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第124話 止まった夕食

甘い物は、研究室の机の端に置かれていた。小さな皿。薄く焼いた生地の上へ、潰した木の実と蜂蜜に似た糖液が塗られている。形は不揃いで、端の一枚は少し焦げていた。


クラウスはそれを見ないふりをしていた。


「作ったのですか」


アリアが聞く。「余っていた材料を混ぜただけだ」


「昨日は、研究所に菓子はないと」


「菓子ではない」


「では何です」


「実験食だ」


「便利な言葉ですね」


アリアは一枚取った。匂いを確かめる。次に、ほんの少しだけ齧る。クラウスは見ていない。見ていないふりを続けている。


「どうだ」


結局、自分から聞いた。「甘いです」


「それだけか」


「少し焦げています」


「加熱時間の問題だ」


「でも、美味しいです」


クラウスの指が止まった。「そうか」


短い返事。それだけで終わらせようとする。アリアは二枚目を取り、伊織へ差し出した。


「食べますか」


「甘いのは得意じゃない」


「知っています」


「なら、なぜ聞く」


「一人で食べると、私だけが食い意地を張っているように見えるからです」


「見えてる」


「東さん」


「食べる」


伊織は一枚取った。甘い。木の実の油が少し重い。焦げた端は苦い。


「どうだ」


今度はクラウスが伊織を見る。「不味くはない」


「褒め方を知らないのか」


「昨日のコーヒーよりはましだ」


「比較対象が悪い」


クロが机の下から顔を出す。鼻先が皿へ向く。「お前は駄目だ」


黒い耳が伏せる。「あとで別のものをやる」


クロの尾が一度動いた。「簡単ですね」


アリアが言う。「約束を守ると信用してる」


「私も信用しています」


「何を」


「今日も戻ることを」


伊織は返事をしなかった。クラウスが二人を見る。何も言わない。ただ、机の横へ置かれた厚い手帳を手に取った。昨日の続き。甘い物。不味いコーヒー。次の予定。それらを一度、研究室へ置いてから、クラウスは自分の五十年を開いた。


「一つだけ見せる」


手帳を机へ置く。表紙には、この世界の文字で日付が書かれている。二十一年前。


「帰還実験ではないのですか」


アリアが尋ねる。「帰還より先に知るべきことがある」


「何を」


「私が、帰ることを諦めた理由ではない」


クラウスは頁を開く。「世界を変えることを諦めた理由だ」


手帳には地図が挟まれていた。小さな村。王都から遠い。東部でもない。山と川に囲まれた、名も知らない土地。


「ベルタ村」


クラウスが言う。「住民八十六人。主産業は麦と羊。魔術師は一人。騎士はいない」


「普通の村ですね」


「ああ」


「そこで何が」


「境界が開いた」


伊織は地図を見る。村の中央。赤い丸。井戸と集会所の間。


「古代施設は」


「ない」


「観測所も」


「ない」


「なぜ、そんな場所で」


「理由は今も分からない」


クラウスは手帳の端を押さえる。「最初に現れたのは、音だった」


「音?」


「雨」


伊織の目が僅かに動く。「この世界の雨ではない。水が落ちる音だけではなかった」


クラウスは頁をめくる。記録。時刻。証言。「硬い地面を走る車輪。金属の軋み。遠くで鳴る警告音。複数の人間の声」


「言葉は」


「分からなかった」


「日本語では?」


「違う」


「ほかの世界」


「ああ」


クラウスは机の上へ、小さな金属片を置いた。昨日見たものとは別の記録媒体。表面には傷。何度も再生された跡。


「見るか」


「そのために来た」


伊織が言う。クラウスは金属片へ指を触れた。白い光。研究室の中央へ映像が浮かぶ。朝。薄い霧。小さな村。石造りの家。屋根。井戸。麦を運ぶ荷車。誰かが笑っている。子どもが走る。犬が後を追う。何の異常もない。少なくとも、最初の数秒は。


映像の向こうから音がした。雨。村の空は晴れている。それでも、どこかで雨が降っている。次に、短い警告音。この世界にはない音。荷車を押していた男が足を止める。周囲を見回す。子どもも立ち止まる。犬が吠える。


「ここからだ」


クラウスが言う。井戸の横。空気が歪む。白い輪ではない。裂け目。透明な布を両側から引っ張ったような、不自然な揺れ。その向こうへ、濡れた道路が見えた。黒い地面。白い線。遠くを横切る箱形の乗り物。人間。傘。一人がこちらを向く。向こう側の人間も、村を見た。映像が一度乱れる。


「この時点では、世界同士が見えていただけだ」


「触れられない?」


「ああ」


村人たちが集まる。子どもが裂け目へ近づく。大人が止める。魔術師らしい老人が杖を持って現れる。光。術式。境界へ触れる。裂け目が広がった。


「魔法が原因?」


「引き金になった」


「止めようとしたのでは」


「そうだ」


クラウスの声に責める色はない。「誰でも同じことをする」


映像の中で、向こう側の道路がこちらへ迫る。広がるのではない。重なる。村の石畳と黒い道路が、同じ場所へ存在する。荷車の車輪が道路へ半分沈む。村人の一人が消える。いや。完全には消えない。腰から下だけが、別の景色へ飲み込まれる。男が叫ぶ。周囲が腕を掴む。引く。戻らない。向こう側の道路を、大きな車両が近づく。


「止めろ」


アリアが言った。クラウスは映像を止めない。大型車両。男の下半身がある場所を通過する。こちら側で、男の上半身だけが落ちた。音は小さかった。血。叫び。村人たちが逃げ始める。裂け目はさらに広がる。黒い道路。信号。金属柱。村の家屋。井戸。複数のものが同時に現れ、互いの存在を押し潰していく。


「止めてください」


アリアがもう一度言った。「まだだ」


クラウスの声。「あなたは何度も見たのでしょう」


「ああ」


「私たちが見る必要は」


「ある」


「なぜ」


「止める理由だけを聞けば、私はただの狂人になる」


クラウスはアリアを見る。老人は映像から目を逸らさない。「見ろ」


低い声。「これが、私の答えの始まりだ」


映像。村の鐘。避難。人が走る。向こう側では、雨の中を誰かが叫んでいる。互いの言葉は届かない。だが、恐怖だけは同じだった。映像が切り替わる。別の場所。一軒の家。食堂。家族が四人。父親。母親。娘が二人。食事の途中。鍋。パン。笑っている。家の壁へ、向こう側の金属板が重なる。白い光。家族の動きが止まる。


「何が」


伊織が言う。「時間が固定された」


母親は鍋を持ったまま。父親は口を開けたまま笑っている。上の娘はパンを千切ろうとしている。下の娘は椅子から立ちかけている。


「生きていた」


クラウスが言う。「心臓は動いていた。呼吸も」


「意識は」


「分からない」


「助けたのですか」


アリアが問う。「入った」


映像の端。若いクラウス。今より二十年以上若い。髪はまだ白くない。左脚も普通に動いている。防護服に似た外套。古代装置を背負い、家へ入る。家族へ触れる。動かない。声をかける。返事はない。母親の手から鍋を離そうとする。離れない。時間そのものへ貼りついている。


「魔力を流した」


クラウスの声。「古代機構で境界を切った。身体を引いた。家ごと動かそうとした」


映像の若いクラウスが、下の娘を抱き上げようとする。動かない。だが、皮膚は温かい。目は開いている。


「見えていたと思うか」


伊織が聞く。「分からない」


「声は」


「聞こえていたかもしれない」


クラウスの左手が震える。今の手。机の上。僅かに。


「四人は、その状態で三時間残った」


「三時間」


「その間、私は何度も触れた」


映像のクラウス。父親。母親。娘たち。何度も。順番に。諦めない。外では村が崩れている。それでも、食卓から離れない。


「最後は」


アリアの声が掠れる。「境界が閉じた」


「戻った?」


「消えた」


映像。白い揺れ。金属板。道路。村。すべてが一瞬だけ重なる。次の瞬間。家ごと消える。床には何もない。皿も。鍋も。家族も。若いクラウスだけが、空中へ手を伸ばしたまま残る。映像が終わった。研究室へ戻る。機械音。クロの呼吸。誰もすぐには話さない。


アリアは皿の上の甘い菓子を見ていた。さきほどまで食べていたもの。家族の食卓。途中で止まった夕食。


「名前は」


伊織が言う。クラウスが顔を上げる。「あの家族の名前だ」


「父親がエルン」


即答。「母親がミラ。上の娘がセナ。下がフィー」


「村人は」


「八十六人」


「全員?」


「覚えている」


「名簿で?」


「顔もだ」


クラウスは手帳を閉じる。「助かったのは四十三人」


「半分」


「半分だ」


「あなたは、自分を責めているのですか」


アリアが尋ねる。「誰を責めればいい」


「境界を」


「境界に意思はない」


「魔術師を」


「助けようとした」


「自分を」


「遅れて到着した」


クラウスは一つずつ否定する。「なら、誰も悪くない」


「ああ」


「それでも、人が死んだ」


「ああ」


老人の声は平坦だった。感情がないのではない。感情を保ったまま話せるようになるまで、二十一年かかったのだ。


「この事故のあと、何をした」


伊織が聞く。「境界を閉じる方法を探した」


「見つけた?」


「一度は」


「一度」


「ベルタ村の裂け目を閉じることには成功した」


「なら」


「二か月後、別の場所で開いた」


クラウスは別の地図を机へ出す。王都から遠い荒野。白い印。「そこを閉じた」


次。森林。印。「また開いた」


次。海。地下。山。古代施設。


「境界は一つの穴ではない」


クラウスが言う。「世界と世界の圧力差だ。一つ閉じれば、別へ逃げる」


「全部閉じることは」


「できない」


「なぜ」


「閉じる力そのものが、新しい歪みを作る」


伊織は地図を見る。無数の白い印。世界中。


「なら、どうする」


「最初は流れを制御しようとした」


「失敗した」


「ああ」


「次は」


「分散」


「それも?」


「ああ」


「最後が固定」


クラウスは答えなかった。アリアが老人を見る。「固定とは、何です」


「明日話す」


「また明日?」


「今日は、ベルタ村の話だ」


「区切る意味がありますか」


「ある」


「なぜ」


「一度に全部を見せれば、数字になる」


クラウスは手帳へ指を置く。「八十六人。四十三人。二十一年前」


声は静か。「それだけになる」


「ならないように、名前を覚えている?」


「ああ」


「止まった家族を覚えている?」


「ああ」


「だから、世界を止めるのですか」


クラウスの目がアリアへ向く。「まだ言っていない」


「でも、そのつもりなのでしょう」


沈黙。否定しない。「人が止まるのを見た」


アリアが続ける。「その苦しさを知っているのに、世界を止める?」


「同じではない」


「何が違うのです」


「制御されている」


「意思は?」


クラウスは答えない。「止められる人たちへ、選ばせるのですか」


「選ばせれば、拒否する」


「当然です」


「そして、境界崩壊が続く」


「だから、選ばせない?」


「誰かが決めなければならない」


「あなたが?」


「ああ」


初めて。明確な肯定。研究室の空気が変わった。クラウスは怒っていない。声も大きくない。それでも、彼がすでに一線を越えていることだけは分かった。


「悪だな」


伊織が言った。「そうだろう」


クラウスは否定しない。「自覚はある?」


「ああ」


「それでもやる」


「ああ」


「正義だから?」


「違う」


「では」


「もう、ほかに失敗しない方法がない」


クラウスは伊織を見る。「私は五十年、失敗の方法を変えてきた」


「成功じゃなく?」


「そうだ」


「今回は失敗しない?」


「少なくとも、誰かが夕食の途中で消えることはない」


「夕食の途中で止まったままになる」


伊織が返す。「続く」


「何が」


「時間が」


「変わらずに?」


「ああ」


「それを生きると言う?」


「死ぬよりはいい」


「本当に?」


「分からない」


クラウスは正直だった。正直なまま、全員の選択を奪おうとしている。


「怖いのですね」


アリアが言った。クラウスの目が僅かに動く。「何が」


「また、誰かが食事の途中で消えるのが」


長い沈黙。老人の肩が、ごく僅かに落ちる。「怖い」


クラウスは言った。「今でも」


声は小さい。「夢に出る」


「誰が」


「四人とも」


桜。コーヒー。甘い菓子。夕食。次があると思っていた家族。クラウスは、世界を止めたいのではない。あの夕食を、二度と失いたくない。だから、すべての夕食を止めようとしている。


「間違ってる」


伊織が言った。「ああ」


「認めるのか」


「お前にとっては」


「お前にとっては?」


「間違っていない」


「なぜ」


「失うより、残す方を選ぶ」


「変わらなくても?」


「ああ」


「壊れなくても、前へ進めなくても?」


「ああ」


クラウスの返事は揺れない。「五十年かけて出した答えだ」


「長く考えれば正しいわけじゃない」


「知っている」


「なら」


「長く考えたから、捨てられない」


その言葉だけが、妙に人間らしかった。理論でも。観測でも。正義でもない。五十年を無駄にしたくない。それだけ。


「明日」


クラウスが言った。「固定について説明する」


「そのあと」


「起動する」


アリアの手が双剣へ近づく。伊織は止めない。だが、クラウスも動かない。


「今日ではないのですか」


「昨日、明日を作った」


老人は机の端にある皿を見る。焦げた甘い菓子。「一日くらいは守る」


「それだけ?」


「私には十分だ」


「私たちを逃がすためでは」


「違う」


「止めさせるためでも?」


「それも違う」


「では」


「考える時間を与える」


クラウスは伊織を見る。「私にも」


「まだ迷ってる?」


「五十年、迷っている」


「決めたと言った」


「決めることと、迷わないことは違う」


伊織は老人を見た。分かる気がした。南条が死んだあとも、伊織は生きることを選んだ。選んだからといって、迷いが消えたわけではない。


「明日、来る」


伊織が言う。「逃げない?」


「どこへ」


「帰る場所はない」


同じ言葉。昨日より、少し違って聞こえる。


「作ればいい」


アリアが言った。クラウスが彼女を見る。「簡単に言う」


「簡単ではありません」


「なら」


「それでも、作るのです」


アリアは皿から最後の一枚を取った。半分に割る。一方をクラウスの前へ置く。「これは、あなたの分です」


「私は甘い物を食べない」


「作った人が食べないのは卑怯です」


「理屈が分からん」


「明日までに考えてください」


クラウスは半分の菓子を見る。焦げている。形も悪い。それでも、誰かのために作ったもの。


「分かった」


老人は小さく答えた。その場では食べなかった。だが、皿から戻しもしなかった。


三人が研究室を出るとき、クラウスはまだ机の前に座っていた。手帳。桜。欠けたカップ。半分の菓子。伊織は扉の前で一度だけ振り返る。クラウスは見ていない。白い輪の向こう。止まった夕食を見ていた。


明日。彼が世界を止める方法を語る日。そして、伊織たちが止める理由を決める日だった。


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