第123話 帰れなかった男
白い扉の向こうは、王都の地下とは思えないほど静かだった。警報の赤い光も、兵士たちの足音もない。扉を越えた瞬間、それまで背後にあったすべての音が薄い壁一枚の向こうへ押し戻され、代わりに、どこか遠くで機械が回り続ける低い振動だけが残った。
伊織はすぐには進まなかった。白い通路。継ぎ目の少ない床。壁の内側を走る細い配管。天井には古代施設の照明が並んでいるが、その間へ後から取りつけられた小さな灯りが混じっている。素材も規格も揃っていない。古代の設備へ、この世界の部品を継ぎ足しながら使い続けてきた跡だった。
クロが一歩前へ出る。黒い鼻先を床へ近づけ、ゆっくり左右へ動かした。
「どうだ」
クロは返事の代わりに、通路の奥へ耳を向けた。人の気配はある。一人。動いていない。待っている。
「罠でしょうか」
アリアが声を落とす。「分からない」
「ずいぶん素直ですね」
「分からないものを、分かるとは言わない」
「普段からそうしてください」
「してる」
アリアは何も言わず、伊織の右肩を見た。防護服の下。先ほどの戦闘で開きかけた傷。まだ血は滲んでいない。「今のところは」と言いかけ、伊織はやめた。言えばまた怒られる。
クロが鼻を鳴らした。「何だ」
もう一度。「進めってことか」
黒い犬は先へ歩いた。アリアが小さく笑う。「クロの方が判断が早いですね」
「勢いだけだ」
クロが振り返った。「悪かった」
三人は通路を進んだ。壁には小さな金属板が取りつけられている。
『冷却水』
『排熱確認』
『工具返却』
伊織は一つずつ目で追った。日本語。印刷されたものもあれば、白い塗料で直接書いたものもある。角の丸い字。癖のある数字。何度も上から修正された跡。
「また読めるのですか」
「ああ」
「何と」
「冷却水。排熱確認。工具返却」
「どれも、ずいぶん普通ですね」
「普通だから残る」
「どういう意味です」
「重要なことは頭で覚える。面倒なことは壁に書く」
「あなたの国の人は、皆そうなのですか」
「知らない。少なくとも、こいつはそうらしい」
伊織は板の端にある小さな字を見る。
『確認したら印を付けること』
その横には、いくつもの線。最近の日付まで続いている。五十年前に書かれ、五十年間使われ続けた文字。誰も読む者がいないのに。
「ここにいたのですね」
アリアが言った。「ああ」
「ずっと」
「そうらしい」
アリアはそれ以上聞かなかった。伊織も、考えないようにした。考えれば、自分が同じ年月をここで過ごした姿が見えてしまう。日本語だけを書き続ける。誰にも読まれない。工具を戻せと、自分に言い聞かせる。帰る日が来るかもしれないと思いながら。それが十年。二十年。五十年。
通路の角を曲がる。その先に、狭い作業区画があった。棚。机。補修用の部品。この世界の鍛冶で作られた工具が、種類ごとに並べられている。形は日本のものに近いが、仕上げは粗い。柄には革が巻かれ、摩耗した部分だけ色が濃くなっていた。
工具箱の蓋。白い塗料で書かれた文字。
『KLAUS R.』
その下。
『持出厳禁』
「厳しい人ですね」
アリアが言う。「工具を持っていかれたら困る」
「一人しかいないのでしょう」
「自分で持っていって、自分で戻さなかったのかもしれない」
「それは......」
「よくある」
「あなたも?」
「ある」
「でしょうね」
机の上には作業手袋が置かれていた。何度も縫い直され、指先だけ別の革へ替えられている。隣には薄い金属板。古代文字と日本語が混ざった配線図。伊織が触れずに見る。日本語の部分だけ読める。
『誤差あり』
『再計算』
『一時停止』
『再開』
短い言葉。同じものが何度も書かれている。失敗。修正。再開。
「東さん」
「何だ」
「ここには、戦った跡がありません」
アリアは周囲を見ていた。「壊された壁も、血も、武器もない。ただ、直した跡だけがあります」
「研究所だからな」
「研究所でも、人が長くいれば争いは起きます」
「一人なら起きない」
言ったあと、伊織は自分で嫌な言葉だと思った。アリアも何も返さなかった。
クロが机の下を嗅ぐ。そこに、小さな木箱があった。蓋は開いている。中には、折り畳まれた紙。伊織は一枚だけ取り出した。写真だった。色は薄い。端は擦り切れている。川沿いの道。両側に桜。遠くには灰色の建物。数人の男女が写っている。白衣。作業着。その端に、若い頃のクラウスと思われる男が立っていた。髪はまだ黒い。表情は硬い。だが、隣の日本人らしい男に肩を叩かれ、僅かに笑っている。
「写真ですか」
「ああ」
「あなたの国の?」
「日本だ」
「この人が」
「多分、クラウス」
アリアは写真へ近づく。「若いですね」
「五十年以上前だ」
「この人たちは」
「知らない」
写真の裏。日付。場所。日本語。
『研究棟前 送別会』
送別会。誰のものだったのか。クラウス自身かもしれない。その後、彼は日本を離れるはずだったのか。あるいは、誰かを送り出したのか。
伊織は写真を元へ戻した。「聞かないのですか」
「本人に?」
「ええ」
「聞かれたくないなら、見える場所には置かない」
「聞いてほしい場合もあります」
「面倒だな」
「人はそういうものです」
アリアの声は静かだった。伊織は写真を見た。もう一度。だが、手には取らなかった。
作業区画の奥に扉がある。半開き。柔らかい黄色の光。そこから匂いが漂っていた。焦がした穀物。苦い薬草。微かに甘い。
「コーヒーですか」
「似てる」
「先ほど、湯を沸かすと言っていましたね」
「ああ」
「本当に用意しているとは思いませんでした」
「俺もだ」
クロが鼻先を上げる。匂いの先。部屋の中。人の気配はない。伊織は扉へ手を掛けた。ゆっくり押す。
研究室だった。広くはない。壁際へ棚。中央に机。古代施設の光る表示と、紙の計算式が同じ場所に並んでいる。空中へ浮かぶ文字列の横には、鉛筆で書き込まれた数式。修正跡。破った紙。何度も線を引き直した図面。
机の上にカップが三つ。二つは白い陶器。一つは木の椀。湯気が立っている。椅子は二脚。もう一脚は折り畳まれ、壁へ立てかけられていた。
「いません」
アリアが言った。「いる」
「どこに」
「湯気がある」
「出ていったばかりかもしれません」
「待たせるために?」
「あなたならしそうです」
「しない」
「どうでしょう」
伊織は机へ近づいた。カップの一つ。黒い液体。香りはやはりコーヒーに似ている。だが、何か違う。棚には古びた缶。蓋に日本語。
『代用品 三号』
その隣。
『四号』
さらに。
『五号 まだ不味い』
伊織は缶を見た。「何ですか」
「コーヒーの代わりを作ってたらしい」
「何種類も?」
「少なくとも五つ」
「執念深いですね」
「研究者だからな」
「あなたも似ています」
「どこが」
「諦めが悪いところです」
クロが木の椀へ鼻を近づける。水。何も混じっていない。それでも飲まず、伊織を見る。「待て」
クロは座った。「毒を疑っているのですか」
「念のためだ」
「向こうは最初から私たちを見ていました。毒を使うなら、もっと前にできたでしょう」
「そうだな」
「では」
「念のためだ」
アリアは呆れたように息を吐く。「慎重なのか頑固なのか、分かりません」
「両方だ」
背後で声がした。「人を待たせるものじゃない」
日本語。伊織は振り返る。扉の脇。白い外套を着た老人が立っていた。背は高くない。痩せている。白い髪は短く切られ、額には深い皺。左目の周囲から首元へ、灰色の細い線が走っている。古代機構と接続した痕跡なのか、皮膚の下に何かが埋め込まれている。
武器はない。敵意もない。両手には、小さな金属製のやかん。
老人は伊織を見る。次にアリア。クロ。そして、机のカップ。「まだ飲んでいないのか」
「毒を疑ってる」
「正しい」
老人は日本語で答えた。「入れてはいないが、味は毒に近い」
伊織は老人を見る。「クラウス」
「そう呼ばれている」
「日本語は忘れてないらしいな」
クラウスはやかんを机へ置いた。少し考える。それから、僅かに口元を緩めた。「......久しぶりだ」
一拍。「日本語は」
声は小さかった。だが、五十年という時間がその中にあった。伊織はすぐには返さなかった。何を言っても軽くなる気がした。
「そうだな」
結局、それだけを返す。クラウスは頷いた。
アリアが二人を見る。「何と話しているのです」
クラウスが共通語へ切り替える。「失礼した。長く使っていなかったので、まだ声にできるか確かめた」
「文字は残していたのに?」
「文字は一人でも使える」
クラウスは椅子を一つ引く。「言葉は、相手がいなければ会話にならない」
壁の折り畳み椅子を開く。一度、ぐらつく。老人は机の下から薄い木片を取り、脚へ挟んだ。「五十年あっても、椅子一つ真っ直ぐ作れない」
「工具が悪い」
伊織が言う。「腕だ」
「正直だな」
「原因を間違えると、次も失敗する」
クラウスは自分の椅子へ座った。「座れ」
「断ったら」
「立ったまま飲め」
「飲ませる気はあるのか」
「不味さを共有できる相手が来るまで、二十年待った」
伊織は椅子へ座った。右肩を背もたれへ触れさせない。クラウスの視線がそこへ向く。「傷か」
「大したことはない」
「そう言う者は、たいてい大したことがある」
「経験か」
「年齢だ」
アリアが伊織の右肩を見る。「やはり見てもらいましょう」
「この男は医者じゃない」
「古代技術に詳しいのでしょう」
「肩は古代兵器じゃない」
「あなたは少し黙っていてください」
クラウスがカップを伊織の前へ押す。「王女殿下は正しい」
「初対面でそっちにつくのか」
「長く生きると、正しい側へ寄る」
「信用できないな」
「それも正しい」
アリアの前にもカップ。クロには木の椀。「水だ」
クラウスが言う。「犬にコーヒーの代用品を飲ませるほど、私は壊れていない」
クロは伊織を見る。「飲んでいい」
黒い犬が水を飲み始める。伊織もカップを持った。一口。苦い。焦げている。コーヒーではない。「不味い」
「知っている」
「何で作った」
「麦に似た穀物。薬草。木の実」
「混ぜる必要あったか」
「一号は穀物だけだった」
「もっと不味い?」
「薄い泥だった」
アリアが恐る恐る口をつける。すぐに眉が寄った。「本当に不味いですね」
「王女殿下は正直だ」
「甘い物はないのですか」
「研究室に菓子を置く習慣はない」
「では、今後置いてください」
「次がある前提か」
「ないのですか」
クラウスの手が僅かに止まる。「若い者は簡単に次を作る」
「作らなければ、何も続きません」
「続かない方がいいこともある」
声は穏やかだった。だが、研究室の空気に薄い影が差した。
伊織はカップを置く。「さっき、帰る方法を知ってると言ったな」
「ああ」
「本当に帰れるのか」
「理論上は」
「なぜ、お前は帰らなかった」
クラウスはすぐには答えなかった。欠けたカップを両手で包み、黒い液体の表面を見る。「帰らなかったのではない」
「では」
「帰れなかった」
日本語だった。アリアには意味が分からない。だが、声の重さは伝わった。
「道がなかった?」
「道は見つけた」
「なら」
「遅すぎた」
クラウスは壁の写真へ目を向ける。桜。白衣。作業着。送別会。「帰還方法を完成させたのは二十七年前だ」
「それほど前に?」
アリアが聞く。「ああ」
「では、その時点で日本へ」
「行けた」
「なぜ行かなかったのです」
「帰った先に、私の場所がなかった」
研究室の機械音が妙に大きく聞こえた。「写真の人たちは」
伊織が尋ねる。「同僚だ」
「家族は」
クラウスの指がカップの縁で止まる。「妻がいた」
「子どもは」
「一人」
「今も」
「生きていれば、私より年上だ」
声に悲しみはなかった。悲しみを使い切った人間の声だった。
「五十年は長い」
クラウスが言う。「待っていると思うには、長すぎる」
「それでも、日本はある」
「ああ」
「桜も咲く」
「ああ」
「コーヒーも飲める」
「そうらしいな」
「なら」
「同じ日本ではない」
クラウスは伊織を見る。「私が帰りたかった場所は、写真の中にしか残っていない」
「戻って確かめればよかった」
「何を」
「残ってないことを」
クラウスの目が僅かに細くなる。「酷いことを言う」
「分かってる」
「それでも?」
「見ないまま決めるよりはいい」
「若いな」
「お前よりは」
「五十年後も同じことを言えるか」
「分からない」
「正直だ」
伊織はカップへ視線を落とす。日本へ帰る。その言葉は、以前なら一つの意味しかなかった。今は違う。食堂。リナ。クロ。アリア。帰る場所が増えた。増えたから、選べなくなった。
「お前は帰るのか」
クラウスが尋ねる。アリアの身体が僅かに固くなる。伊織はすぐには答えなかった。
「分からない」
「そうか」
「それだけか」
「他に何を言う」
「帰れと言うかと思った」
「帰りたいなら帰ればいい」
「止めない?」
「お前の選択だ」
アリアが伊織を見る。責める目ではない。待つ目でもない。ただ、答えを聞いた。伊織は彼女から視線を逸らさない。
「ただし」
クラウスが続ける。「帰る道を開けば、この世界はさらに崩れる」
空気が変わった。コーヒー。桜。工具。生活。それまで人間の話だったものが、初めて世界の話へ触れる。
「どういう意味です」
アリアが尋ねる。「今日は話さない」
「なぜ」
「長くなる」
「湯を沸かしたでしょう」
「一度に話せば、理解した気になる」
「説明しない方が理解できません」
「明日、記録を見せる」
「明日?」
「帰還実験。境界事故。失敗した村」
クラウスはカップを置く。「私が何を見て、何を諦めたか」
「諦めた?」
「世界が変わり続けることを」
アリアの紫の瞳が暗くなる。「世界を、どうするつもりです」
クラウスは答えない。その代わり、棚へ視線を向ける。穀物。薬草。木の実。「甘い物だったな」
「話を逸らさないでください」
「明日までに用意する」
「クラウス」
「今日は、帰れなかった男の話だけでいい」
老人は立ち上がる。窓の向こう。白い輪。まだ動いてはいない。だが、地下全体がその輪の呼吸に合わせ、低く脈打っている。
「明日」
クラウスが言った。「五十年分の失敗を見せる」
「逃げないのか」
伊織が尋ねる。「どこへ」
「知らない」
「帰る場所はない」
クラウスは桜の写真を見る。「だから、ここにいる」
伊織は老人の横顔を見た。敵には見えなかった。味方にも。ただ、帰る場所を失ったまま、五十年を生き延びた男だった。
アリアがカップを持ち上げる。完全に冷めている。一口。すぐに顔を顰めた。「冷めると、さらに不味いです」
「知っている」
「明日は甘い物も必要です」
「注文が増えたな」
「次があるのですから」
クラウスの手が止まる。ほんの僅か。「次、か」
老人は小さく呟いた。長い間、使っていなかった言葉を確かめるように。研究室の壁では、五十年前の桜だけが散らずに残っていた。




