリア!」
「先に!」
「一緒だ!」
「またですか!」
伊織はアリアへ走る。指揮機の背後へ抜けるなら、自分とクロだけで行ける。だが、アリアを残せば、最後の王統魔力を使わされる。それは駄目だ。
指揮機の盾がアリアを挟もうと閉じる。左右。巨大な白い壁。アリアは魔力を消した。ぎりぎり。使わない。
「東さん!」
伊織は拳銃を再具現する。左手。狙いは指揮機ではない。天井。壁から指揮機へ伸びる光の線。古代施設との接続。一発。弾丸は線を通過する。効果なし。だが、着弾した壁に小さな火花。金属板。クラウスが後付けした保守蓋。二発目。留め具。三発目。蓋が外れる。内部。配線。日本語。
『姿勢制御補助』
「姿勢制御?」
アリアが叫ぶ。「機体じゃない。床だ!」
指揮機は巨大だ。狭い通路で両盾を広げ、姿勢を崩さないため、施設側から補助を受けている。クラウスが追加した設備。古代の完全な構造ではない。
「クロ!」
黒い犬が開いた保守蓋を見る。伊織が撃った場所。古代施設と、後付けされた補助系統の境界。クロの黒い揺らぎ。広げる。切らない。接続を一瞬だけ浅くする。
『姿勢補助出力低下』
指揮機の身体が僅かに揺れた。盾。左右から閉じる。重い。姿勢補助が落ち、片側の盾だけが床へ擦れた。白い壁が止まる。
「アリア、下!」
彼女は迷わない。身体を沈める。止まった盾の下。滑り込む。双剣を身体へ寄せる。銀紫の髪が床を掠める。盾を抜ける。伊織も。クロ。三人が指揮機の背後へ回る。
『侵入阻止失敗』
指揮機が振り返ろうとする。姿勢補助なし。巨大な両盾。狭い通路。旋回が遅い。
「走れ!」
三人は中枢へ向かう。指揮機は追う。最初の一歩。床が沈む。姿勢を直す。二歩目。盾が壁へ当たる。速度が出ない。
「倒していません」
アリアが走りながら言う。「必要ない」
「通っただけ」
「ああ」
「十五秒は」
伊織は頭の中で数える。クロが固定された時間。アリアの陽動。姿勢制御の停止。
「二十一秒」
「超えましたね」
「六秒だけだ」
「私なら十五秒でした」
「次は任せる」
「覚えておきます」
背後。指揮機の胸部が強く光る。
『姿勢補助を再構築』
止まってはいない。追ってくる。「時間を稼いだだけですね」
「十分だ」
「今は?」
「ああ」
白い通路。研究区画。以前、クラウスと話した場所が近づく。壁の日本語が流れていく。
『冷却水』
『高圧注意』
『点検済』
その文字が、途中で止まった。伊織たちが止まったのではない。視界の中で文字だけが静止する。次に、壁の光。床。機械音。世界全体が薄く白くなる。
「来ます!」
アリアが叫ぶ。固定。第九段階。局所ではない。波。通路の奥から、白い膜のようなものが広がってくる。
「走れ!」
三人は速度を上げる。白い波。追う。壁の光が止まる。配管の振動が止まる。天井から落ちた埃が空中へ留まる。波との距離。二十メートル。十五。クロが先。アリア。伊織。右肩から血が落ちる。血滴。床へ届く前に、後方の白い波へ触れた。空中で止まる。
「東さん!」
「見るな!」
十メートル。前方。研究区画の扉。閉じている。
『第一観測区画』
認証盤。アリアが手を伸ばす。「通常権限で!」
銀色の光。
『王統権限を確認』
『最終固定工程を優先』
『開放を拒否』
「拒否されます!」
「手動は」
「見当たりません!」
白い波。五メートル。クロの尾が触れかける。黒い毛の先が一本だけ止まった。
「クロ!」
伊織が抱き寄せる。アリア。扉。最後の高出力王統魔力。ここで使えば開くかもしれない。だが、中枢で必要になる。
「使います」
アリアが言った。「待て」
「止まれば終わりです」
「一緒に」
伊織はアリアの手へ左手を重ねた。認証盤。彼女の掌。その上に伊織。
「魔力はないぞ」
「知っています」
「何ができる」
「一人で使わせないのでしょう」
「ああ」
「なら、支えてください」
アリアが最後の高出力を解放する。銀色の魔力。伊織の手を通り、認証盤へ流れる。直接、伊織へ注ぐ形ではない。だが、二人の手が重なっている。クロが足元へ身体を寄せる。三人。同じ場所。
『王統高出力を確認』
『固定工程との競合』
『権限判定を再実行』
白い波。一メートル。伊織の右肩。血。空中で止まる。痛みが消えた。違う。止まり始めている。
「アリア」
「まだです!」
認証盤が白く光る。
『第一観測区画を開放』
扉が左右へ動く。遅い。三十センチ。クロが先。アリア。伊織。三人が隙間へ身体を滑り込ませる。白い波が背中へ触れる。冷たくはない。熱くもない。ただ、何もなくなる。伊織の右肩。痛み。呼吸。音。一瞬だけ消えた。
アリアの手が伊織の左手を強く引く。「東さん!」
声。戻る。伊織は扉の内側へ倒れ込んだ。クロ。アリア。全員、動いている。扉が閉じる。白い波が外側で止まる。研究区画の内部は、独立した時間系統に守られている。
「全員」
アリアが息を切らしながら言う。「いますか」
クロが鼻を鳴らす。伊織は左手を上げる。「ああ」
「右肩は」
「痛い」
「なら動いています」
「そういう確認?」
「今は、それでいいです」
アリアは最後の王統魔力を使い切っている。呼吸が荒い。膝が僅かに震える。
「立てるか」
「立ちます」
「聞き方が違う」
伊織は左手を差し出す。「手を貸す」
アリアが見る。ほんの一瞬。それから掴む。「お願いします」
伊織が引く。二人で立つ。クロも。
研究室。机。欠けたカップ。桜の写真。誰もいない。代用品のコーヒーは冷えたまま残っている。机の中央。焦げた菓子の欠片。その横に、一枚の紙。日本語。
『中枢で待つ』
クラウスの字。短い。それだけ。
「待っているそうだ」
「読めるのですか」
「ああ」
「逃げなかった」
「ああ」
研究室の奥。白い輪へ続く扉が開いている。低い光。固定機構。クラウス。最後の場所。
背後では、指揮機が研究区画の扉へ到達した。轟音。一撃。白い扉が揺れる。
「長くはもちません」
「分かってる」
「王統魔力は使い切りました」
「分かってる」
「東さんの肩も」
「分かってる」
「クロも疲れています」
「それも」
「では」
アリアは伊織の手を離さない。「三人で行きます」
「ああ」
「誰も置いていかない」
「ああ」
指揮機。二撃目。扉へ亀裂。伊織は研究室を一度だけ見た。桜。工具。不味いコーヒー。五十年。帰れなかった男が残した生活。
「終わらせるぞ」
「止める、ではなく?」
「こいつの五十年ごとな」
アリアの指へ力が入る。クロが前へ出る。三人は、白い輪の光へ向かって歩き始めた。




