第122話 白い扉
赤い光は、音より速く地下を走った。伊織たちの頭上を越え、通路の奥へ流れ、壁の継ぎ目へ吸い込まれていく。数秒遅れて、白い施設の内部から低い振動が返ってきた。隔壁。通路の切り替え。警備兵の配置変更。この地下全体が、一つの生き物のように侵入者へ反応している。
「来ます」
アリアが声を落とした。正面。金属靴の足音。六人。後方には、先ほど通過した扉がある。戻ろうとしても、王都兵が待っている。右の通路から二人。左は静かだった。静かすぎる。
「左にもいる」
伊織が言った。「音はありません」
「だからだ」
相手は、こちらにクロがいることを知らない。風で足音を拾うアリアの存在も。それでも姿を見せず、動かず、息を潜めている。追跡部隊ではない。逃げ道を塞ぐために先回りした兵士だ。
クロの耳が左へ向く。短く鼻を鳴らす。「四人」
「合計十二人ですね」
「相手をする必要はない」
「どう抜けますか」
伊織は壁の配管を見る。先ほど見つけた管理札。英数字。色分けされた管。日本語の保守音声。この施設を整備した人間は、古代装置をそのまま使っていない。故障箇所を見つけ、別の部品へ置き換え、後から管理系統を加えている。なら、警報も一系統ではない。王都兵が使う警備網。施設そのものを管理する保守網。二つが重なっている。
伊織は最も太い配管の下へ視線を落とした。床際に小さな蓋。文字。
『点検口』
「アリア」
「はい」
「ここを開ける」
「中へ入るのですか」
「違う。音を入れる」
伊織は左手を開いた。黒い粒子が集まる。小型音響デコイ。VR時代、廃工場を巡回する自律兵器を誘導した装備だ。足音、金属音、短い会話を設定した方向へ流せる。以前なら、細かな機構を具現するたび頭の奥に針を刺されたような痛みが残った。今はほとんどない。クロが伊織の脚へ身体を寄せる。黒い粒子の揺れが静まり、装置の輪郭が一度で定着した。
「また軽くなっていますね」
アリアが伊織の顔を見る。「ああ」
「クロのおかげです」
「分かってる」
「でしたら、もっと感謝してください」
伊織は黒い頭を撫でた。「助かる」
クロの尾が一度だけ床を打つ。「簡単ですね」
「長く言っても分からない」
「クロは分かっています」
「お前より?」
「少なくとも、無茶を止める話は聞きます」
「そうか?」
クロは目を逸らした。「同じかもしれません」
足音が近づく。正面まで十秒。伊織は短剣の先を点検口の隙間へ差し込み、蓋を持ち上げた。内部には細い空洞。配管を通すための保守溝が、左右へ伸びている。デコイを入れる。
「右へ運べるか」
「やります」
アリアが指を動かす。風が点検口から入り、装置を奥へ押す。伊織が起動した。保守溝の内部から、複数の足音が聞こえ始める。走る男。鎧。短い呼吸。右。少しずつ遠ざかる。
「下だ!」
正面から声が飛ぶ。「保守溝へ入った!」
六人の足音が右へ流れる。右側にいた二人も動いた。残るのは左の四人。
「今です」
アリアが前へ出ようとする。「待て」
「なぜ」
「動かなかった連中は、音を疑ってる」
正面の交差路は空いた。だが、左へ潜んだ四人からは、通路全体が見える。走れば射線へ入る。伊織は天井を見る。白い照明。その横へ、後付けされた小さな管が走っている。
『洗浄水』
日本語。「水を出す」
「どこから」
「多分、天井」
「多分?」
「標識を信じる」
伊織は壁の保守盤へ近づいた。古代文字の表示。その横に、手書きの矢印。
『手動』
レバー。「読めるというのは便利ですね」
「今だけだ」
「普段も便利そうです」
「この世界じゃ使わない」
伊織がレバーを引く。何も起きない。「故障ですか」
「安全装置」
レバーの下。小さな覆い。外す。赤いボタン。
『押しながら操作』
「面倒ですね」
「事故防止だ」
「どなたかと似ています」
「俺はもっと簡単だ」
「どこがです」
ボタンを押し、レバーを引く。天井の管から水が噴き出した。霧状ではない。冷たい水が通路全体へ降り、床へ薄い膜を作る。左の兵士たちが僅かに動く。
「漏水だ!」
「保守盤を止めろ!」
視線が伊織たちから天井へ移る。「行くぞ」
三人は交差路へ出た。走らない。足音を立てない。アリアの風が靴の周囲から水を押し退け、滑りを防ぐ。クロが先行。左通路。盾が出た。
「止まれ!」
兵士の声。完全には騙せなかった。白い盾。その隙間から槍。後方に魔術師二名。指揮役が一人。四人ではない。五人。クロの索敵を外した者がいる。気配を消す術式。
「一人多いですね」
「魔術師だ」
指揮役が手を上げる。「殿下を保護しろ。男と獣は拘束する」
「私は保護を求めていません」
アリアが言った。「王命です」
「誰から私を守るのです」
「その男からです」
「東さんは私を連れ去っていません」
「殿下は判断を乱されています」
アリアの紫の瞳が濃くなる。「私の判断を、あなたが決めるのですか」
「陛下がお決めになりました」
「父上の判断であっても、私の意思にはなりません」
兵士は答えない。盾が進む。狭い通路を塞ぐ。正面突破はできる。だが、相手は王都兵だ。アリアの民。伊織は殺傷用の武器を出さない。
「盾を右へ」
伊織が囁く。「どの程度」
「半歩」
「十分ですか」
「ああ」
アリアの風が床を走った。冷たい水。盾兵の右足。靴底と床の間へ入り込み、横へ流す。兵士の足が滑った。盾が右へ傾く。槍兵の上半身が露出する。伊織が前へ出る。黒い粒子。警棒。槍先が胸へ来る。受けない。警棒を柄の横へ当て、穂先を壁へ逸らす。一歩。間合いの内側。左肩を槍兵の胸へ当てる。押す。槍兵が盾兵へぶつかる。二人の足が水の上で崩れた。
クロが盾の下へ潜る。盾兵の手首へ噛みつかない。鼻先で留め革を押し上げ、アリアの風が隙間へ入る。盾が腕から外れた。白い板が床へ落ちる。伊織は警棒を消す。次の具現。鋼線式拘束装置。四本の爪を撃つ。二本は盾。二本は左右の壁。鋼線が張り、通路を横切った。倒れた兵士二人と、後方の魔術師を隔てる。
「切れ!」
指揮役が叫ぶ。魔術師が杖を上げる。詠唱。アリアは双剣を抜いた。刃ではない。右の剣を鞘へ収めたまま投げる。風が鞘を押す。直線。杖を持つ手首へ当たる。骨を折らない角度。杖が落ちる。もう一人の魔術師が火球を作った。狭い通路。味方が前にいる。
「撃てません」
アリアが言う。「分かっている!」
「でしたら消してください」
風が火球を包む。冷やさない。魔力の流れを乱し、術式を形作る空気の渦を崩す。火が細く伸び、天井へ吸われる。魔術師の顔が強張った。アリアが床を蹴る。水。風が足裏を押す。銀紫の髪が後ろへ流れる。一気に鋼線の上を越える。着地。指揮役が剣を抜く。アリアも双剣を抜いた。右の刃で相手の剣を受ける。左は斬らない。鎧の脇へ当て、身体を支点にして回す。指揮役の足が浮く。床へ落ちる寸前、風が背中を支えた。頭は打たない。剣だけが滑っていく。
「いつまでも守られる側ではありません」
アリアが言った。誰に向けた言葉かは分からない。倒した兵士か。伊織か。自分自身か。
魔術師が背後から杖を拾おうとする。クロが外套の裾を踏んだ。男の身体が止まる。振り返る。黒い犬。唸ってはいない。だが、動けば倒されることは伝わる。
「終わりです」
アリアが言った。王都兵たちは呼吸を乱している。負傷は軽い。意識もある。伊織は鋼線を解除した。黒い粒子が散る。クロの周囲を一度巡り、この世界へ溶けた。
「通してくれ」
伊織が言う。「できない」
指揮役は床へ片膝をついたまま答えた。「王命だ」
「何のために俺たちを止める」
「知らされていない」
「それでも従う?」
「兵士だ」
伊織は男を見る。命令。役割。判断。SATにも同じものがあった。違うのは、伊織が命令を疑わずに済んだわけではないことだ。
「アリア」
「はい」
「どうする」
彼女は指揮役の前へ立った。「私たちは進みます」
「殿下」
「あなたに父上を裏切れとは言いません」
「では」
「私を止められなかったと報告してください」
「責任は」
「私が負います」
「王女殿下が、そのような」
「王女だからではありません」
アリアは男を見る。「自分で選んだからです」
指揮役の顔が揺れた。それでも、道を開けるとは言わない。伊織は待たなかった。兵士たちの脇を通る。誰も武器へ手を伸ばさない。アリアとクロが続く。
交差路の先。白い隔壁。警報板が赤く点滅している。先ほど兵士が触れたもの。扉の認証部へ、伊織は先ほど借りた通行札を当てた。
『権限不足』
「開きませんね」
「警報で封鎖された」
「王統権限を使います」
「待て」
「またですか」
「カメラがある」
天井。黒い半球。レンズ。補修跡。先ほど見たものと同じ。伊織はそこへ顔を向ける。「見てるんだろ」
返事はない。「日本語が分かるなら開けろ」
雑音。壁のスピーカー。
『その言い方で開くと思うのか』
男の声。日本語。先ほどの自動音声とは違う。生きた声。発音には僅かな硬さがある。外国人が長く日本で暮らし、身につけた日本語。
「聞こえてたか」
『最初から』
「兵士を止めろ」
『私の兵ではない』
「警報は?」
『王都側の系統だ』
「お前は何を管理してる」
『質問が多い』
「扉を開ければ減る」
短い沈黙。アリアが伊織を見る。「何と話しているのです」
「質問が多いと言われた」
「その方が?」
「ああ」
「お互い様ではありませんか」
スピーカーの向こうで、男が小さく笑った。共通語へ切り替わる。
『王女殿下は、思っていたより率直だ』
「私を知っているのですか」
『観測していた』
「町で起きたことも?」
『見ていた』
「古代兵器が動いたことも?」
『ああ』
アリアの瞳が暗くなる。「それでも、何もしなかったのですね」
沈黙。
『何もしなかったわけではない』
「では、何を」
『確かめていた』
「人が傷つくのを見ながら?」
『答えを出すためだ』
「誰の答えです」
『私の』
「世界の答えではないのですね」
長い沈黙。伊織はアリアを見た。彼女は扉から目を逸らさない。支えるだけではない。自分で問い、相手の答えを引き出そうとしている。
『そうだ』
男は認めた。『私の答えだ』
「なら、直接聞きます」
『何を』
「その答えが、誰の命を使うのか」
白い隔壁の内部で、何かが動いた。鍵。一つ。二つ。さらに奥で、重い機構が回る。
『その質問をする者を待っていた』
扉の中央へ細い線が走る。左右へ開き始める。冷たい空気。古い紙。金属。薬品。それから、焦がした穀物のような匂い。
扉の向こうには、照明の少ない通路が伸びていた。壁には日本語。
『第一観測区画』
『関係者以外立入禁止』
「読めますか」
アリアが聞く。「ああ」
「何と」
「関係者以外は入るな」
「私たちは?」
スピーカーから声。
『関係者だ』
日本語だった。『東伊織。アリア=シルヴェイン。守護獣』
「名前まで知ってる」
『五十年、観測だけは続けてきた』
「五十年」
『長いと思うか』
「十分にな」
『そうか』
声が僅かに遠くなる。
『日本は、まだあるか』
伊織は答えるまでに一拍かかった。「ある」
『桜は』
「咲く」
『コーヒーは』
「飲める」
『電車は時間どおりか』
「大体は」
『大体、か』
今度の笑いは、はっきり聞こえた。
『変わっていないな』
「お前がいた頃と同じではない」
『分かっている』
一拍。
『分かっているつもりだ』
アリアは意味を聞かない。伊織の横顔を見ている。声の向こうにいる男が何を尋ね、伊織がどんな顔で答えているのか。それだけで、故郷の話だと理解したらしい。
「名前は」
伊織が尋ねた。
『クラウス』
「日本人じゃないな」
『ドイツ人だ』
「日本語は」
『日本で働いていた』
「どのくらい」
『長く聞くなら、中へ入れ』
「罠か」
『そう思うなら帰れ』
「帰る道を知ってる?」
沈黙。先ほどまでの軽い応酬が消えた。
『知っている』
アリアの身体が僅かに強張る。日本語の意味は分からなくても、伊織の表情が変わったことは分かる。
「本当に?」
『理論上は』
「なぜ、お前は帰らなかった」
返事はすぐには来なかった。白い通路。焦がした穀物の匂い。機械の低い振動。
『その話は、顔を見てする』
奥の照明が、一つずつ点灯する。道を示すように。
『入れ』
「武器は」
『持ったままでいい』
「信用するのか」
『していない』
「正直だな」
『五十年、一人で生きると、取り繕う相手がいなくなる』
通信が一度途切れる。最後に、共通語で声が戻った。
『少し湯を沸かしておく』
「何のためです」
アリアが尋ねる。
『話が長くなる』
「甘い物はありますか」
伊織がアリアを見る。「今聞くのか」
「長い話なら必要です」
声の向こうで、クラウスが僅かに息を吐いた。
『ない』
「用意してください」
『研究所だぞ』
「客を招くのでしょう」
『招いたつもりはない』
「扉を開けました」
しばらく沈黙。
『......探しておく』
アリアの口元が僅かに緩む。「話の分かる方ですね」
「まだ会ってない」
「会えば分かります」
「何が」
「あなたと似ているかどうか」
「似てない」
『聞こえている』
クラウスの声。『お前よりは素直だ』
「初対面で決めるな」
『まだ顔も見ていない』
「余計に悪い」
通信が切れた。白い扉は開いたまま。その向こうに、日本語を使う男がいる。帰る方法を知っている。帰らなかった理由を抱えている。
伊織は一歩を踏み出す。アリアが隣へ並ぶ。「東さん」
「何だ」
「帰還方法について、何と」
「知ってると言った」
「帰れるのですか」
「理論上は」
アリアの手が僅かに動く。伊織の外套へ触れかけ、止まる。「そうですか」
「それだけか」
「何を言えばいいのです」
「分からない」
「私もです」
アリアは白い通路を見る。「ですから、今は一緒に行きます」
「帰るかもしれないぞ」
「まだ決めていないのでしょう」
「ああ」
「なら、決めるまで一緒です」
クロが伊織の左脚へ身体を押しつける。「お前も?」
黒い鼻が鳴る。「分かった」
三人は白い扉を越えた。背後で警報の赤い光が薄くなる。王都兵は追ってこない。扉も閉じない。長い通路の奥から、金属製のやかんを机へ置く小さな音が聞こえた。




