第128話 戦場を作る
最初に動いたのは、食堂だった。リナが鍋の火を強め、棚から残っていたパンをすべて出す。客席へ寄せていた机は再び中央へ並べられたが、食事を楽しむためではない。片側には水差しと布、もう片側には包帯と薬。奥の長椅子には、歩けない者を寝かせるための毛布が敷かれていく。
扉は開け放たれた。まだ避難命令が街全体へ届く前から、近隣の住民が集まり始めている。地下から響いた声を聞いた者。王城の灯りが一瞬消えたのを見た者。理由は分からなくても、何かが起きていると察した者。
「子どもと歩けない人は中へ!」
リナの声が食堂に響く。「荷物は一つだけ! 服より水! 食べられる人は、ここで食べてから行って!」
「北門が開くって本当か?」
「本当。馬車も来る」
「どこまで逃げればいい」
「それを決めるのは外の人。今は列を作って!」
不安を消す言葉ではない。だが、何をすればいいかは分かる。人は動き始めた。
伊織はその様子を見てから、地図へ向き直った。食堂の奥。長机を二つ繋ぎ、王都北部の地図を広げている。王城。北門。外壁。換気塔。岩場。古い採石場。その先に広がる荒地。地下から延びる保守路の位置は完全には分からない。先ほど通った排熱副路と換気塔の位置を基準に、伊織が記憶から線を引いていた。
右肩は固定されている。地図に印をつけるのも左手だ。
「地下中枢は、この辺りですか」
アリアが王城直下を指す。「多分な」
「また多分ですか」
「正確な距離を測ってない」
「足数は」
「数えてない」
「あなたらしくありませんね」
「古代兵器に追われながら数える余裕はなかった」
「それはそうですが」
アリアは換気塔から地下へ延びる線を見る。「追ってきた兵器は三体」
「ああ」
「最初に出会った時点で三体だけだったのでしょうか」
「違うだろうな」
「根拠は」
「三体で施設全体を守れるとは思えない」
地下の規模。複数の観測区画。白い輪。世界を固定する装置。自律防衛が三体で終わるとは考えにくい。
「クラウスは数を教えなかった」
伊織が言う。「聞きませんでした」
「聞いても答えなかっただろう」
「聞くべきでした」
「今さらだ」
「次からは聞きます」
「次があればな」
アリアの目が細くなる。「作るのでしょう」
「ああ」
「なら、あります」
伊織は地図へ視線を戻した。王都軍の軽装兵が三人。ギルドの代表が二人。エルマー。アルド。全員が机を囲んでいる。
「確認できた地下出入口は」
伊織が尋ねる。王都兵の一人が別の地図を広げた。「王城内に二か所。城壁内に四か所。北側換気塔を含めると七か所です」
「封鎖できるか」
「王城内は可能です。ただし、固定機構の影響で扉が王統権限を拒否する可能性があります」
「物理的には」
「古代素材です。通常の工具では破壊できません」
「塞ぐだけなら?」
「石材を積むことはできます」
「古代兵器が出てきたら崩される」
「はい」
「なら、塞がない」
アルドが伊織を見る。「全て開けるのか」
「違う。出たい場所を選ばせる」
「どうやって」
「脅威の差を作る」
伊織は七か所の出入口を順番に指す。「王城内は王統魔力と兵力が集中している。自律防衛から見れば、優先度が高い」
「そこへ集まるのでは?」
「近づかせない。王城側から固定機構へ干渉しない」
「見せかける?」
「ああ。王城の魔力出力を落とす」
アルドの眉が動く。「防壁もか」
「最低限まで」
「王都防衛が薄くなる」
「古代兵器は王都を攻めたいわけじゃない。固定機構への干渉を排除したい」
「北へ誘導するために、北側だけ干渉を強める」
アリアが言った。「そうだ」
「王統魔力を使いますか」
「使えるか」
「できます」
「負担は」
「王都全域を覆うよりは軽いです」
「どこで使う」
「換気塔の近く」
「駄目だ」
伊織は即答した。「なぜです」
「最初から標的になる」
「そのための囮でしょう」
「囮と餌は違う」
「同じです」
「違う」
「どう違うのですか」
「戻る経路があるのが囮だ」
アリアが黙る。「お前は干渉を始めたら、古代兵器が集まるまで動けない」
「風で距離を取れます」
「固定干渉を維持しながら?」
「......通常より遅くなります」
「囲まれたら終わりだ」
「では、どうやって王統魔力を」
「動ける場所で使う」
伊織は換気塔から北西へ指を滑らせた。古い採石場。王都建設時に石を切り出した場所。現在は使われていない。周囲を岩壁に囲まれ、出入口は南側の一本だけ。中央は広く、上から全体を見渡せる段差が残っている。
「ここへ誘導する」
「袋小路ではないか」
アルドが言う。「古代兵器にとってはな」
「我々にとってもだ」
「先に退路を作る」
伊織は採石場の北壁を指す。「この裏は?」
王都兵が地図を確認する。「細い谷へ続いています。岩壁を崩せば通路を作れるかもしれません」
「崩せる人間は」
「土属性の魔術師がいれば」
ギルド代表が頷く。「三人いる。採石場の地盤を知る元作業員も一人いるはずだ」
「通路を作れ。ただし、古代兵器が通れない幅にする」
「人と犬だけ?」
「装備を持った兵も通す。横幅一メートル半。高さ二メートル」
「崩れない保証はないぞ」
「補強できるか」
「木材が必要だ」
リナが食堂の向こうから声を上げた。「裏の倉庫に梁があるよ!」
全員が振り返る。「聞いてたのか」
「耳は動くからね」
「食堂の修理用では?」
「帰ってくる食堂が残るなら、また集めればいい」
伊織は一度だけ頷く。「借りる」
「返して」
「できるだけ」
「必ず」
アリアが伊織を見る。「必ず返す」
言い直す。リナは満足したように避難者へ戻った。
「採石場へ誘導したあと、どう戦う」
エルマーが尋ねる。「敵の数次第だ」
「分からないまま?」
「だから先に見る」
伊織はクロを見る。黒い犬は机の下で伏せている。疲れている。だが、耳は動いていた。
「クロを地下へ戻すのですか」
アリアの声が硬くなる。「戻さない」
「では」
伊織は左手を開いた。「鋼鉄の具現」
黒い粒子。小型偵察ドローン。以前から使ってきた、伊織の視界と接続できる機体。食堂の中へ低い駆動音が広がる。
「これを換気塔から入れる」
「遠隔操作の負担は」
アリアが聞く。「距離次第だ」
「地下中枢まで?」
「行かせない。古代兵器の出口と数だけ見る」
「視界接続は」
「短時間にする」
「一人で?」
「クロに安定してもらう」
黒い犬が顔を上げた。「疲れています」
「分かってる」
「それでも?」
「必要な時間だけだ」
アリアはクロを見る。クロも彼女を見る。しばらくして、黒い犬が立ち上がった。伊織の左脚へ寄る。
「無理なら止める」
クロが鼻を鳴らす。「本当に止めてください」
「ああ」
「東さんもです」
「分かってる」
「最近、少しではなく?」
「今回は最初から」
アリアはまだ疑っていたが、反対はしなかった。「偵察中、私が魔力を流します」
「負担が重なる」
「直接ではありません」
彼女は伊織の背中を指す。「流れを整えるだけです」
「前と同じ?」
「はい」
「分かった」
アリアの目が僅かに見開かれる。「素直ですね」
「必要だからな」
「必要なら、素直になれるのですか」
「多分」
「また」
「今は作戦が先だ」
伊織は地図へ戻る。「偵察結果が出るまでに、採石場を整える」
「罠は」
エルマーが尋ねる。「古代兵器の装甲に、普通の罠は効かない」
「落とし穴なら?」
「一度使った」
「学習されている」
アリアが言う。「ああ。足場崩しは警戒される」
「では、罠は使えない?」
「同じ罠はな」
伊織は採石場の地形を見る。石を切り出した段差。狭い進入路。上部の岩棚。
「敵を落とすんじゃない」
「何を落とす」
アルド。「視界を奪う」
「岩を落とすのか」
「倒すためじゃない。隊列を分ける」
古代兵器は学習する。盾機が前。損傷機を後ろへ置く。連携する。なら、一体ずつ倒そうとするより、互いを見えなくする。
「採石場入口の上へ、砕いた石と砂を積む」
伊織が言う。「敵が通過したら落とす」
「装甲には効かない」
「視覚と観測光は遮れる」
「熱や魔力で見る可能性は」
「ある。だから一種類に頼らない」
「風も使います」
アリアが地図へ指を置く。「砂を採石場全体へ広げられます」
「敵も学習するぞ」
「最初の一度で十分です」
「その間に隊列を切る」
「はい」
「王都軍は正面へ出さない」
アルドが言う。「では、どこへ」
「岩棚の上」
伊織は左右の高所を示す。「弓兵と魔術師は上。敵が登れない位置から、関節と発光部だけを狙う」
「通常の攻撃は通じないのだろう」
「倒さなくていい。向きを変えさせる。盾を上へ向けさせる」
「正面が空く」
エルマーが理解する。「そこを俺たちが?」
「まだ出る気か」
「腕一本なら動く」
「俺に言われたくない?」
「分かってるじゃないか」
「前には出す。ただし、止める役じゃない」
「何をする」
「敵を誘導する」
「囮か」
「戻る道は作る」
「ならいい」
エルマーは笑う。「簡単に言うな」
「お前が言った」
ギルド代表が地図へ別の印をつける。「冒険者は左右の岩棚へ分ける。近接は下へ置かない方がいいな」
「古代兵器が倒れたとき巻き込まれる」
「ああ」
「動ける連中は退路の警護へ。避難者と兵器の進路を交差させるな」
アルドが王都兵へ命じる。「北門から出す避難列は西へ流せ。採石場方面へ近づけるな」
「東門は」
「東へ。その後、南へ迂回させろ」
「貴族の馬車が道を塞ぐ可能性があります」
「軍が退かせろ」
「抵抗した場合は」
「馬を外せ」
「荷物は」
「捨てさせろ」
「陛下」
「人が先だ」
王都兵は頷き、食堂を出た。次々に命令が外へ流れていく。
伊織は地図へ残った空白を見る。採石場。王都軍。冒険者。アリア。クロ。自分。まだ足りない。古代兵器が三体なら戦える。十体なら。二十体なら。固定機構そのものが別の兵器を持っているなら。
「火力が足りない顔ですね」
アリアが言う。「分かる?」
「最近、少し」
「使うな」
「便利です」
「認める」
食堂の外。馬の蹄。先ほどより多い。一頭や二頭ではない。地面が低く震えている。避難用の馬車ではない。統制された騎馬の音。止まる。扉の外で誰かが声を上げた。
「道を開けろ!」
荒い。王都兵の声ではない。「負傷者が先だ! 馬を下がらせろ!」
別の声。今度はよく通る。聞き覚えがある。伊織は扉を見る。リナが先に開けた。夜明け前の街路。黒い鎖の旗。騎馬。革鎧。傷だらけの装備。先頭の馬から、一人の男が降りる。大柄。古い外套。腰には剣。以前より傷が増えている。それでも、口元の笑い方は変わらない。
ゼクトだった。
「遅かったな」
伊織が言う。「随分な挨拶だ」
ゼクトは食堂の中へ入る。伊織の右肩を見る。固定帯。顔を顰める。
「死にかけてるようには見えん」
「借りを取りに来たんだろ」
「ああ」
「なら、生きてる」
「それでいい」
ゼクトは地図を見る。王。王女。冒険者。避難者。食堂。誰にも頭を下げない。
「何と戦う」
「世界を止めようとしてる男と、そいつの古代兵器」
「面倒そうだ」
「帰っていいぞ」
「断る」
「なぜ」
ゼクトは黒い鎖の旗を親指で指す。「世界が止まれば、借りを取り立てられん」
「それだけか」
「十分だ」
鉄鎖団の男たちが次々に食堂の外へ並ぶ。三十ではない。騎馬の後ろ。徒歩。荷車。さらに多くの影。数は百を超えている。以前の鉄鎖団とは違う。装備は不揃い。身なりも。だが、視線は同じ方向を向いている。
「増えたな」
伊織が言う。「減った」
「何?」
「ついて来られない奴は置いてきた」
「百以上いるぞ」
「東部は広い」
「全員、鉄鎖団?」
アリアが尋ねる。ゼクトは彼女を見る。「違う」
「では」
「鉄鎖団に借りのある連中だ」
傭兵。村の自警団。元盗賊らしい者。獣人。旅商人の護衛。鉄鎖団そのものではない。それでも、ゼクトの旗を目印に集まってきた。
「借りを返しに?」
アリアが言う。「取りに来た奴もいる」
「どちらです」
「生きていれば、あとで決められる」
ゼクトは伊織を見る。「そうだろ」
「ああ」
「作戦を聞かせろ」
「俺が指揮する」
「気に入らんな」
「帰る?」
「断る」
「なら従え」
ゼクトの笑みが深くなる。「いいだろう」
大きな手が地図の端を押さえる。「ただし、一つ条件がある」
「何だ」
「一番危ないところを寄越せ」
「囮になるか」
「借りは高い方が取り立てやすい」
「死んだら取れないぞ」
「だから生きる」
東部編で交わした言葉。形を変え、王都の食堂へ戻ってきた。伊織は採石場の入口を指す。「ここだ」
「狭いな」
「古代兵器を通す」
「俺たちは」
「最後まで引きつける」
「何体」
「分からない」
「武器は効くか」
「ほとんど効かない」
「面白い」
「笑うところじゃない」
「効く敵なら、お前が一人で倒すだろ」
ゼクトは採石場を見た。「俺たちが必要なのは、倒せないからだ」
「そうだ」
「なら、やる」
迷いがない。だが、無謀ではない。伊織の説明を聞くまで剣へ手を伸ばさず、地形を見ている。以前のゼクトとは少し違う。
「鉄鎖団は入口で誘導」
伊織が言う。「正面戦闘はしない。接触したら離れる。追わせる」
「逃げろと?」
「生きろと言ってる」
「同じだ」
「違う」
「お前も細かくなったな」
「仲間が増えた」
言ってから、伊織は自分の言葉に気づいた。ゼクトも。アリアも。誰も何も言わない。クロだけが尾を床へ一度打つ。
「そうか」
ゼクトが言った。「なら、その仲間ごと借りに入れておく」
「高くなるぞ」
「望むところだ」
地図の上。最後の空白が埋まる。戦力は揃った。まだ敵の数は分からない。時間も足りない。勝てる保証などない。それでも、戦場の形は見え始めていた。
王都の地下から、再び低い振動が届く。今度は長い。食堂の窓が揺れる。天井から細かな埃が落ちる。
『固定準備工程 第六段階へ移行』
街へ響く声。外にいた者たちが空を見上げる。王城の下から、細い白い光が立ち上がった。夜明け前の空を、垂直に貫く。
「あと何段階だ」
ゼクトが聞く。「分からない」
「またか」
「十まであると考える」
「根拠は」
「管理番号は切りがいい方を使う」
「日本人の考えか」
「技術者の考えだ」
「なら、残り四段階」
アリアが白い光を見る。「四段階ある、ではありません」
「何?」
「四段階しかない」
伊織はドローンを左手へ乗せる。クロが立つ。アリアが伊織の背後へ回った。右肩へ触れない位置。背中へ掌を置く。
「準備は」
「できてる」
「無理なら止めます」
「ああ」
「私が決めます」
「分かった」
彼女の魔力が薄く流れる。直接満たすのではない。伊織の中で乱れかけた経路を整える。クロの黒い揺らぎが足元から重なる。偵察ドローンの羽根が回り始めた。
「見てくる」
伊織が言う。「何体いるか」
小さな機体が食堂を出る。夜明け前の空へ上がり、白い光の根元へ向かった。それを見送りながら、ゼクトが剣の柄へ手を置く。
「多い方がいい」
「なぜ」
「借りが大きくなる」
「取り立てる相手が残ればな」
「残す」
伊織はドローンの視界へ意識を繋ぐ。王都。北壁。換気塔。白い光。その周囲で、岩が動いていた。違う。岩ではない。地中から、白い装甲が次々に姿を現している。一体。三体。五体。さらに。視界の端で、数字が増える。
伊織は息を吐いた。「何体です」
アリアの手が背中にある。「今、十二」
「今?」
「まだ出てくる」
十五。十七。換気塔だけではない。王城北側の地面。古い水路。閉鎖された地下入口。複数の場所から白い機体が現れる。二十。その中に、形の違うものがいる。人型ではない。四脚。背部に長い発光機構。遠距離型。
「二十三」
「全部、採石場へ誘導できますか」
「やる」
「できるかではなく?」
「やるしかない」
ゼクトが笑う。「その答えは好きだ」
ドローンの視界。最後に、ひときわ大きな影が地下から上がってきた。人型。高さ四メートル以上。両腕に盾。胸部には白い輪。周囲の兵器が、その個体を中心に隊列を組み始める。指揮機。学習した戦闘を共有する中枢。
伊織は視界接続を切った。胸の奥が重い。アリアの魔力が流れを整える。クロが脚へ身体を寄せる。
「二十四」
伊織が言った。食堂が静かになる。「最後の一体は指揮機だ」
「勝てるか」
アルドが尋ねる。伊織は地図を見る。採石場。王都軍。冒険者。鉄鎖団。アリア。クロ。自分。
「今のままでは無理だ」
誰も目を逸らさない。「だから、変える」
「何を」
ゼクト。「作戦を」
伊織は地図の採石場へ、二本目の線を引いた。「二十四体を相手にする作戦へ」
夜明けが近づいていた。だが、王都の空は白い光に照らされ、朝より先に戦場の色へ変わり始めていた。




