第120話 見えない狩人
保守導線は、人が二人並んで歩けるほどの幅しかなかった。左右の壁は白い金属。天井は低く、ところどころ導線が青白く脈動している。足音は反響する。だからこそ、伊織は歩かなかった。
壁際へ身体を寄せる。左手を上げる。停止。アリアもクロも無言で止まる。耳を澄ませる。聞こえる。金属靴。四人。いや、五人。規則正しい歩幅。魔導灯の微かな駆動音。金属鎧が擦れる音。王都の追撃隊だ。
「クロ」
黒い犬が鼻を動かす。すぐに耳が右を向いた。前方ではない。脇道。匂いが二つ。別働隊。伊織は指を二本立てる。アリアは頷いた。風を起こさない。今は魔力の流れすら敵へ悟られる。静かに。静かに殺す。
腰へ手を添える。黒い粒子。鋼鉄の具現。現れたのは拳銃だった。SAT時代に最も長く握っていた相棒。H&K USPタクティカル。その先端へ、黒いサプレッサーがゆっくり装着される。金属音すらしない。魔力が形を与えている。弾倉。装填。薬室確認。左手だけで終える。右肩はまだ使わない。刺激値はわずか。心臓は沈黙したままだ。
「撃ちますか」
アリアが囁く。「まだ。隊長だけ」
「残りは」
「混乱してから」
クロが低く唸った。伊織は壁へ身体を密着させる。追撃隊が角を曲がる。先頭。盾持ち。二番目。槍。三番目。魔術師。四番目。隊長。最後尾。治癒師。
伊織は照準を最後尾へ置いた。理由は単純だった。最初に治療手段を消す。パンッ。乾いた音。矢より小さい。魔導灯の唸りへ消える。治癒師の額へ、小さな穴が開いた。崩れる。
「敵襲!」
隊長が叫ぶ。だが、「どこだ!」誰も分からない。パンッ。二発目。今度は魔術師。喉。詠唱が止まる。
「前だ!」
「違う!」
「右だ!」
誰も撃った場所が分からない。サプレッサーが音を殺している。
「今」
伊織が呟いた。アリアが剣を抜く。風ではない。小さな空気の流れだけ。追撃隊の持つ魔導灯。炎だけを揺らす。灯りが消えた。地下が闇になる。兵士たちの呼吸だけが響く。
「灯りを!」
誰かが叫ぶ。遅い。伊織は腰から黒い円筒を抜いた。閃光手榴弾。VR訓練で何百回も投げた。安全ピン。左手だけで抜く。壁へ当てる。跳ね返る。兵士たちの真ん中へ落ちた。
「伏せ──」
白。轟音。閃光。狭い導線いっぱいへ炸裂する。悲鳴。盾が落ちる。槍が転がる。魔導灯が割れる。
「行く」
伊織が走る。右肩は使わない。左だけ。警棒。黒い粒子。具現。盾兵の顎。叩く。倒れる。槍兵。膝。関節。折らない。立てなくする。
隊長が剣を抜く。速い。だが視界は戻っていない。伊織は踏み込まない。壁を蹴る。位置を変える。隊長の横へ回る。左肘。首筋。隊長が膝をつく。
アリアがようやく動いた。双剣。風を纏う。だが切らない。剣の腹。兵士の手首。武器だけを弾き飛ばす。
「殺さないのですか」
「尋問する」
伊織は答える。隊長の胸ぐらを掴む。拳銃を額へ押し当てる。
「聞く。王都地下。警備配置。保守導線。全部話せ」
隊長は笑った。「話すと、思うか」
伊織も笑う。「思わない」
腰から細い黒い器具を取り出す。鋼線拘束装置。射出。隊長の両腕へ巻き付く。引く。背中側で固定。
「これは、古代兵器か」
「違う。俺の仕事道具だ」
クロが隊長の前へ座った。じっと見る。低く唸る。隊長の額から汗が落ちる。
「噛むのか」
「命令したら」
「しない」
「今はな」
隊長は唇を噛む。視線がアリアへ移る。「王女殿下。裏切られたのですね」
アリアは静かだった。「違います。私は、自分で選びました」
隊長は目を閉じる。「......そうですか。なら、私も、王として。父として」
伊織が首を振る。「違う。お前は兵士だ。王じゃない」
「兵士なら」
「生きて帰れ」
隊長は伊織を見る。「殺さないのか」
「必要ない。情報だけもらう」
その瞬間だった。隊長の首筋へ刻まれていた白い紋章が光る。ヴェルナーの顔色が変わる。
「離れろ!」
遅かった。紋章が砕ける。白い光。隊長の身体が粒子へ変わる。転送。消えた。拘束具だけが床へ落ちる。
伊織は舌打ちした。「自爆ではない」
ヴェルナーが呟く。「王都へ。強制送還だ」
床へ落ちた拘束具を拾う。「つまり、情報は持ち帰られた」
アリアが息を呑む。「私たちの侵入も」
「ああ。もう隠密は終わりだ」
伊織は拳銃を消した。黒い粒子が空気へ溶ける。「なら」
左手で短剣を抜く。保守導線の奥。暗闇。「こっちも遠慮しない」
その時。導線全体へ警報が鳴り響いた。赤い光。白い壁が血の色へ変わる。
『第二観測所異常』
『侵入者確認』
『対象』
『東伊織』
『アリア=シルヴェイン』
『守護獣』
『最優先排除対象』
地下全域で、無数の足音が一斉に動き始めた。静かな潜入は終わる。ここから先は、敵の本拠地そのものを相手にする。




