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第121話 残された文字

王都の地下へ続く階段は、城壁の内側に隠されていた。地上から見れば、物資庫の奥にあるただの石壁だった。荷箱を三つ動かし、壁際に打たれた鉄環を決められた順番で引かなければ、入口は開かない。


アリアが最後の環を引く。石壁の内側で、重い錠が外れた。壁が奥へ沈み、冷たい空気が細い隙間から流れ出す。


「昔、父上に一度だけ連れてこられました」


アリアは開いた暗がりを見つめていた。「どこまでだ」


「最初の管理区画までです。王族が避難するための地下道だと聞かされました」


「信じてた?」


「当時は」


「今は」


「父上が話したことより、話さなかったことの方が多いと知りました」


声に棘はなかった。怒りを通り越し、確かめることを選んだ者の声音だった。


伊織は階段の下を見る。照明はない。底も見えない。石段の中央だけが僅かに摩耗している。使われていない道ではない。人か、物が、今も定期的に通っている。


「クロ」


黒い犬が入口へ近づく。鼻先を暗がりへ向け、ゆっくり息を吸う。湿った石。金属。油。人間。クロの耳が前へ立った。


「何人だ」


一度、鼻が鳴る。少し間を置いて、もう一度。「近くに二人」


クロはさらに下を向いた。今度は短く三度。「奥にもいる」


「王都兵でしょうか」


「多分な」


伊織は左手を開いた。黒い粒子が掌の上へ集まり、小型の暗視装置を形作る。以前より速い。輪郭の揺れも少ない。クロが成長するにつれて、鋼鉄の具現はこの世界へ馴染みやすくなっていた。具現の瞬間に胸を圧迫していた重さも、頭の奥へ刺さっていた痛みも、少しずつ薄れている。代償が消えたわけではない。だが、確実に減っていた。


伊織は暗視装置を左目へ当てる。階段。二十段ほど下に踊り場。その左右へ兵士が一人ずつ。槍。白い外套。互いの姿は見えない位置に立っている。侵入者が一人目を倒せば、反対側が警報を上げる配置。


「二人とも同時に止める」


「殺さずに?」


「ああ」


「右は私が」


「姿を見せるな」


「分かっています」


アリアの声が少しだけ硬くなる。「いつまでも守られる側ではありません」


「知ってる」


「本当に?」


「今、右を任せた」


アリアは一瞬黙った。「......そうですね」


少しだけ口元が緩む。


伊織は先に階段へ入った。足を置く場所を選ぶ。段の中央は摩耗し、僅かに低い。縁は砂が残り、踏めば音が出る。中央。ゆっくり。一段。次。クロは伊織の後ろを影のようについてくる。アリアは最後尾。彼女の風が三人の衣服を包み、布の擦れる音だけを外へ漏らさない。


踊り場まで五段。左の兵士が小さく咳をした。右側では槍の石突が床へ触れる。距離。六メートル。


伊織は腰を落とす。左手。黒い粒子。鋼線式拘束装置。四本爪。同時に、アリアの指が僅かに動いた。風が階段の下へ流れる。兵士たちの足元。灯りもない暗がりで、誰かが通り過ぎたように空気だけが揺れた。


「誰だ」


左の兵士が一歩出る。右も。互いの姿が見える位置へ。その瞬間、伊織が撃つ。四本の爪。二本は左兵士の外套。二本は壁。鋼線が張り、兵士の両腕を身体の横へ固定する。同時に、アリアの風が右の兵士の口元へ巻きついた。声を押し込める。クロが走る。噛まない。兵士の膝裏へ身体を当て、重心を崩す。右兵士が後方へ倒れる。頭が床へ触れる寸前、風が首を支えた。アリアが距離を詰める。鞘。顎の下。一撃。意識が落ちる。


左の兵士が鋼線を引き千切ろうとする。伊織は階段を下り、外套の胸元を掴んだ。


「騒ぐな」


「侵入者......」


「殺さない」


「殿下を」


兵士の目がアリアへ向く。王女。敵に連れられているようには見えない。アリアは自分の足で立ち、双剣にも手を掛けていない。


「私は自分の意思で来ています」


「しかし、王命が」


「父上の命令は、私の意思より上ですか」


兵士が口を閉じた。答えられない。アリアは責めなかった。「眠っていてください」


風が兵士の背中へ回る。伊織が短剣の柄を首筋へ当てた。力を入れる。兵士の身体から抵抗が抜ける。伊織は鋼線を解除した。黒い粒子が散り、クロの近くで静かに消える。


「負担は」


アリアが尋ねる。「軽い」


「強がりではなく?」


「ああ」


アリアは伊織の顔を見る。目の焦点。呼吸。左手の震え。「本当のようですね」


「疑ってたのか」


「あなたを信用していないわけではありません」


「同じに聞こえる」


「あなたの無茶を信用していないのです」


「それなら分かる」


「納得しないでください」


クロが倒れた兵士の腰袋を嗅ぐ。通行札。短い警笛。巡回表。伊織は札だけを抜いた。「借りる」


眠っている兵士は答えない。「返すつもりは」


「ある」


「本当に?」


「生きて戻れば」


アリアの目が冷たくなる。「戻ります」


「分かった」


「返事が軽いです」


「必ず戻る」


アリアは一度だけ頷いた。「それでいいです」


階段をさらに下る。石壁は百段ほど続いた。途中から空気が変わる。湿った地下の匂いが薄れ、代わりに乾いた金属と薬品の臭いが混じり始める。最後の段を下りた先に、扉があった。白い。石でも木でもない。表面に取っ手はなく、中央へ小さな窪みだけがある。


伊織は通行札を当てた。青い線。


『第二保守区画』


この世界の文字が浮かぶ。


『入域を許可』


扉が左右へ開いた。その向こうは、王都ではなかった。白い通路。継ぎ目のない壁。角の丸い天井。内部から滲む光。足元には細い溝が走り、壁際には複数の配管が規則正しく並んでいる。王城の下に、別の文明が埋まっていた。


「古代施設」


アリアが呟く。「父上は、ここまで見せませんでした」


「知らなかった?」


「王族しか入れない場所があるとは聞いていました。ですが、この規模は」


通路は左右へ伸び、奥が見えない。壁の内側から低い振動。巨大な機械が、遠くで一定の周期を刻んでいる。


クロが一歩入る。立ち止まる。鼻先を上げる。「人か」


一度。「何人」


クロは迷うように首を傾げた。「分からない?」


鼻が鳴る。近い場所に複数。さらに奥。一人。ほかとは違う匂い。「奥に誰かいる」


「兵士とは違う?」


クロは伊織を見る。答えられない。


「敵意は」


黒い犬は唸らなかった。「ないのか」


「それとも、こちらに気づいていないのでしょうか」


「この施設を管理してるなら、気づいてる」


伊織は扉の上を見る。小さな黒い半球。カメラに似ている。古代の魔導眼か。それとも別のものか。レンズの周囲には補修した跡がある。新しい金属。手作業。誰かが今も使っている。


「見られてるな」


伊織はカメラへ顔を向けた。反応はない。


「話しかけますか」


「まだいい」


「警戒されています?」


「こっちもしてる」


通路へ進む。最初の交差路。壁には古代文字の案内。その下へ木札が取りつけられていた。


『A-03』


伊織の足が止まる。「どうしました」


「読める」


「古代文字を?」


「違う」


英数字。ただの管理番号。この世界でも似た記号は使われている。だが、書き方に覚えがある。文字の角度。数字の七へ入った横線。番号の付け方。


「何と」


「区画番号だ」


「それだけ?」


「それだけだ」


それでも、胸の奥へ小さな棘が刺さる。次の配管。


『A-04』


さらに奥。


『B-01』


一定の高さ。同じ筆跡。管理のためにつけた番号。


「誰かが整理していますね」


アリアが木札へ触れずに見る。「古代人ではありません」


「ああ」


「王都の技師でしょうか」


「分からない」


「先ほどから、そればかりですね」


「分からないものが多い」


「珍しい」


「俺を何だと思ってる」


「無茶をして、あとから理屈をつける人です」


「否定しにくいな」


クロが鼻を鳴らす。「お前まで同意するな」


奥へ進む。配管の留め具が変わる。古代施設の一体構造ではない。後から穴を開け、金属帯で固定している。帯の端は揃えられ、余分な長さは切り落とされていた。配線も色ごとに分けられ、小さな札で番号がつけられている。乱雑ではない。美しく見せるためでもない。故障したとき、すぐ場所が分かるように。仕事の仕方だった。


「職人ではない」


伊織が言う。「先ほども言いましたね」


「技術者だ」


「違いが分かるのですか」


「直した場所を隠さない」


「なぜ?」


「次に壊れたとき、分かるようにしてる」


アリアは配管を見る。「次がある前提なのですね」


「ああ」


伊織は自分の言葉を聞いた。次。誰かがまた直す。誰かがまた使う。少なくとも、この設備を管理した者はそう考えていた。五十年。誰もいない地下で。もし一人なら。自分のためだけに、次の修理をしやすくしている。


クロが床の隅へ鼻を近づける。油。金属粉。古い革。焦がした穀物のような匂い。


「人の生活臭です」


アリアも気づいたらしい。「ここで暮らしている?」


「可能性はある」


「王都兵では」


「兵士が配管に番号を振るか」


「几帳面な兵士なら」


「工具を持ってればな」


通路の先。作業台。小さな万力。工具箱。蓋には白い文字。


『W.K.』


伊織は近づく。英字。イニシャル。工具箱の横には、使い込まれた作業手袋が置かれていた。指先は縫い直され、革の色が部分ごとに違う。工具。ハンマー。ペンチ。先端の形が違う数種類のドライバー。


伊織は一本を取らず、見る。「この形」


「知っているのですか」


「俺の世界にもある」


「同じ道具?」


「作りは粗い。でも用途は同じだ」


アリアの表情が変わる。「あなたと同じ世界から来た人が」


「まだ分からない」


「道具も、文字も」


「文字は英字だけだ」


「十分では?」


「英字を使う世界が一つとは限らない」


「慎重ですね」


「間違えたくない」


伊織は工具箱から離れた。胸の奥では、すでに答えが形を持ち始めている。だが、口にすれば確定してしまう。期待になる。同じ世界から来た人間。帰還方法を知っているかもしれない。日本を知っているかもしれない。南条がいた場所を。失った世界を。


「東さん」


アリアの声が近い。「何だ」


「帰りたいですか」


伊織は彼女を見る。銀紫の髪。暗い地下でも紫の瞳ははっきり見える。その足元にクロ。


「分からない」


「そうですか」


「聞かないのか」


「何を」


「理由」


「今、答えられないのでしょう」


「ああ」


「なら、答えられるときに聞きます」


アリアは先へ向き直る。「ですが、勝手に決めないでください」


「何を」


「帰ることも、帰らないことも」


「俺のことだ」


「私にも関係があります」


言ったあと、アリアは僅かに頬を逸らした。「クロにも」


「クロを先に出すな」


「先ではありません」


「同時?」


「......進みます」


アリアは歩き出した。伊織は少し遅れて続く。クロが二人の間へ入る。


通路の奥で、何かが動いた。機械音。短い。規則的。天井に取りつけられた古いスピーカーが、雑音を吐く。アリアが双剣へ手を掛ける。伊織も足を止めた。雑音。途切れる。次の瞬間。


『冷却系統、異常なし』


男の声。日本語だった。伊織の呼吸が止まる。無機質な報告。感情はない。録音された音声かもしれない。それでも、聞き間違えるはずがない。日本語。五十年、この世界で使われてきた言葉。


「東さん」


アリアが伊織を見る。「今のは、何と」


伊織はスピーカーを見上げた。古い金属網。補修跡。その奥で、機械がもう一度小さく鳴る。「日本語だ」


声にすると、胸の奥へ刺さっていた棘が形を変えた。確信。


「あなたの国の?」


「ああ」


「録音でしょうか」


「分からない」


スピーカーから雑音。


『第二循環路、圧力正常』


同じ男の声。発音が少し硬い。日本人ではないかもしれない。だが、日本で暮らした者の日本語だった。


伊織は通路の奥を見る。白い光。配管。番号。工具。生活臭。一人分の気配。


「いる」


「誰が」


「日本語を話す人間が」


伊織は歩き出した。先ほどより速い。アリアが隣へ並ぶ。「急がないでください」


「急いでない」


「歩幅が違います」


「気のせいだ」


「クロが遅れています」


伊織は足を緩めた。クロが追いつく。「悪い」


黒い犬は鼻を鳴らし、伊織の左脚へ肩を当てた。落ち着け。そう言われた気がした。


「分かってる」


「分かっていない顔です」


アリアが言う。「どんな顔だ」


「帰り道を見つけた人の顔です」


伊織は答えなかった。見つけたのは、帰り道ではない。ただ、自分と同じ世界を知るかもしれない誰かの痕跡だ。それでも、足は前へ出る。


通路の先に、白い隔壁が見えた。その前。人影。二人。王都兵。すでにこちらを待っている。槍。白い外套。背後には赤い警報板。


伊織は歩みを止めた。兵士の一人が槍を構える。


「そこで止まれ」


もう一人が警報板へ手を伸ばす。アリアの風が静かに動いた。クロの身体が低く沈む。伊織は左手を開く。黒い粒子が集まり始める。


「見つかったな」


「最初から見られていました」


「そうだった」


「どうします」


伊織は二人の兵士と、背後の白い隔壁を見る。そのさらに奥。日本語を使う誰か。


「通してもらう」


「穏便に?」


「できるだけ」


警報板へ兵士の指が触れた。赤い光が、地下通路の奥へ走った。


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