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第117話 止まらない線

保守車両は、列車というより棺に近かった。細長い黒い車体。窓はない。扉は片側に一つだけ。床から天井まで、白い導線が骨のように走っている。座席は四つ。向かい合わせではなく、すべて進行方向へ向けて固定されていた。背もたれは厚い。腰、胸、脚を止めるための革帯が付いている。


「五十年前に、これへ乗ったのか」


伊織が尋ねた。「一度だけだ」


ヴェルナーは扉の前で、背中から伸びる管を束ねている。五本。それぞれの外殻に金属の留め具を取り付け、車両後部の接続口へ繋いでいく。


「どこまで行った」


「途中まで」


「なぜ戻った」


「制動装置が壊れた」


アリアが車内を見る。「今回も同じ車両ですか」


「修理した」


「いつ」


「四十七年前だ」


伊織は運転席へ目を向けた。「信用できるな」


「どの部分がです」


「修理後、四十七年問題が起きてない」


「動かしていないからでしょう」


「そうとも言う」


クロはアリアの腕の中にいた。毛布に包まれ、顔だけを出している。白い導線が光るたび、黒い耳が僅かに動く。


ヴェルナーが後部座席へ座った。人間の身体を右側。金属半身を左側。管が引かれない角度を確かめ、胸の革帯を締める。


「もっと強く固定しろ」


「骨が折れます」


「折れる前に身体が飛ぶ」


「どの程度の加速なのですか」


「記録上は、立った人間が後ろの壁にめり込む程度だ」


「記録を残した人は」


「死んだ」


アリアの手が止まった。「先に言ってください」


「今言った」


「ヴェルナー」


伊織が運転席から呼ぶ。「何だ」


「帰ったら、言い方を教える」


「帰るつもりか」


「肉を食うんだろ」


「お前が生きていればな」


「お互い様だ」


伊織はクロを見る。「お前は中央」


四つの座席のうち、前方右へアリア。その膝にクロ。前方左に伊織。後方右にヴェルナー。残る一席は荷物で塞いだ。


アリアがクロの身体を毛布ごと固定する。胸を圧迫しないよう、革帯の間に外套を挟む。「苦しくありませんか」


クロが鼻を鳴らす。「それは平気という意味ですか」


「嫌だが我慢する、だ」


「分かるのですか」


「顔に出てる」


「あなたより分かりやすいですね」


伊織は左手だけで、自分の固定帯を締めた。腰。胸。両腿。右肩はリゼルに巻かれた革帯ごと背もたれへ固定する。動かない。息を吸うと肋骨が締めつけられる。


「本当に、これで戦えるのですか」


「移動中に戦う予定はない」


「その言葉は信じません」


「俺もだ」


ヴェルナーが言った。伊織は前方の操作盤へ黒い観測板を差し込む。


『分割管理権限を確認』


『保守車両、起動準備』


白い導線が順番に点灯した。車体下で、何かが噛み合う。歯車ではない。磁力にも似た低い唸り。


「動力は何だ」


「導線内に残った魔力を、前方へ流し続ける」


「後ろから押すのか」


「前から引く」


「途中で導線が切れていたら」


「引く先を失う」


「止まる?」


「車体は進み続ける」


アリアがヴェルナーを見る。「それは止まるとは言いません」


「だから手動制動がある」


操作盤の右端。赤い金属棒。伊織は左手で触れる。「これか」


「引くな」


「試すだけだ」


「今引けば車輪が固定される」


「起動前なら問題ない」


「解除できない」


伊織は手を離した。「先に言え」


「今言った」


「二度目だな」


「数えるな」


前方の扉が閉じる。外の機械群が見えなくなる。車内は白い導線の光だけになった。


『第一観測所接続』


『目的地、東部第二観測所』


『推定所要時間、十一分』


「百二十キロを十一分?」


アリアが言う。「速いな」


「その感想で済ませないでください」


「止まればもっと早い」


「それは到着ではありません」


ヴェルナーが目を閉じる。「口を閉じろ」


「なぜです」


「舌を噛む」


伊織は操作盤を見る。起動表示。三。二。一。車両が動いた。音はなかった。最初の一瞬だけ。次の瞬間、背中が座席へ叩きつけられた。胸の帯が食い込む。右肩へ鈍い衝撃。肺の空気が抜ける。アリアの髪が後ろへ流れた。クロの身体が毛布ごと沈む。ヴェルナーの金属脚が床から僅かに浮き、固定帯へ引かれる。


車体の外で、白い光が線になる。窓はない。それでも壁の継ぎ目から、流れる導線の光が細く見えた。


「十一分......」


アリアが息を絞り出す。「長いですね」


「喋るな」


「あなたも喋っています」


伊織は左手で操作盤へ触れた。速度。表示は数字ではない。導線の負荷。車体安定率。目的地までの距離。残り百十七キロ。すでに三キロ進んでいる。


「速すぎる」


「だから言った」


ヴェルナーの声も揺れている。「この車両に、外を見る機能は」


「前方観測を開け」


「どこだ」


「右上」


伊織が表示へ触れる。操作盤の上に、白い映像が浮かんだ。前方。円筒状の地下導線。壁も床もない。巨大な管の内側を走っている。車両の進行方向へ、白い輪が連続して並んでいる。輪を一つ通過するたび、車体がさらに引かれる。加速。胸の帯が軋む。


「まだ速くなるのか」


「中間点まで」


「そのあと減速?」


「予定では」


アリアがヴェルナーを睨む。「予定という言葉を使わないでください」


「計画に変更するか」


「意味が同じです」


クロが低く唸った。進行方向ではない。車体の後ろ。伊織が振り返ろうとする。固定帯が胸を止める。


「何だ」


クロの耳が後ろへ向く。ヴェルナーも目を開けた。「管が引かれている」


背中から後部接続口へ繋がった五本の管。光の流れが不規則になっている。通常は第一観測所からヴェルナーへ力が流れている。今は逆。車両の後方へ、何かが管を通って近づいている。


「切れ」


「切れば第一観測所の休眠維持が止まる」


「何が来てる」


ヴェルナーは金属の指を後部壁へ当てた。目を閉じる。「管理信号だ」


「どこから」


「東部第二観測所」


黒い管の内部で、白い光が膨らむ。一本。二本。五本すべて。


『外部管理権限による接続要求』


『第一観測所管理者の回収を開始』


「お前も回収対象か」


「私の権限が必要らしい」


「転送個体を完成させるため?」


「可能性が高い」


車両の後部から、金属が擦れる音がした。管の接続口。白いものが滲み出す。液体ではない。粒子。骨に似た細い部品が組み上がっていく。


「車内で構築を始めた」


アリアが固定帯へ手を掛ける。「外します」


「まだだ」


「敵が出ます」


「この速度で立てるか」


「風で身体を固定します」


「クロは」


「私の座席へ残します」


白い部品が増える。脚。腕。頭部。小型個体より細い。人間の骨格に近い。ただし、腕が六本ある。


『管理者拘束機』


「名前からして嫌なものですね」


「同感だ」


伊織は腰の左へ差した短剣を確認した。固定帯を外さなければ抜けない。鋼鉄の具現。小型武器なら刺激値は低い。だが、車両の中。発砲すれば跳弾する。


「警棒を出す」


「車内で具現すれば、導線へ反応する」


ヴェルナーが言う。「どの程度」


「分からん」


「役に立たないな」


「素手でやれ」


「右腕が使えない」


「左がある」


拘束機の頭部が完成する。顔はない。中央に縦長の白い線。六本の腕の先に、針と輪が付いている。


「何をする機械だ」


「私を管ごと固定し、第二観測所へ権限を送る」


「送られたら」


「転送個体の構築が早まる」


「どのくらい」


「数時間」


伊織はアリアを見る。「外せ」


「はい」


二人は同時に固定帯を解除した。伊織の身体が座席から浮く。加速はまだ続いている。背中が後方へ引かれる。左手で前席の縁を掴む。右肩は動かさない。アリアは座席から立たず、両脚を床の固定具へ差し込んだ。風。自分と伊織の身体を前方へ押す。重力に似た圧力が軽くなる。


「クロを頼む」


「最初からそのつもりです」


拘束機が動いた。最初の腕がヴェルナーへ伸びる。金属の輪。管の一本へ巻きつく。


「切るな!」


ヴェルナーが叫ぶ。アリアの剣が止まる。「なぜです」


「第一観測所と繋がっている」


「ではどうすれば」


「腕だけ落とせ」


「簡単に言いますね」


アリアが踏み込む。車体は前へ進む。身体は後ろへ引かれる。その逆方向へ風を送り、距離を詰める。右剣。拘束機の腕を切る。刃が白い金属へ当たる。硬い。火花。完全には落ちない。拘束機の別の腕がアリアの腰へ伸びる。伊織が左手で掴んだ。細い。だが、力は強い。指が開かされる。


「ヴェルナー!」


「何だ!」


「弱点!」


「構築途中の胸部!」


「どこだ!」


「見れば分かる!」


「全部白い!」


拘束機の胸中央。他より光が強い場所。まだ外殻が閉じていない。


「アリア、胸!」


「分かりました!」


彼女が一歩下がる。風を集中。剣を突く。拘束機の腕が二本、交差して防ぐ。防御。その間に別の腕がヴェルナーの首へ輪を掛けた。


「老人を締めるな」


伊織は前席から身体を離した。加速に押され、後方へ飛ぶ。自分から。左肩を拘束機の胸へぶつける。右肩を庇ったため、身体が半回転する。衝撃。息が抜ける。それでも拘束機の体勢が崩れた。


「今!」


アリアの剣が腕の隙間を通る。胸部。紫の風。白い中枢へ突き刺さる。拘束機が震えた。六本の腕が一斉に開く。伊織は後方壁へ飛ばされる。左手で管を掴む。一本。身体が止まる。


「それを掴むな!」


ヴェルナーが叫ぶ。管の白い光が、伊織の腕へ流れ込んだ。視界が変わる。車内ではない。第一観測所。閉じた心臓。その表面を掻く無数の爪。次に、東部第二観測所。巨大な円形施設。中央で組み上がる何か。人型ではない。長い胴。複数の脚。腹部に、人間一人を収める透明な区画。その周囲へ王都の紋章が刻まれている。


『王統適合者搬送器』


そして王都地下。巨大な白い輪。輪の中央へ、誰かの記憶が映っている。東京。夜の道路。雨。南条。伊織自身の記憶。それを、機構が座標へ変換している。


「伊織!」


アリアの声。視界が戻る。左手が管へ貼りついている。黒い観測板が胸元で光っている。


『管理権限への不正接触』


『記憶座標を照合』


拘束機の胸部が再び光る。壊れていない。アリアの剣が刺さったまま、腕が動く。一本が伊織の左腕へ。針。記憶を抜く。伊織は管から手を離そうとする。離れない。


「アリア、腕を!」


彼女は刺した剣を捻る。抜けない。もう一本の剣を逆手に持ち、伊織へ伸びる針を切った。白い破片が飛ぶ。拘束機の別の腕がアリアの背へ回る。輪。首。クロが吠えた。弱い声。だが、黒い粒子が車内へ広がる。伊織の左手と管の間へ入り込む。貼りついた感覚が薄れる。


「もう一度!」


伊織が叫ぶ。クロが身体を起こす。革帯に押さえられたまま、黒い光を強める。管が震える。伊織の手が外れた。勢いで前方へ飛ぶ。アリアの伸ばした手を左で掴む。風が二人を車体中央へ戻した。


「胸部を壊す」


「先ほど刺しました」


「中にもう一つある」


管を通じて見た。拘束機の胸。白い中枢の奥。黒い小さな核。古代機構の部品ではない。東部第二観測所から転送された命令核。


「黒い核を狙え」


「見えません」


「開ける」


「どうやって」


「警棒」


伊織は左手を開いた。黒い粒子。「鋼鉄の具現」


黒い警棒。車内の導線が一瞬明滅する。


『境界刺激、一・一』


「問題ない」


「今はです」


拘束機が再びヴェルナーへ腕を伸ばす。伊織は風に押されながら前へ出た。後方へ引かれる力を利用する。拘束機の腕を警棒で受ける。正面から止めない。外へ流す。二本目。身体を沈める。右肩を固定したまま、左肘で腕の内側を押す。三本目。警棒を縦に立てる。輪が棒へ掛かる。巻き取られる前に手を離す。拘束機が警棒を奪う。


「今です!」


アリアが突進する。刺さった剣を足場にして身体を浮かせ、胸部へ蹴りを入れる。外殻が開く。白い中枢。その奥。黒い核。


「見えました!」


もう一本の剣。突き。拘束機の腕が防ぐ。刃が止まる。


「クロ!」


伊織が呼ぶ。黒い光。アリアの剣へ流れる。紫の風へ混ざる。刃が一寸進む。腕の装甲を貫く。さらに一寸。黒い核へ届く。


「壊れなさい!」


風が一点で爆ぜた。黒い核に亀裂。拘束機の全身が止まる。六本の腕から力が抜けた。白い部品が崩れる。粒子へ戻らない。床へ散らばる。車両は走り続ける。


伊織は警棒を消した。


『境界刺激、〇・六』


「減った」


「クロのおかげです」


黒い犬は再び座席へ沈んでいる。呼吸が荒い。アリアがすぐに戻り、毛布の上から胸へ手を当てた。「脈はあります」


「無理をさせた」


「私たちもしました」


ヴェルナーが管を確認する。五本。一本の外殻に亀裂。白い光が漏れている。


「修理できるか」


「第二観測所まで持てばいい」


「持たなければ」


「第一観測所の休眠維持率が下がる」


「どのくらい」


「一本なら、九十一から八十五程度」


「危険は」


「王都が扉を開かなければ、すぐには」


「開こうとしてる」


「ああ」


車両の前方表示が赤くなる。


『中間点通過』


『減速工程へ移行』


誰も安心しなかった。速度表示。減っていない。


「減速してない」


伊織が言う。「工程へ移行しただけだ」


「同じではないのですか」


アリアが尋ねる。「前方導線が逆向きに力を流せば減速する」


「流れていない?」


ヴェルナーが操作盤を見る。白い輪。すべて前方へ向いたまま。


『第二観測所から加速命令を受信』


「止める気がないな」


「管理権限を奪われた」


「手動制動」


伊織は赤い金属棒を見る。「今引けば」


「車輪が固定される」


「そのあと」


「車体が壊れる」


「俺たちは」


「前へ飛ぶ」


「固定帯へ戻る時間は」


残り距離。五十六キロ。推定到達時間。四分。速度はさらに上がっている。前方映像。導線の白い輪。その先に黒い影が見える。


「何だ」


伊織が映像を拡大する。管の途中。巨大な隔壁。閉じている。


「第二観測所の防壁だ」


ヴェルナーが言う。「開かないのか」


「こちらを壊すつもりだ」


「手動制動を使う」


「今使えば、隔壁までに止まれない」


「では」


「速度を落としながら、隔壁を開ける」


「どうやって」


「権限を奪い返す」


「さっき拘束機を壊した」


「あれは私を回収するための端末だ。権限核は第二観測所にある」


「遠隔で触れるか」


「管が繋がっている」


ヴェルナーは亀裂の入った管へ金属の手を当てた。「何をする」


「逆流する」


「何が」


「私を」


人間の目が閉じる。金属半身の光が強くなる。背中の管へ、ヴェルナーの身体から白い光が流れ込む。


「やめろ」


「他に方法はない」


「第二観測所へ着いてから切断するんだろ」


「着かなければ切れん」


「どのくらい持っていかれる」


「分からん」


「そればかりだな」


「五十年もあれば、分からないことの方が増える」


ヴェルナーの身体が震える。管の光が、車両後部から前方へ走る。操作盤。導線。前方映像。閉じた隔壁の中央へ白い線が現れる。


『第一管理者権限を確認』


『競合』


『東部第二観測所管理権限を優先』


「押し返されてる」


伊織が言う。「王統権限が上にある」


「アルドか」


「承認時に第二観測所へ一部を渡した可能性がある」


アリアの顔が強張る。「父上の権限を、私が上書きできますか」


「王統適合者なら可能かもしれん」


「やり方は」


「観測板へ血を」


「待て」


伊織が止める。「生命消費は」


「隔壁開放だけなら小さい」


「どの程度」


「一以下」


「推定か」


「そうだ」


「アリア」


「やります」


「まだ何も」


「他の方法がありますか」


隔壁。残り四十キロ。三分。


「ない」


「では」


アリアは腰の小刀を抜く。左手の指先へ刃。浅く切る。血。黒い観測板へ触れる。銀の樹の紋章が浮かんだ。


『王統適合者を確認』


『管理権限を照合』


『アルド=シルヴェイン』


『アリア=シルヴェイン』


『優先権を選択』


「選べるのか」


アリアが父の名を見る。その下。自分。「私を」


触れる。


『王統権限を一時移行』


ヴェルナーの管へ流れる光が強くなる。


『第一管理者権限との共同操作を確認』


『隔壁開放を承認』


前方。閉じた隔壁が動く。遅い。中央の線から左右へ開く。車両が通れる幅には、まだ足りない。残り二十八キロ。


「減速は」


伊織が尋ねる。「できん」


「なぜ」


「隔壁へ権限を使っている」


「同時にできない?」


「王統権限は慣れていない」


「私のせいですか」


「機構のせいだ」


伊織は赤い制動棒を見る。「隔壁が開いたら引く」


「早すぎれば途中で止まる」


「遅ければ第二観測所へ突っ込む」


「ああ」


「目安は」


「残り五キロ」


「速度を見て決める」


「できるのか」


「止まらない車両は初めてだ」


「安心させる気がないな」


「事実だ」


アリアが固定帯を締め直す。クロを自分の胸へ抱き、毛布ごと押さえる。「伊織も座ってください」


「制動棒が遠い」


「届くように固定します」


伊織は運転席へ身体を戻す。腰。胸。腿。アリアが手を伸ばし、左肩の帯を締める。


「右は」


「リゼルさんの固定があります」


「外れたら」


「私が押さえます」


「自分を固定しろ」


「両方します」


ヴェルナーは座席へ沈んでいる。人間の側の顔色が悪い。金属半身だけが白く光っている。


「生きてるか」


「うるさい」


「なら大丈夫だ」


「その判断基準を改めろ」


隔壁。開く。車両一台分。左右の端が車体を掠める幅。


「通れる」


「中央へ寄せろ」


「操舵は」


「ない」


「なぜだ」


「導線が中央へ引く」


「失敗すれば」


「壁だ」


「説明が雑だな」


隔壁が迫る。白い輪。黒い壁。開いた隙間。車体が通る。左右から火花。金属が削れる音。車内が激しく揺れる。クロが吠える。アリアが身体を丸め、黒い犬を守る。伊織の右肩へ衝撃。視界が暗くなる。それでも左手を制動棒の上へ置いた。


残り距離。九キロ。速度。表示の赤い帯が上限へ達している。


「まだだ」


ヴェルナーが言う。「分かってる」


七キロ。前方映像。導線の先。東部第二観測所。巨大な円形空間。中央軌道の終点に、壁がある。車止めはない。ただの石と金属。


「五キロ!」


アリアが叫ぶ。伊織は制動棒を引いた。重い。動かない。


「固い!」


「両手で引け!」


「右は使えない!」


アリアが固定帯を外そうとする。「動くな!」


「ではどうするのです!」


伊織は左足を操作盤の下へ掛ける。左手で棒を掴む。身体全体を後ろへ倒す。右肩を動かさない。胸の固定帯へ体重を預ける。金属棒が僅かに動く。一寸。二寸。車両下から悲鳴のような音。


『手動制動を検出』


『警告』


『車体損壊率、十二』


速度が落ち始める。だが、遅い。残り三キロ。


「もっと引け!」


ヴェルナーが叫ぶ。「やってる!」


伊織は左足で操作盤を蹴る。身体を後ろへ。棒がさらに倒れる。


『車体損壊率、二十八』


車内の白い導線が一本切れる。火花。荷物が浮く。前方へ飛ぶ。アリアが風で壁へ押しつける。残り二キロ。終点の壁が大きくなる。速度は半分。それでも速い。


「止まらない!」


「分かってる!」


クロが頭を上げる。黒い光。車両全体へ広がる。導線の白と混ざる。


『境界安定補助を確認』


『車体固定率、上昇』


「クロ、やめろ!」


黒い犬はやめない。車両と導線の接続が安定する。制動力が上がる。速度がさらに落ちる。残り一キロ。壁。八百。六百。


「まだ速い!」


アリアが左手を前へ向ける。「何をする」


「風で押し返します」


「車内だけでは」


「外へ出します」


床の亀裂。隔壁で削れた車体側面。そこへ風を集中する。外向き。前方へ噴き出す。逆噴射。車両が揺れる。速度。落ちる。三百。二百。


「止まれ!」


伊織が制動棒を最後まで引いた。車輪が固定される。黒い車体が軌道を削る。火花。白い光。石と金属が裂ける。車両は横へ振られない。導線が中央へ縫い止めている。百。五十。前方の壁。十。


車両が停止した。


静寂。誰もすぐには動かなかった。金属が熱で鳴る。どこかから白い煙。伊織は左手を制動棒から離す。指が開かない。握った形のまま固まっている。


「着いたか」


「壁の手前です」


アリアの声。「どのくらい」


「二メートルです」


「十分だ」


「何が十分なのですか」


クロが毛布の中で息を吐く。伊織は固定帯を外した。右肩。感覚はある。痛みもある。まだ繋がっている。


「ヴェルナー」


返事がない。後部座席。老人は目を閉じている。管の光も弱い。


「ヴェルナー」


伊織は座席から立つ。足が震える。身体がまだ前へ進んでいるように感じる。後部へ近づく。人間の首へ左手を当てる。脈。遅い。ある。


「生きてる」


「当然だ」


目を閉じたまま返事が来た。「起きてるなら返事しろ」


「着いたばかりで騒ぐな」


「管は」


「一本死んだ」


亀裂の入った管。白い光が消えている。残り四本。


「第一観測所は」


「休眠維持率、八十四」


「危険は」


「王都の接続が進めば下がる」


「ここを止めれば」


「回復する」


アリアがクロの固定を外す。黒い犬は立てない。それでも目は開いている。「クロは私が抱きます」


「剣は」


「必要なら風を使います」


伊織は反論しなかった。車両の扉。手動解放。左手で回す。重い。アリアが風で補助する。金属が軋む。扉が開いた。


東部第二観測所。第一観測所よりも広い。だが、静かではない。巨大な円形空間の中央。白い部品が空中で組み上がっている。転送個体。長い胴。六本脚。腹部の透明区画。まだ骨格だけ。構築率。


『三十八』


「二十一時間ではなかったのですか」


アリアが言う。「拘束機が私の権限を一部送った」


ヴェルナーが車両から降りる。最初の一歩で金属脚が崩れかける。伊織が左腕で支えた。


「触るな」


「倒れるよりましだ」


「自分で歩ける」


「歩いてない」


ヴェルナーは伊織の腕を振り払おうとした。力がない。


「切断設備は」


観測所の奥。白い円筒。人間一人が入れる大きさ。「そこだ」


「先に転送個体を止める」


「先に私を切れ」


「切ったら権限が弱くなる」


「今のままでは、第二観測所に吸われ続ける」


ヴェルナーの背中の管。白い光が、観測所中央へ流れている。転送個体。構築率、三十九。


「時間がない」


アリアが言う。「二手に分かれます」


「駄目だ」


「では、同時に」


「どうやって」


アリアはクロを伊織へ渡した。「私がヴェルナーを切断設備へ連れていきます」


「転送個体は」


「伊織が止める」


「一人で?」


「クロと二人です」


黒い犬が伊織の腕の中で顔を上げる。疲れている。それでも、白い骨格を見て唸った。


「敵が起動したら」


「起動する前に止めてください」


「簡単に言うな」


「あなたに合わせています」


ヴェルナーがアリアを見る。「私は歩ける」


「聞いていません」


風が老人の身体を下から支える。足が床から僅かに浮く。


「降ろせ」


「急ぎます」


「荷物ではない!」


「分かっています!」


アリアは切断設備へ走る。ヴェルナーを半分運びながら。伊織はクロを床へ下ろした。


「立てるか」


クロは前脚へ力を入れる。一度沈む。それでも立つ。


「無理はするな」


黒い瞳が伊織を見る。「俺もか」


鼻が鳴る。「分かった」


転送個体。構築率、四十一。周囲に浮かぶ部品。外殻。脚。拘束腕。伊織は右肩を動かさず、左手を開く。大きな兵器は出せない。ここは観測所の内部。心臓へ直接繋がっている。刺激値を上げれば、第一観測所の休眠維持が崩れる。


「小さいものでやる」


黒い粒子。鋼鉄の具現。爆薬ではない。警棒でもない。VRで古代兵器の中枢を抜くために使った、鋼線式の拘束装置。黒い射出器。先端に四つの爪。狙うのは転送個体ではない。空中で部品を支える白い輪。四つ。


「クロ」


黒い犬が低く鳴く。「右を頼む」


理解したかは分からない。それでもクロは、伊織の右側へ歩いた。転送個体の頭部が完成する。白い線。伊織へ向く。


『境界鍵候補を確認』


『東伊織』


『守護獣』


『王統適合者』


三つの目標。伊織は射出器を構えた。「全部、渡す気はない」


引き金。黒い爪が飛ぶ。一本目の白い輪へ食い込む。鋼線が伸びる。伊織は左腕へ巻きつけた。二本目。三本目。四本目。すべての輪へ爪が掛かる。転送個体の六本脚が動いた。まだ完成していない。骨格だけ。それでも、一歩を踏み出す。伊織は鋼線を握る。


「クロ!」


黒い犬が白い輪の一つへ飛びついた。噛める距離ではない。だが、黒い粒子が輪へ絡む。転送の光が乱れる。


『構築不安定』


伊織は左足を後ろへ引く。腰。背中。右肩を使わない。全身で鋼線を引く。白い輪が傾く。一つ。外れる。転送個体の右前脚が空中で崩れた。部品へ戻る。


「あと三つ」


骨格がこちらへ向く。胸部の白い光。未完成の砲口。「撃てるのか」


光が集まる。伊織は鋼線を離さない。逃げれば輪が戻る。クロが吠える。黒い光が砲口へ伸びる。白い光が乱れた。発射。細い。未完成。伊織の左脇を通り、後ろの壁へ穴を開ける。熱。外套が焼ける。


「十分だ」


伊織は二本目の鋼線を引いた。白い輪。動かない。転送個体が六本の拘束腕を伸ばす。伊織の首。左手。右肩。クロ。複数。伊織は一本目の鋼線を足へ巻きつける。左手を空ける。ヴォルフから受け取った短剣を抜く。最初の腕。切れない。刃を滑らせ、軌道を逸らす。二本目。右肩へ。身体を左へ沈める。革帯の外側を掠める。三本目。クロへ。


「伏せろ!」


黒い身体が地面へ沈む。拘束腕が頭上を通る。クロがその腕へ噛みつく。牙。黒い粒子。白い金属へ亀裂。


「そのまま!」


伊織は二本目の鋼線を引く。クロが噛んだ腕を支点に、転送個体の身体が傾く。白い輪へ横方向の力。二つ目。外れる。左側の脚二本が崩れる。転送個体が膝をつく。


『構築率、三十四』


下がった。残り二つ。切断設備から、アリアの声。「伊織!」


「何だ!」


「設備が動きません!」


「なぜ!」


「王統権限が必要です!」


「お前の血で!」


「ここから離れると、ヴェルナーの管が切れます!」


ヴェルナーは円筒の中。背中の管を接続部へ固定している途中。アリアが操作盤へ手を伸ばせば、老人を支える風が弱くなる。


「俺が行く」


「転送個体は!」


「クロに任せる」


黒い犬が伊織を見る。無理だ。残り二つの輪。未完成でも、敵は動く。


「違う」


伊織は鋼線をまとめて左腕へ巻く。「こいつを連れていく」


転送個体へ背を向ける。走る。左手の鋼線。輪を引いたまま。転送個体の骨格が、伊織に引かれて前へ崩れる。脚が足りない。床を引きずられる。クロが横を走る。伊織の右側。速度は遅い。それでも離れない。


「アリア、操作盤を!」


彼女がヴェルナーから手を離す。風が弱まる。老人の金属脚が床へ落ちる。


「乱暴だ!」


「黙ってください!」


アリアが自分の傷口を開く。血。操作盤へ押しつける。


『王統権限を確認』


『切断設備を起動』


円筒の扉が閉じる。ヴェルナーの管。五本。一本ずつ固定される。


『管理権限の移行先を選択』


「第二観測所!」


ヴェルナーが叫ぶ。


『東部第二観測所へ移行』


『生命維持接続を切断』


伊織の鋼線が引かれる。転送個体が腕を床へ突き刺し、止まろうとする。残り二つの輪が強く光る。


『王統適合者を検出』


転送個体の頭部がアリアへ向く。拘束腕。伸びる。


「アリア!」


彼女は操作盤から手を離せない。権限移行中。伊織は鋼線を引く。間に合わない。クロが走った。アリアの前へ。黒い身体。拘束腕が迫る。


「クロ!」


黒い粒子が弾けた。犬の身体を包む。大きくなるわけではない。黒い輪郭が二重になる。影が、クロの前に立つ。巨大な黒い獣の形。拘束腕が影へ当たる。止まる。床が割れる。クロの脚が沈む。それでも退かない。


『守護獣防壁を確認』


アリアの目が見開かれる。「クロ......」


伊織は鋼線を両脚へ巻きつけた。左手で残り二本を掴む。背中を向ける。全身で前へ出る。


「持たせろ!」


白い輪。三つ目が傾く。転送個体の胸部が崩れる。砲口が消える。腕の力が弱まる。クロの影が押し返す。


『構築率、二十一』


切断設備。


『生命維持接続を遮断』


ヴェルナーの身体が跳ねる。五本の管が中央で切断される。白い光。血ではない。灰色の液体が円筒の床へ散る。ヴェルナーが叫ぶ。初めて聞く声だった。痛みを隠さない。人間の喉。金属半身の光が消える。


『管理権限移行、完了』


観測所全体が一度暗くなる。転送個体の白い輪。最後の一つだけが残る。光が弱い。伊織は鋼線を引いた。輪が外れる。転送個体の骨格が崩壊した。白い部品。腕。脚。透明な拘束区画。すべてが床へ落ちる。


『構築中断』


『王都への転送を停止』


静寂。クロの前に立っていた巨大な影が薄れる。黒い犬の身体が倒れた。アリアが操作盤から手を離し、抱き上げる。「クロ」


呼吸。ある。浅い。目は閉じている。


「伊織!」


「先にヴェルナーだ」


円筒の扉を開く。中。老人が座り込んでいる。白い外套は灰色の液体で濡れている。背中の管。途中で切れ、短く残っている。金属半身。完全に暗い。


「ヴェルナー」


返事がない。伊織は首へ手を当てる。脈。ない。


「ヴェルナー」


人間の胸へ耳を当てる。微かな音。一度。長い間。もう一度。


「生きてる」


「本当に?」


アリアがクロを抱いたまま近づく。「ああ」


伊織は老人の頬を叩く。「起きろ」


反応はない。もう一度。「肉を食うんだろ」


ヴェルナーの口が僅かに動いた。「......硬い」


掠れた声。「文句は食ってから言え」


「塩も......多い」


「リナに直接言え」


「帰れるならな」


「帰る」


ヴェルナーの人間の目が薄く開く。「命令か」


「予定だ」


「その言葉は......嫌いだ」


「俺もだ」


第二観測所の天井で、警告音が鳴った。


『外部接続を検出』


『王都管理区画から再接続要求』


アリアが顔を上げる。「父上です」


空中に銀の樹の紋章。通信要求。伊織は黒い観測板を拾った。「出るか」


アリアはクロを抱き直す。紫の瞳。迷い。痛み。その奥に、決意。「はい」


伊織が接続へ触れる。白い輪。雑音。王都地下の映像。アルド=シルヴェインが立っている。王冠はない。白い儀礼服。背後には巨大な境界輪。周囲に兵士。魔術師。古代機構の操作官。アルドは最初にアリアを見た。次にクロ。伊織。床へ倒れたヴェルナー。


『第二観測所を止めたか』


「ああ」


『転送個体も』


「壊した」


『何をしたか分かっているのか』


「娘を機械に繋ぐ予定を止めた」


『王都十万人の帰還路を失わせた』


「誰が帰る」


『こちらの世界から、避難させる』


伊織は目を細めた。「俺だけじゃないのか」


『王都そのものを、お前の世界へ移す』


アリアが息を止める。「父上、何を」


『この世界は持たない』


アルドの背後。白い輪に映る景色。東京ではない。灰色の空。崩れる大地。遠くで、世界そのものが裂けている。


『境界の外側から、侵食が始まっている』


『王都を残せば、全員が死ぬ』


『アリア』


アルドは娘を見る。


『お前の命で、十万人を救える』


アリアの腕の中で、クロが僅かに動いた。伊織は通信へ一歩近づく。


「それを、本人に選ばせる気はあるか」


アルドは答えなかった。沈黙だけで、十分だった。


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