第132話 遅れる一滴
最初に遅れたのは、水だった。採石場の岩壁。亀裂から染み出した一滴が、落ちない。丸く膨らみ、重さに引かれながら、それでも石へ貼りついたまま揺れている。
伊織は一瞬だけ、そちらへ目を向けた。風が止まったわけではない。砂煙は流れている。人も動いている。白い古代兵器も、採石場の底をこちらへ進んでいる。それでも、水滴だけが時間から遅れていた。
「見たか」
エルマーが言った。「ああ」
「固定が始まってる?」
「部分的にな」
水滴が落ちた。遅れて。石へ当たり、弾ける。音も、ほんの僅かに遅れて届いた。
『固定準備工程 第七段階』
空から降る声。同じ言葉。だが、もう準備だけではない。世界の端から、試しに指をかけ始めている。
「三分だ!」
ゼクトの声が砂煙の向こうから響く。「三分で何をする!」
伊織が返す。「片づけると言った!」
「方法は!」
「今から考える!」
「俺の真似をするな!」
「使えるものは使う!」
七体の古代兵器が動く。盾機一体。刃を持つ人型三体。採石場南側に分断された人型一体。四脚型三体。正確には、七体が同じ場所にいるわけではない。岩棚へ固定した一体。落下から再起動した一体。北壁側へ取り残された一体。戦列として動ける数は七。それでも、正面から相手をするには多すぎる。
盾機が前へ出た。泥と砂を蒸気で吹き飛ばしながら、伊織へ向かってくる。左腕は動かない。だが、右腕と脚は生きている。
『戦術情報を更新』
『拘束を回避』
足元を確かめるように歩く。崩れかけた石を避ける。水溜まりを踏まない。
「本当に全部覚えてるな」
エルマーが言う。「だから別のことをする」
「何を」
「動かさない」
「もう動いてる」
「自分から止まらせる」
伊織は盾機の進路を見る。採石場中央。地面に敷かれた古い石板。採石した岩を運ぶため、かつて滑車台が置かれていた場所。中央に太い鉄環が埋め込まれている。錆びている。だが、地下深くへ固定されている。
「エルマー」
「何だ」
「あの鉄環まで引く」
「何で」
「こいつに持たせる」
エルマーは盾機を見る。「武器を?」
「縄だ」
「拘束は学習された」
「縛らない」
伊織は鉄鎖団へ左手を上げる。「長縄を出せ!」
「何本!」
「三本!」
「また引くのか!」
「今度は敵に引かせる!」
鉄鎖団の者たちが動く。荷車用の太い縄。三本。端を鉄環へ通す。輪にはしない。長く伸ばし、採石場中央へ置く。
「ゼクト!」
「聞こえてる!」
「盾機の右腕へ絡めろ!」
「どうやって!」
「近づけ!」
「斬るなと言っただろ!」
「縄は斬ってない!」
「理屈が細かい!」
ゼクトと鉄鎖団が盾機の左右へ散る。黒い旗。盾を叩く。石を投げる。古代兵器の観測光が動く。脅威判定。最も近い者へ右腕を振る。ゼクトが避ける。拳が地面へ当たる。岩が砕ける。
「今だ!」
鉄鎖団の二人が縄を投げる。右腕。手首。一周。締めない。端を持ったまま走る。盾機が腕を引く。縄が鉄環を通り、反対側の端を引いた。
「放せ!」
男たちが縄から手を離す。盾機は、自分の腕へ絡んだ縄を外そうと引く。鉄環。地面。固定。縄だけが張る。古代兵器がさらに力を入れる。鉄環の周囲で石板が軋む。
「止まらないぞ!」
エルマーが叫ぶ。「まだだ!」
二本目。左脚。動かない左腕ではない。右脚の膝下。縄を掛ける。古代兵器が踏み出す。自分で縄を引く。二本が交差する。右腕を引けば右脚が後ろへ引かれ、右脚を進めれば腕が下へ落ちる。動くほど、自分の動きを邪魔する。
『動作干渉を検知』
盾機の歩みが遅くなる。「絡めただけか」
エルマーが言う。「拘束じゃない」
「似たようなものだろ」
「自分で締めてる」
三本目。腰。鉄環を通さない。採石場中央の古い滑車台へ回す。盾機が身体を捻る。縄。右腕。脚。腰。別々の方向へ張る。白い巨体が止まった。
「止まったぞ!」
鉄鎖団から声。「近づくな!」
伊織が叫ぶ。
『障害除去を開始』
盾機の右手が縄を掴む。引き千切ろうとする。「長くはもたない」
「一分?」
エルマー。「三十秒」
「短くなったな」
「十分だ」
盾機は倒す対象ではない。壁。障害物。後ろから来る刃機の進路を塞ぐ。一体目の刃機が、盾機の横を抜けようとする。狭い。右。岩。左。張られた縄。速度が落ちる。
「王都兵!」
岩棚の上。弓兵と魔術師が構える。「関節だけ狙え!」
矢。火。氷。装甲を破る必要はない。刃機の観測光へ光を重ねる。足元へ氷を作る。肩の継ぎ目へ矢を集中させる。動きが乱れる。
伊織は拳銃を構える。左手。距離。三十メートル。刃機の足首。アリアが見つけた内側。一発。二発。古代兵器が足を引く。倒れない。だが、進路が右へずれる。そこへ盾機の縄。刃機の脚が引っかかる。白い巨体同士がぶつかった。
「今だ!」
土魔術師が地面へ手を当てる。盾機の右側。古い運搬溝。薄い石板。崩す。二体の重さ。地面が沈んだ。腰まで。完全には落ちない。だが、脚が埋まる。
『地盤障害』
『脱出経路を再計算』
「二体止めた!」
誰かが叫ぶ。「止めただけだ!」
伊織は返す。次。刃機二体。一体は正面。一体は岩棚沿い。別々に動く。学習済み。同じ穴へ近づかない。
ゼクトが伊織の横へ戻る。「次はどうする」
「お前が考えろ」
「指揮を投げるな」
「三分で片づけるんだろ」
「二分経った」
「あと一分だ」
「足りんな」
「延長する?」
「気に入らん」
「なら考えろ」
ゼクトは二体の動きを見る。刃。盾なし。速い。岩棚沿いの一体は王都兵を見ている。正面の一体は伊織とゼクト。
「上の兵を下げる」
ゼクトが言った。「理由は」
「上を空にすれば、あいつは登る意味がない」
「登りかけてる」
「途中で止まる」
「そのあと」
「下を見る」
「何を見る」
「俺たちだ」
ゼクトは黒い旗を掲げる。「全員、北へ走る」
「どこまで」
「崩した退路の前」
「行き止まりだぞ」
「知ってる」
「挟まれる」
「だから、お前は別に動け」
「何をする」
「俺たちを追う二体の後ろへ回れ」
「簡単に言う」
「使えるものは使う」
伊織は一瞬だけゼクトを見る。「悪くない」
「褒めるな。気味が悪い」
ゼクトが旗を振る。「鉄鎖団、北へ!」
黒い旗。人。音。正面の刃機が反応する。岩棚沿いの機体も、上の兵士が退いたことで視線を下へ向ける。
『脅威対象を更新』
二体がゼクトたちを追う。北壁。行き止まり。伊織は西側へ走る。クロが並ぶ。
「分かってるな」
鼻が鳴る。二体の後方。刃機は速い。鉄鎖団との差が縮まる。ゼクトたちは北壁前で左右へ散る。古代兵器も分かれる。一体ずつ追う。
「今!」
伊織が西側の岩棚へ合図する。リゼ。風魔術師。両手を上げる。砂ではない。音。採石場の壁へ、鉄鎖団の足音を反射させる。左。右。背後。複数。刃機の観測光が揺れる。どの音を追うか選べない。
クロが一度吠える。黒い声。中央。二体の視線が揃う。その瞬間、鉄鎖団は伏せる。伊織は拳銃を撃つ。狙いは古代兵器ではない。北壁。すでに亀裂の入った岩。一発。二発。小さな欠け。意味はないように見える。
「リゼ!」
「分かっています!」
風が亀裂へ入る。押す。中から。岩が外へ膨らむ。土魔術師が反対側から地面を震わせる。崩した退路の上。残っていた岩塊。落ちる。二体の間。轟音。岩壁。古代兵器同士が互いを見失う。一体は東。一体は西。分断。
「今度は壁か」
ゼクトが立ち上がる。「片づいてないぞ」
「分けた」
「倒してない」
「役割を忘れるな」
「気に入らん」
それでも、ゼクトは笑っている。採石場内部。盾機と刃機一体は地盤へ沈んだ。刃機二体は岩壁で分断。岩棚に固定された一体。採石場底へ落ちた一体。残る。四脚型三体。そして、南側へ分断された人型一体。人型は動ける。だが、互いの視界が切れている。
「人型はしばらく動けない」
伊織が言う。「次は四脚だ」
南側。白い光。四脚型三体が、崩れた岩棚の向こうから射撃姿勢を取る。ゼクトが顔を顰める。「遠いな」
「近づくな」
「ではどうする」
「撃たせない」
「方法は」
伊織は答えようとした。そのとき。採石場の外。北門方面。鐘の音がした。一度。遅い。間。二度目。音と音の間隔が、途中だけ伸びる。まるで鐘を打った者の腕が、空中で止まりかけたように。
全員の動きが僅かに鈍る。ゼクトの外套。風に持ち上がった布が、落ちるまで一瞬長い。砂。空中へ浮いた粒が、その場で止まりかける。
「伊織」
ゼクトの声が低くなる。「来てる」
「ああ」
固定。世界へ近づいている。採石場の上空。白い柱が広がる。空の色が薄くなる。
『固定準備工程 第七段階』
同じ表示。進んでいないように見える。違う。第七段階の処理そのものが、範囲を広げている。
「時間がない」
エルマーが言う。「最初からだ」
「今はもっとない」
伊織は四脚型を見る。三体。遠距離。岩の向こう。撃たれれば、こちらの分断線が崩れる。だが、四脚型を止める方法は、まだない。
「ドローンは」
伊織が尋ねる。王都兵が答える。「上空で待機中です」
「換気塔側へ回せ」
「こちらは」
「目視できる」
「アリア様の状況を?」
「ああ」
連絡がない。十三体。王統魔力。換気塔。伊織は不安を口にしない。約束した。信じる。だが、知らないままでは指揮できない。
「接続する」
クロが伊織の脚へ寄る。「短くでいい」
黒い鼻が鳴る。伊織は拳銃を一度解除した。黒い粒子が散る。偵察ドローンへ意識を繋ぐ。視界。空。王都北東。換気塔。白い兵器。十三体。アリアの銀紫の髪。彼女は走っていた。風。王統魔力。白い光を背後へ引きながら。
十三体の内訳。人型十。四脚型三。そのうち人型四体が前。残り六体は換気塔周辺。四脚型は高所。アリアの隊は分かれている。護衛二人。風魔術師。元採石場作業員。全員、生きている。だが、追われている。旧運搬路へ入る予定だった。入れていない。古代兵器が先回りしている。
「東さん」
通信。アリアの声。伊織はドローンの音声を開く。「聞こえる」
『遅いです』
「悪かった」
『そちらは』
「十体を採石場へ入れた。六体は分断。四脚三体と人型一体が残ってる」
『十分ではありませんか』
「倒してない」
『倒す必要はないのでしょう』
「ああ」
『なら、十分です』
伊織は一瞬だけ息を吐く。「そっちは」
『予定どおりではありません』
「見えてる」
『十体が換気塔を守り、三体が私を追っています』
「違う。前に四体いる」
アリアが振り返る。ドローンの視界。岩場。白い影。
『一体増えています』
「先回りだ」
『分かっています』
「旧運搬路へ行くな」
『では、どこへ』
「東」
『王都へ戻ることになります』
「戻るんじゃない。外壁沿いへ流せ」
地図。伊織の頭の中。換気塔東側。古い水路。その先に、王都建設時の土捨て場がある。低い丘。狭い谷。
「土捨て場へ行け」
『採石場とは逆です』
「一度離せ」
『王統魔力を使いますか』
「一回だけ」
『三回使えるうちの?』
「そうだ」
『その後は』
「消して逃げろ」
『十三体は』
「全部連れていくな」
『何体を』
「三体だけ」
『先ほどと同じですね』
「できる?」
短い沈黙。アリアは走りながら、背後を見る。古代兵器。距離。風。
『できます』
「無理なら切れ」
『分かっています』
「本当に?」
『あなたよりは』
声に僅かな笑い。「戻れ」
『東さんも』
「ああ」
『約束です』
通信が切れる。ドローンの視界は残す。アリアは東へ進路を変えた。王統魔力。銀色の光が一度だけ膨らむ。換気塔を守っていた人型のうち三体が反応した。動く。追跡。残りは動かない。指揮機からの命令が優先されている。
「三体だけか」
伊織が呟く。それでいい。全部を引く必要はない。動かした三体を外へ出し、換気塔の守りを減らす。残る十体。まだ多い。だが、穴はできる。
「伊織!」
ゼクトの声で、意識を採石場へ戻す。四脚型。発光部。三体。こちらへ向いている。
「撃つぞ!」
白い光が膨らむ。伊織は視界接続を切る。拳銃を再具現する時間はない。
「全員、伏せろ!」
射撃。三本。採石場の岩壁。分断した岩。拘束していた古代兵器。すべてを白い光が飲み込む。轟音。砂。熱。伊織は地面へ伏せた。クロを左腕で抱える。右肩へ衝撃。視界が白くなる。音が消える。
数秒。いや。一秒。時間の感覚がずれた。顔を上げる。採石場。岩壁の一部がなくなっている。分断した古代兵器の姿が見える。盾機。刃機。拘束が外れている。四脚型の射撃が、自分たちの仲間まで解放した。
「最悪だな」
エルマーが土煙の中で起き上がる。「向こうも戦場を作り直した」
古代兵器。七体。再び視界を共有できる位置へ戻っている。砂。水。拘束。落下。岩壁。すべて学習済み。
伊織は立ち上がる。右肩が熱い。左手は空。黒い粒子。拳銃。再具現。
「次は」
ゼクトが聞く。「同じ手はなしだろ」
「ああ」
「何が残ってる」
伊織は採石場を見た。岩。水。砂。縄。全部使った。古代兵器は覚えた。なら。使っていないもの。人間。動き。役割。相手が学習した前提そのもの。
「覚えたことを利用する」
「どうやって」
「砂を避ける。水を避ける。落下を警戒する。拘束へ近づかない」
「それが?」
「進む道を選ばせられる」
伊織は白い兵器を見る。七体。それぞれが危険を避けるように立っている。砂のない場所。水のない場所。崩れていない地面。縄のない場所。安全だと判断した一本の線。全機が、自然にそこへ集まり始めている。採石場中央。古い運搬路。狭い。一直線。
「勝手に並んだ」
ゼクトが言う。「ああ」
「並べたのか」
「向こうがな」
伊織は拳銃を下げる。撃つ必要はない。
「次は、そこを使う」
遅れていた水滴が、ようやく地面へ落ちた。固定は近い。それでも、まだ時間は流れている。止まる前に。次の手を打つ。




