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第125話 止まった世界

半分に割られた菓子は、皿から消えていた。研究室へ入ったアリアが最初に見たのは、空になった小皿だった。欠けたカップ。開かれた手帳。白い輪を映す窓。その隣に置かれた皿には、焦げた生地の欠片だけが残っている。


「食べたのですね」


アリアが言った。クラウスは操作卓へ背を向けたまま答えない。「聞こえていますか」


「聞こえている」


「では」


「食べた」


「どうでした?」


「焦げていた」


「それは知っています」


「甘すぎた」


「それも昨日、分かっていたでしょう」


「一人で食べる物ではない」


アリアの口元が僅かに緩む。「なら、次は一緒に食べればいいのです」


クラウスの指が止まった。振り返らない。「次を作るのが好きだな」


「作らなければ、来ませんから」


「来ない方がいい明日もある」


「今日は、その話ですね」


「ああ」


クラウスは操作卓へ手を置いた。白い表示が立ち上がる。古代文字。数式。王都地下の立体図。その中央に、巨大な白い輪。伊織は窓の向こうを見る。昨日より明るい。輪の外周に沿って光が流れ、一定の間隔で中心へ集まっている。停止しているように見えて、内部では何かが準備を進めていた。


「いつから動かしてる」


「最低出力なら、十年前から」


「十年?」


アリアの声が硬くなる。「固定処理の試験をしていたのですか」


「部分的に」


「人へ?」


「最初は物だけだ」


クラウスが操作する。机の上へ小さな立体映像が浮かぶ。金属片。植物。水。それぞれが白い枠の中に置かれている。


「固定とは何です」


アリアが尋ねる。「状態を保存する」


「保存?」


「物質、魔力、時間座標。可能な限り同じ値へ留める」


「昨日の家族のように?」


「違う」


クラウスは即答する。「あれは境界同士が衝突し、局所的に時間が凍結した。制御されていない」


「あなたの固定は」


「時間を止めるのではない。変化を抑える」


「同じに聞こえます」


「違う」


クラウスの指が、植物の映像へ触れる。芽。小さな葉。白い枠。


『固定開始』


数字が流れる。一日。一週間。一か月。植物は枯れない。だが伸びない。葉の色も変わらない。土は乾かない。水も減らない。


「生きていますか」


アリアが聞く。「細胞活動はある」


「成長は?」


「しない」


「では、生きているとは」


「死んではいない」


「また、その答えですか」


「事実だ」


クラウスは次の映像へ切り替える。小動物。この世界の鼠に似ている。白い枠。呼吸。心拍。目は開いている。


「これは」


「固定試験、第三段階」


「意識は」


「ある」


「どうやって確かめた」


「固定前に刺激へ反応するよう条件づけた」


映像。小さな光。鼠が餌の置かれた側へ向かう。


『固定開始』


次の光。鼠は動かない。呼吸だけが続く。目は開いている。光を追わない。


「意識があるのに、動けない?」


「正確には、行動へ移せない」


「考えることは」


「測定できない」


「恐怖は」


「測定できない」


「痛みは」


「測定できない」


クラウスの声は変わらない。だが、その言葉を口にするたび、左手の指が少しずつ強く操作卓を押している。


「解除したら」


伊織が聞く。映像が進む。


『固定解除』


鼠の身体が跳ねる。すぐに餌へ走る。


「経過時間は」


「固定中の認識はないように見えた」


「ように?」


「確認できない」


「何日固定した」


「三十二日」


「解除後の異常は」


「なし」


「それで人にも使えると思った?」


「次を見ろ」


クラウスは別の記録を開く。人間。若い男。腕だけが白い枠の中へ入っている。指。皮膚。血流。


「志願者ですか」


「ああ」


「本当に?」


アリアの問いは昨日と同じだった。「説明した。拒否権も与えた」


「何を試したのです」


「局所固定」


白い光。男の右腕が動かなくなる。血流は保たれている。皮膚温も変わらない。クラウスが針を当てる。反応しない。解除。男が腕を動かす。手を握る。開く。


「痛みは」


「固定中はなかった」


「感覚も?」


「なかった」


「意識は全身にあった?」


「ああ」


「腕だけが、自分のものではなくなった?」


クラウスは少し黙る。「そう表現した」


「誰が」


「本人が」


記録音声。


『腕はある』


男の声。


『見える。触れられる。でも、俺の今にはいない』


伊織は映像を見る。動かない腕。生きている。死んでいない。だが、本人の時間から切り離されている。


「全身固定は」


伊織が尋ねた。「二人」


クラウスの答えは短かった。アリアの顔が強張る。「二人も」


「一人目は十二秒」


映像。中年の女。白い台。周囲に古代装置。クラウスは今より若い。女性と何度も確認を交わしている。


「目的は」


「致命傷の治療猶予を作るためだ」


女性の腹部。深い傷。出血。治癒術師が間に合わない。


「固定すれば、悪化しない」


「ああ」


「救うため」


「ああ」


『固定開始』


白い光。出血が止まる。傷は閉じない。血液が流れ出る寸前の形で留まる。女性の目が開いたまま動かなくなる。十二秒。


『解除』


治癒術。傷が閉じる。女性が息を吸う。成功。


「助かった」


アリアが言った。「ああ」


「では、固定にも使い道は」


「ある」


「なら、なぜ世界全体へ」


「二人目を見ろ」


映像が切り替わる。老人。痩せている。寝台。呼吸は浅い。


「病人?」


「老衰だ」


「固定したのですか」


「ああ」


「なぜ」


「本人が望んだ」


「何を」


「家族が到着するまで、生きていたいと」


アリアは黙る。老人の手。皺。指先。隣に誰もいない。


「家族は遠方にいた。到着まで四日」


「通常なら」


「一日も持たなかった」


『固定開始』


老人の呼吸が同じ位置で止まる。死んでいない。動かない。四日。映像の時刻だけが進む。家族が到着する。娘。孫。寝台の周囲へ集まる。


『解除』


老人が息を吐く。目を動かす。娘を見る。口元が僅かに動く。家族が泣く。老人も。数分後。呼吸が止まる。映像が終わった。


「救えたじゃないですか」


アリアが言う。「時間を与えた」


「それも救いです」


「ああ」


「なら」


「だからだ」


クラウスの声が低くなる。「固定は悪ではない」


「使い方による、と」


「そうだ」


「でも、あなたは全員へ使う」


「ああ」


「望まない人にも」


「ああ」


「そこが違う」


「知っている」


「なら、なぜ」


クラウスは王都の立体図を拡大する。家。通り。人。十万人。


「境界崩壊が本格化した場合、選択の時間はない」


「今はある」


「今だけだ」


「だから今、全員へ説明すれば」


「混乱する」


「拒否されるから?」


「それもある」


「では、自分の計画を通したいだけです」


「そうだ」


否定しない。アリアの目が僅かに見開かれる。「認めるのですね」


「正しいことだけで世界は救えない」


「間違ったことなら救える?」


「残せる」


「何を」


「今を」


クラウスの指が立体図へ触れる。市場。子ども。パンを焼く女。兵士。老人。眠る犬。


「誰も老いない」


映像が止まる。「病気も進まない」


治療院。負傷者。「飢えない」


食料。減らない。「争いも起きない」


兵士たち。動かない。「境界も広がらない」


白い輪。固定。


「王都だけ?」


伊織が聞く。「最初は」


「その後」


「範囲を広げる」


「世界全体へ」


「ああ」


「何年かかる」


「四十年」


「その間、王都以外は」


「順番に固定する」


「抵抗する」


「するだろう」


「殺す?」


「殺さない」


「動けなくする?」


「ああ」


「同じだ」


「違う」


「本人から見れば同じだ」


クラウスは答えない。伊織は王都の模型を見る。時間が止まったように見える街。死なない。壊れない。だが、誰も次の飯の話をしない。誰も次の朝を待たない。約束は守られない。破られもしない。ただ、その瞬間だけが永遠に続く。


「子どもは育たない」


伊織が言う。「ああ」


「新しく生まれない」


「ああ」


「死者も出ない」


「ああ」


「誰も何も選べない」


「選択が破壊を生む」


「生きることも」


「生きることは変化だ」


クラウスの声は静かだった。「変化は損失を伴う」


「だから全部やめる?」


「ああ」


「怖いから」


アリアが言った。クラウスの目が彼女へ向く。「昨日と同じことを」


「昨日より分かりました」


「何が」


「あなたは世界を守りたいのではありません」


「では」


「もう失いたくないだけです」


クラウスは黙る。「ベルタ村の家族も」


アリアが続ける。「帰れなかった人たちも。妻も、子どもも。すべて、あなたの中で止まったままなのでしょう」


「何が言いたい」


「世界を止めれば、自分だけ置いていかれずに済む」


空気が冷える。伊織はアリアを止めなかった。厳しい。だが、誰かが言わなければならない。


「残酷だな」


クラウスが言う。「はい」


「王女らしくない」


「一人の人間として話しています」


「昨日と同じか」


「ええ」


「なら、私も人間として答える」


クラウスは操作卓から手を離す。「その通りだ」


アリアの呼吸が止まる。「私は置いていかれた」


桜の写真。日本。家族。時間。「世界は私を待たなかった」


声は低い。「妻も、子も、友人も、国も。私が戻る方法を見つけるまで、勝手に時間を進めた」


「当然です」


「ああ」


「それを恨んでいる?」


「分からない」


「なら」


「だが、もう見たくない」


クラウスは白い輪を見る。「誰かが、次へ進むたびに何かを失うのを」


「失うだけではありません」


アリアの声が強くなる。「得ることもあります」


「失ったことがない者の言葉だ」


紫の瞳が暗くなる。「あります」


アリアは即答した。「何を」


「自由を」


研究所。王家。実験。「自分が誰なのかも、長く分かりませんでした」


伊織は彼女を見る。アリアはクラウスから目を逸らさない。「それでも、全部止めたいとは思いません」


「取り戻せたからだ」


「違います」


「何が」


「取り戻せていません」


アリアの声は静かになる。「失った時間は戻りません。研究所にいた子どもも。父上に聞けなかった言葉も。全部、戻りません」


「なら、なぜ」


「今があるからです」


アリアは伊織を見る。クロ。そして自分の手。「新しく得たものがある」


クラウスの目が伊織へ向く。「その男か」


「それも、私が決めます」


頬は僅かに赤い。だが、引かない。「クロも。町も。食堂も。次の朝も」


「失うかもしれない」


「はい」


「怖くないのか」


「怖いです」


「なら」


「それでも、止めません」


アリアは一歩前へ出る。「怖いから生きない、という方が怖い」


クラウスは彼女を見た。長い。何かを探すように。やがて、僅かに目を伏せる。「若い」


「昨日も聞きました」


「若さは、可能性を過大評価する」


「老いは、失敗を過大評価するのですか」


クラウスの口元が僅かに動いた。「言うようになった」


「最初からです」


「そうだったな」


伊織は王都模型へ近づく。「固定中の人間は、意識がある可能性がある」


「ああ」


「動けない」


「ああ」


「解除されるまで」


「ああ」


「解除する予定は」


「ない」


アリアの顔が変わる。「永遠に?」


「機構が維持される限り」


「それは保存ではありません」


「では」


「監禁です」


クラウスは否定しない。「そう呼ぶ者もいるだろう」


「あなたは何と呼ぶ」


「避難」


「どこへ?」


「時間の外へ」


「戻れない避難は、避難ではない」


「世界が安定すれば解除できる」


「いつ」


「分からない」


「四十年後?」


「それ以上かもしれない」


「百年?」


「可能性はある」


「その間、全員が」


「変わらない」


「考えているかもしれないまま?」


「可能性はある」


クラウスはすべて答える。都合の悪いことも。隠さない。だからこそ、狂気がはっきり見えた。


「お前は、自分も固定する?」


伊織が尋ねる。「最後に」


「機構を動かすために残る」


「ああ」


「解除する人間は」


「必要ない」


「自分も戻れない」


「帰る場所はない」


「またそれか」


「事実だ」


「作る気は」


「ない」


「怖いから?」


「ああ」


クラウスは認めた。「また失うくらいなら、最初から作らない」


伊織は老人を見る。もし。アリアに会わなかったら。クロがいなかったら。食堂がなかったら。南条の言葉だけを抱え、何十年も帰れずにいたら。自分も同じ答えへ近づいたかもしれない。


「俺には分かる」


伊織が言った。アリアが伊織を見る。クラウスの表情も僅かに動く。「何が」


「作らなければ失わない」


「ああ」


「期待しなければ裏切られない」


「ああ」


「帰る場所を持たなければ、帰れなくても困らない」


「そうだ」


「楽だな」


「楽ではない」


「知ってる」


伊織は白い輪を見る。「それでも、間違ってる」


「理由は」


「失わないために、最初から全部捨ててる」


クラウスの目が細くなる。「捨ててはいない」


「未来を捨ててる」


「未来は損失を連れてくる」


「今もだ」


「何?」


「固定を始めれば、今を失う」


伊織は王都の模型を指す。「子どもは大人にならない。パンは焼き上がらない。約束した相手は来ない」


「残る」


「止まるだけだ」


「壊れない」


「使えない物は、壊れたのと同じだ」


クラウスの表情が硬くなる。「人間を物と同じにするな」


「お前がやろうとしてる」


沈黙。白い輪の振動だけが続く。伊織は老人を見る。「いつ起動する」


「明日の正午」


「今日じゃない?」


「ああ」


「なぜ待つ」


「固定処理の最終調整」


「本当に?」


「それもある」


「ほかは」


クラウスは答えない。アリアが机の端を見る。昨日の小皿。空。


「止めてほしいのですか」


老人の指が僅かに動く。「違う」


「本当に?」


「私は決めた」


「決めることと、迷わないことは違う」


クラウス自身が言った言葉。今度はアリアが返す。クラウスは彼女を見る。「覚えていたか」


「大切なことは覚えます」


「面倒なことは壁に書く?」


伊織が言う。クラウスの口元が僅かに緩む。「そうだ」


笑いはすぐに消える。「明日の正午だ」


「その前に止める」


伊織が言った。「ああ」


クラウスの返事は静かだった。「来ると思っていた」


「待ってる?」


「五十年待った」


「また言うのか」


「事実だからな」


「準備する」


「私もする」


「古代兵器を?」


「固定機構は、自律防衛を持つ」


「お前が俺たちへ向ける?」


「起動を止めようとすれば、施設が敵と認識する」


「解除できない?」


「できる」


「なら」


「しない」


明確な線。クラウス自身が攻撃するわけではない。だが、止めることもできる防衛機構を、止めない。それは選択だった。


「人が死ぬ」


「殺さない設定だ」


「事故は起きる」


「ああ」


「それでも」


「ああ」


「今の犠牲で、未来のすべてを残す?」


「そうだ」


アリアは双剣へ手を掛けなかった。今ここで斬れば、簡単かもしれない。だが、クラウスは武器を持っていない。まだ起動もしていない。そして何より、彼の身体だけを止めても、五十年かけて組み上げた機構が止まるとは限らない。


「明日まで、ここにいるのですか」


アリアが聞く。「ああ」


「逃げない?」


「どこへ」


「また、その答え」


「変わらない」


「変わる気がないのですね」


「それを守るための固定だ」


クラウスは操作卓へ戻る。会話は終わった。そう告げる背中。伊織は扉へ向かう。クロがついてくる。アリアは動かない。


「アリア」


「先に行ってください」


「何を」


「一つだけ聞きます」


伊織は止まった。アリアはクラウスを見る。「固定したあと、あなたは幸せですか」


クラウスの背中が止まる。「必要か」


「答えてください」


「幸福は、測定できない」


「科学者としてではありません」


長い沈黙。白い輪。研究室。桜。空の皿。「分からない」


クラウスが言った。「そうですか」


「失望したか」


「いいえ」


アリアは伊織の隣へ戻る。「まだ人間なのだと思いました」


三人は研究室を出た。白い通路。日本語の保守札。工具。誰かが次に直すためにつけた番号。そのすべてを残した男が、次をなくそうとしている。


扉が閉じる直前、伊織は振り返った。クラウスは窓の前に立っていた。白い輪。五十年前の桜。その間で、一人だけ時間を進め続けた男。


「明日の正午」


伊織が言う。「ああ」


「止める」


クラウスは振り返らない。「止めてみろ」


扉が閉じた。機械音が途切れる。アリアが息を吐く。「優しい人ですね」


「誰が」


「クラウスです」


「そうか?」


「本当に止められたくなければ、時間も防衛機構も教えません」


「罠かもしれない」


「それでもです」


伊織は閉じた扉を見る。「優しいから、危ない」


「ええ」


「自分が犠牲になることも、他人を止めることも、同じ顔で選ぶ」


「だから止めます」


アリアは言った。「殺さずに」


「ああ」


「できるでしょうか」


「考える」


「そのとき考える、ではなく?」


「今回は先に」


「少し成長しましたね」


「お前もな」


「何がです」


「前に出るようになった」


アリアの目が僅かに見開かれる。「嫌でしたか」


「いや」


「危険だと」


「思う」


「では」


「それでも任せる」


アリアはしばらく伊織を見ていた。「今の言葉、忘れないでください」


「ああ」


「最後までです」


「分かった」


クロが二人の間を歩く。白い通路の先。警報の赤い光が、再び薄く見え始める。明日の正午。残された時間は、一日もない。


伊織は歩きながら、頭の中で施設の構造を並べ直した。白い輪。観測区画。保守導線。警備網。自律防衛。クラウス。正面から止めれば、防衛機構が動く。なら、止める前に戦場を作る必要がある。敵が選んだ場所ではない。こちらが勝てる場所を。


「東さん」


「何だ」


「何を考えています」


「明日の準備」


「もう作戦が?」


「まだない」


「では」


「作る」


アリアの口元が僅かに緩む。「次を?」


「ああ」


止まった世界には存在しないもの。失敗するかもしれない。失うかもしれない。それでも、次を作る。クラウスが最も恐れ、伊織たちが守ろうとしているものだった。


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