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第127話 帰る場所

食堂の灯りは、遠くからでも分かった。王都の夜は明るい。街路には魔導灯が並び、王城の塔には白い光が浮かんでいる。それでも、伊織には食堂の窓から漏れる橙色だけが、ほかとは違って見えた。


王都の外壁を回り込み、人気の少ない裏通りへ入る。クロが先を歩く。足取りはいつもより遅い。古代兵器との戦闘では目立った傷を負っていないが、伊織の具現を支え、足場の接続を揺らし、最後まで索敵を続けた。疲労は隠せない。


アリアも黙っていた。換気塔を出てから何度か右肩の状態を確認されたが、伊織は「歩ける」とだけ答えた。そのたびに彼女の目が険しくなり、最後には何も言わなくなった。怒っている。その方が面倒だった。


「東さん」


「何だ」


「着いたら、すぐに処置します」


「分かってる」


「座ってから逃げないでください」


「どこへ逃げる」


「作戦を考えると言って、別の部屋へ行くかもしれません」


「しない」


「武器を確認すると言って外へ出るかもしれません」


「しない」


「本当に?」


「多分」


アリアが足を止めた。伊織も止まる。紫の瞳が暗い。


「今、多分と言いましたね」


「言ったな」


「約束しました」


「必ず処置する」


「なら、最初からそう答えてください」


「分かった」


「本当に分かっていますか」


「最近、少し」


「また、それですか」


クロが二人の間で座った。黒い頭が伊織を見る。次にアリア。どちらにも加勢しない。


「賢くなったな」


クロは視線を逸らした。「巻き込まれたくないだけです」


「犬にも分かるのか」


「あなたよりは」


食堂の扉が開いた。リナが立っている。手には木杓子。顔は笑っていない。


「おかえり」


「ああ」


「無事?」


「大体は」


木杓子が伊織の左肩へ飛んできた。避ける。後ろの壁へ当たり、乾いた音を立てる。


「避ける元気はあるね」


「投げるな」


「右に投げなかっただけ感謝して」


「見えてたのか」


「歩き方で分かる」


リナはアリアを見る。「開いた?」


「少し」


「少しではありません」


「どっちだ」


「私が見ます」


「私も」


「二人はいらない」


「必要です」


「必要だね」


伊織は食堂へ入った。客はいない。机は壁際へ寄せられ、中央に大きな地図が広げられている。王都。王城。北側の換気塔。地下水路。古い避難路。


エルマーが椅子へ座っていた。左腕には包帯。顔色は悪くない。ギルドから来たらしい男が二人。王都兵の軽装を着た若い女。その隣に、アルドがいる。王冠はない。白い外套も脱ぎ、地味な濃紺の服を着ている。王には見えなかった。疲れた父親には見えた。


「戻ったか」


アルドが言う。「ああ」


「アリア」


「無事です」


「そうか」


それだけ。アルドは娘へ近づかない。アリアも。互いに言いたいことがある顔をしている。それでも今は、王都の地下で起きていることが先だった。


「座りな」


リナが椅子を引く。「話が」


「座ってから」


「時間がない」


「血が出てる人の時間は、もっとない」


伊織は右肩を見る。防護服の下から、細い赤が脇へ流れている。


「増えてるな」


「自分の身体でしょう」


アリアに睨まれる。「分かった」


伊織は座った。防護服を脱ぐ。右肩の布が傷へ貼りついている。リナが湯を持ってくる。アリアは伊織の後ろへ回り、布を慎重に剥がした。


「痛む?」


「少し」


「嘘です」


「耐えられる」


「痛くないとは聞いていません」


リナが傷を見る。「縫い直すほどではない。でも、動かしたらまた開く」


「固定は」


「する」


「右腕を?」


「肩だけ。腕まで固めたら、この人は勝手に外す」


「するかもな」


「しますね」


「するね」


「二人で決めるな」


クロが伊織の足元へ伏せる。鼻先を靴へ押しつけた。


「三人です」


アリアが言う。「クロは何も言ってない」


「態度で分かります」


「便利だな」


「あなたの言い訳よりは」


傷を洗う。薬。布。肩を支える固定帯。アリアの手は慣れていない。それでも、力を入れる場所だけは正確だった。伊織が顔を顰めるたび、少し緩め、また締め直す。


「これで動かさないでください」


「戦闘になったら」


「左で」


「簡単に言う」


「今までしていたでしょう」


「そうだな」


「なら、できます」


最後の結び目。アリアの指が伊織の背中へ触れる。そこから、ごく薄い魔力が流れた。治癒ではない。傷を塞ぐほどの力でもない。具現で乱れた魔力の流れを整え、呼吸を楽にする程度。


「もういい」


「まだです」


「負担になる」


「これくらいなら」


手は離れない。背中。いつもの位置。伊織は何も言わなかった。アリアも。数秒。クロの呼吸が静かになる。


「終わりです」


ようやく手が離れた。「助かった」


「最初から素直なら、もっと早く終わりました」


「次はそうする」


「次を作らないでください」


リナが新しい服を投げる。「着て。話はそれから」


伊織は左腕だけで袖を通した。右はアリアが支える。「一人でできる」


「知っています」


「なら」


「手を出したいのです」


換気塔で聞いた言葉。伊織は黙って腕を通した。アルドが地図の前へ立つ。


「地下で何を見た」


伊織は食堂を見回した。全員がこちらを見ている。クラウス。帰還。ベルタ村。固定。話すことは多い。だが、順番を間違えれば混乱する。


「先に結論から言う」


伊織は言った。「王都の地下に、世界全体を固定する装置がある」


誰も口を挟まない。「固定?」


エルマーが尋ねる。「時間を止めるのか」


「完全には違う。呼吸も心臓も止まらない。老いない。病気も進まない。傷も悪化しない」


「それだけ聞けば、悪くない」


ギルドの男が言う。「動けない」


伊織が返す。「成長もしない。食べない。眠らない。新しく生まれない。固定中に意識がある可能性も消えてない」


男の顔が変わる。「解除は」


「クラウスは予定してない」


「永遠に?」


「装置が動く限り」


食堂の空気が重くなる。鍋の中で、煮込みが小さく鳴った。火は燃えている。湯気。匂い。時間が進んでいる音。


リナが鍋を見る。「こんなふうには、ならないってこと?」


「ああ」


「冷めもしない?」


「多分な」


「美味しくもならないね」


誰も笑わなかった。リナは木杓子で鍋を一度混ぜる。「嫌だね」


短い。それだけで十分だった。


「誰が動かしている」


アルドが尋ねる。「クラウス」


「本人が?」


「ああ」


「目的は」


「世界を残すため」


「止めることで?」


「変化が境界崩壊を広げると考えてる」


伊織は地図へ近づく。左手で王都地下を指す。「一か所を閉じれば、別の場所が開く。流れを制御しても、別の歪みが出る。五十年試して、固定だけが失敗しない方法だと判断した」


「正しいのか」


アルドの問い。「理論は正しいかもしれない」


伊織は答える。「結論が間違ってる」


「理由は」


「人を残すために、人が生きることをやめさせる」


アルドは黙った。アリアが地図の前へ進む。「固定機構はすでに動いています」


「予定は正午だった」


伊織が続ける。「だが、俺たちが王統権限を持ち込んだことで施設が干渉と判断した。起動を前倒しした」


「クラウスは止められなかったのか」


「止められた」


全員の視線が伊織へ集まる。「止めなかった」


アルドの目が細くなる。「奴の選択か」


「ああ」


「ならば敵だ」


「そうだ」


アリアがアルドを見る。「ですが、殺しません」


王と娘。視線がぶつかる。「理由を聞こう」


「生きて、間違いを認めてもらいます」


「そのために王都を危険へ晒すと?」


「違います」


アリアは退かない。「王都を守り、そのうえで生かします」


「両方できる保証はない」


「保証がないから、片方を捨てるのですか」


アルドの表情が硬くなる。「王は選ばねばならない」


「私も選びます」


「王女として?」


「一人の人間として」


食堂が静かになる。以前なら、アリアは父親の前で言葉を選んだ。今は違う。自分の判断を、自分の言葉で伝えている。アルドは長く娘を見た。


「成長したな」


「急に父親らしいことを言わないでください」


「事実だ」


「今は王として答えてください」


「厳しいな」


「誰に似たのでしょう」


アルドの口元が僅かに動く。「私ではないと言いたいが、無理があるか」


「分かっているなら結構です」


伊織は地図へ視線を戻す。「固定まで、どれくらいある」


軽装の王都兵が答える。「地下からの出力上昇は確認しています。ただし、王城側の観測盤は第三段階を示したままです」


「施設内では第四段階だった」


「表示が切り離されています」


「クラウスが?」


「自律機構の可能性があります」


伊織は考える。王都側の警備系統。クラウスの保守系統。古代施設の自律防衛。三つが完全には一致していない。


「正午より早いかもしれない」


「どれくらい」


アルド。「分からない。数時間。もっと短い可能性もある」


「王都民を避難させる」


「どこへ」


「外へ」


「世界全体を固定するなら、距離は意味がない」


「第一段階は王都からだろう」


「そう言ってた」


「なら、王都外へ出せるだけ出す」


「混乱する」


伊織が言う。「それでも動かす」


アルドは即答した。「選ばせるのですね」


アリアが言う。「クラウスとは違う」


「ああ」


「王都民へ真実を?」


「全部ではない」


「父上」


「固定機構と危険だけは伝える。境界理論まで広げれば、避難より先に暴動が起きる」


アリアは反論しかけ、止まった。「分かりました」


「納得したか」


「いいえ」


「それでも?」


「今は、避難が先です」


アルドは頷く。「王都軍を動かす。北門と東門を開く。貴族区画も例外にしない」


「反対する者が出ます」


王都兵が言う。「押し出せ」


「陛下」


「命令だ」


王の顔になっていた。「ギルドへも依頼する。子ども、老人、負傷者を優先。馬車をすべて徴用しろ」


「王城の防衛は」


「最低限でいい」


「陛下ご自身は」


「残る」


アリアの瞳が動く。「なぜ」


「王が先に逃げれば、誰も動かない」


「危険です」


「王女殿下に言われるとはな」


「今は娘として言っています」


「なら、父親として答える」


アルドはアリアを見る。「残る」


「頑固です」


「似たのだろう」


「認めません」


「あとで話そう」


あとで。次。クラウスが失った言葉。アルドは自然に使った。アリアも気づいたのか、反論せず目を伏せる。


「俺たちは地下へ戻る」


伊織が言った。「傷を負ったままか」


アルド。「時間がない」


「戦力は」


「必要だ」


「王都軍を出す」


「古代兵器は学習する。集団で正面から当たれば、被害が増える」


「ならどうする」


「戦場を作る」


伊織は地図へ線を引く。王都北側。岩場。換気塔。外壁。「地下で戦わない。外へ引き出す」


「可能か」


「自律防衛の目的は、固定機構への干渉排除だ。俺たちが中枢へ向かえば追ってくる」


「囮になる?」


「そうだ」


「一人で?」


「一人じゃない」


伊織はアリアとクロを見る。アリアが口を開く前に、伊織は続ける。「だが、三人でも足りない」


ギルドの男が地図へ近づく。「冒険者を使え」


「統率できるか」


「報酬次第だ」


「固定されたら使えないぞ」


「だから戦う」


エルマーも立ち上がる。「俺たちも出る」


「腕は」


「お前に言われたくない」


「確かに」


リナが木杓子を机へ置く。「私は?」


「残れ」


「即答だね」


「戦闘向きじゃない」


「分かってる」


「避難を」


「食堂を使う」


リナは地図の端を指す。「怪我人、子ども、動けない人。ここで一度集めて、北門へ送る」


「危険だ」


「どこも危険だよ」


「リナ」


「ここは食べる場所」


彼女は言った。「逃げる前に何か口へ入れる場所にもできる。帰ってきた人に食べさせる場所にも」


伊織は食堂を見る。机。椅子。鍋。クロの寝床。「守れるか」


「守るよ」


リナは笑わなかった。「そっちが帰ってくる場所を、空にしてどうするの」


伊織は答えなかった。言葉が胸の奥へ残る。帰る場所。空にしない。次の飯を作る。それがクラウスへの答えでもある。


食堂の外で、馬の蹄が止まった。誰かが扉を強く叩く。


「王都伝令です!」


軽装の兵士が扉を開ける。若い男が息を切らして立っていた。泥。外套。長距離を走ってきた馬の汗。


「陛下へ、東門から急報!」


「言え」


「東部方面より、武装集団が王都へ接近しています」


食堂の空気が変わる。「規模は」


「確認できた騎馬だけで三十。後続多数。黒い鎖の旗を掲げています」


アリアが伊織を見る。伊織も。「鉄鎖団」


アルドが名を口にする。「目的は」


「不明です。ただ、先行の使者がこれを」


伝令が一通の紙を出す。封は粗い。紋章ではない。鎖を模した黒い線。宛名。東伊織。伊織は左手で受け取った。短い。一行だけ。


『借りを取りに行く。死ぬな』


署名はない。必要もなかった。


「ゼクト」


アリアが言う。「ああ」


「借りを返す、ではないのですね」


「そういう男だ」


「敵ですか」


アルドが尋ねる。「今は違う」


「信用できるか」


「できない」


「なら」


「背中は預けられる」


アルドは伊織を見る。「矛盾している」


「ゼクトはそういう男だ」


紙を畳む。東部。鉄鎖団。まだ終わっていなかった約束。借りは、生きている者から取る。


伊織は地図へ戻る。「戦力は揃う」


「作戦は」


アリアが尋ねる。「これからだ」


「間に合いますか」


「間に合わせる」


地下から、低い振動が届いた。食器が僅かに鳴る。鍋の表面が揺れる。王都の灯りが一度だけ暗くなった。


『固定準備工程 第五段階へ移行』


どこからともなく、無機質な声が街へ響いた。全員が動きを止める。伊織は地図を見る。残された時間は、さらに短くなった。


「始めるぞ」


誰に向けた言葉でもなかった。それでも、食堂にいた全員が動き出した。


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