第116話 承認した男
伊織が目を覚ましたとき、食堂の炉には新しい薪が入っていた。窓の外は明るい。眠ったのは夜明け前だったはずだが、陽はすでに屋根の高さを越えている。
右肩に痛みはある。だが、刺すような熱は引いていた。長椅子の足元では、クロが丸くなっている。黒い耳が伊織の呼吸に合わせて僅かに動いた。
向かいの椅子には、アリアがいない。代わりに、畳まれた外套と、一枚の紙が置かれていた。伊織は紙を取る。
『起きても動かないでください』
その下。『本当に動かないでください』
さらに下。『地下へ行く場合は、必ず私を起こしてください』
「遅いな」
伊織が呟く。「何が?」
背後から声がした。リナが鍋を運んでいる。「もう起きたあとだ」
「紙を置いた人も、あなたが守るとは思ってないでしょうね」
「信用がない」
「積み重ねた結果よ」
リナは机へ木椀を置いた。肉と根菜のスープ。湯気が上がっている。
「食べて」
「地下へ」
「食べてから」
「肉は」
「包んである」
机の端。布で包まれた塩漬け肉。焼き目を付け、香草と僅かな酒で匂いを残している。
「冷めたな」
「二回焼き直した」
「悪い」
「本当にね」
言葉ほど怒ってはいない。リナはクロの水皿を入れ替え、黒い頭を軽く撫でた。
「この子も食べた」
「どのくらい」
「少し。自分で」
「なら大丈夫だ」
「大丈夫ではないけど、昨日よりはいい」
クロが目を開ける。伊織を見る。起き上がろうとはしなかった。
「学習したな」
「あなたより早いわね」
伊織はスープを口へ運んだ。温かい。塩気が強い。身体が、ようやく自分のものへ戻ってくる。
「アリアは」
「二階で寝てる。剣を抱えたまま」
「起こす」
「食べてから」
「同じことを二度言うな」
「一度で聞かないから」
伊織は黙ってスープを飲み切った。木椀を置く。
「行く」
「あと一杯」
「腹が重くなる」
「地下で倒れるよりいい」
「倒れない」
「昨日も聞いた」
リナは二杯目を注いだ。伊織は諦めた。
◆
アリアを起こす必要はなかった。階段へ足を掛けたところで、上から扉が開いた。髪を下ろしたままのアリアが立っている。眠そうな顔。だが、目は鋭い。
「どこへ行くのです」
「地下」
「紙を読みましたか」
「読んだ」
「では、なぜ一人で行こうとしたのです」
「起こしに来た」
「階段を下りながら?」
「途中だった」
「どこまでが途中なのです」
アリアはため息をつき、部屋へ戻る。すぐに髪をまとめ、双剣を背負って降りてきた。
「肩は」
「動かさなければ平気だ」
「動かすでしょうね」
「地下へ行くだけだ」
「昨日も同じことを言いました」
クロが長椅子から顔を上げる。伊織が近づくと、前脚へ力を入れた。
「お前は残れ」
耳が伏せる。「今日は戦わない」
クロは動かない。「本当にだ」
「説得力がありません」
アリアが言う。「お前が言うな」
「私は約束を破っていません」
「砲塔の外へ乗った」
「あれは約束していません」
「次から禁止だ」
「断ります」
クロが小さく鼻を鳴らした。呆れているように聞こえた。伊織は黒い頭へ手を置く。
「ここにいろ。戻る」
今度は、クロは立たなかった。伊織の手へ鼻先を押しつけ、そのまま顎を毛布へ戻す。
「聞き分けがよくなりましたね」
「心配だな」
「あなたが言いますか」
二人は肉の包みと黒い観測板を持ち、食堂を出た。
町は修復へ動き始めている。西門では焼けた木材が運び出され、水路からは大型個体の装甲片が荷車で運ばれていた。広場の端には、黒い履帯の跡を写し取ろうとする者までいる。
「何をしてる」
伊織が尋ねる。若い兵士が振り返った。「昨日の鉄の車の跡を記録しています」
「消せ」
「なぜです」
「寸法を真似しても動かない」
「記録するだけです」
「王都へ送るな」
兵士の顔が固まる。「送るつもりは」
「誰かが買いに来ても売るな」
「分かりました」
アリアが横目で見る。「疑いすぎでは」
「戦車を見れば欲しがる」
「父上も?」
「特に王は」
「否定できません」
旧井戸脇の保守入口。黒い観測板を近づける。
『管理鍵を確認』
石畳が開く。階段を下りる。上層観測室を通過し、さらに深層へ。昇降台。白い導線。機械の森。昨日まで響いていた駆動音はない。心臓は眠っている。だが、完全な静寂でもなかった。遠く。低い摩擦音。閉じた境界の向こうから、爪が表面を掻いている。
ヴェルナーは作業机に座っていた。目を閉じている。金属半身の光は、昨日より弱い。
「死んだか」
「聞こえている」
目を閉じたまま答える。「なら起きろ」
「老人を労るという発想はないのか」
「肉を持ってきた」
ヴェルナーの人間の目が開いた。「本当か」
「匂いだけだぞ」
「分かっている」
伊織は包みを机へ置く。布を開く。冷めた肉。香草。酒。地下の油と金属の臭いの中へ、食べ物の匂いが広がる。
ヴェルナーは動かない。人間の目だけを肉へ向けている。
「近くへ」
伊織は皿を老人の前へ押した。ヴェルナーが息を吸う。一度。ゆっくり。目を閉じる。
「どうだ」
「塩が多い」
「匂いで分かるのか」
「酒も安い」
「贅沢を言うな」
「肉が硬い」
「食べてないだろ」
「焼き方で分かる」
アリアが口元を僅かに緩める。「気に入らなかったのですか」
「誰もそうは言っていない」
ヴェルナーはもう一度、匂いを吸い込んだ。今度は長く。
「......悪くない」
「リナに伝える」
「余計なことをするな」
「五十年ぶりに褒められたと」
「褒めていない」
「同じだ」
ヴェルナーは肉から顔を背けた。人間の側の頬が僅かに濡れているように見えたが、伊織は見なかったことにした。
「報告がある」
「大型個体か」
「知ってるのか」
「心臓へ刺激が来た」
ヴェルナーの視線が伊織へ戻る。「何を出した」
「戦車」
「馬鹿か」
「必要だった」
「主砲を何発撃った」
「三発」
「馬鹿だな」
「二度言うな」
「境界刺激は」
「最大九・九。臨界は越えてない」
「守護獣が吸収したのか」
「ああ」
「無事か」
「寝てる」
「それを無事とは言わん」
「俺もそう思う」
ヴェルナーは金属の指で机を叩いた。「次は使うな」
「次も必要なら使う」
「なら、先に心臓を殺せ」
「向こう側の制御核を壊せば止まるんだろ」
「理論上はな」
「行く方法を調べろ」
「簡単に言う」
「五十年いた」
「五十年、行けなかった」
「なぜ」
「扉を開けば、あれが来る」
閉じた心臓。爪の音。
「こちらから入るだけの隙間を作れないのか」
「一方通行の境界など存在しない。開けば双方に開く」
「小さく開く」
「お前一人が通れる大きさでも、向こうの指一本は通る」
「なら、指を切って入る」
「切れば増えると見ただろう」
「押し返す」
「向こう側で何体いると思っている」
「知らない」
「私も知らん」
「では、知る方法を探す」
ヴェルナーは苛立ったように目を細める。「お前は何でも探せば見つかると思っているのか」
「見つからないと決めるよりましだ」
「死者を増やす考え方だ」
「何もしなくても増える」
爪の音。王都地下。東部第二観測所。世界各地の施設。扉は一つではない。
「アルドがアリアを適合者として承認した」
ヴェルナーの指が止まる。「何?」
伊織は黒い観測板を机へ置く。簡易表示。銀の樹の紋章。王統適合者。女性。若年。高魔力。承認者、アルド=シルヴェイン。
ヴェルナーは表示を長く見た。「王統系統が生きていたか」
「どういう意味だ」
「古代機構の管理権限は、血統で継承される場合がある」
「シルヴェイン王家が古代人の末裔?」
「その可能性は低い」
「では」
「機構が後世の支配者を管理者として登録した」
「誰が登録した」
「最初の王だろう」
アリアが前へ出る。「初代国王が古代機構を知っていたのですか」
「知っていた可能性は高い」
「記録にはありません」
「王家の記録すべてを読んだのか」
「一部は」
「隠すなら、王族にも読ませない」
アリアの表情が硬くなる。「父は、私を何に使おうとしているのです」
「表示だけでは分からん」
「境界鍵候補です」
「鍵にも種類がある」
「種類?」
「開く鍵。閉じる鍵。座標を固定する鍵。向こう側へ送る鍵」
「どれです」
ヴェルナーは表示へ金属の指を当てた。文字列を開く。権限層。深い部分。通常の簡易観測では見えなかった記録が展開する。
『王統適合者』
『境界座標の固定に使用』
『生体負荷、推定六十三』
「六十三?」
アリアが尋ねる。「何の数値だ」
伊織が言う。「生命維持率だ」
ヴェルナーの声が低くなる。「百から始まり、処理ごとに減る」
「ゼロで死ぬ」
「ああ」
「六十三は、残る値か」
「違う」
ヴェルナーは表示を拡大する。
『推定消費率、六十三』
アリアが息を止めた。「生命の六割以上を使う?」
「成功した場合だ」
「失敗すれば」
「全損」
伊織は表示を見た。怒りはなかった。冷えただけだ。
「アルドは知ってるのか」
「承認画面には表示される」
「見落とす可能性は」
「ない」
アリアが一歩下がった。「父上は知っていて承認した」
「そうなる」
「十万人のために」
声が掠れる。伊織はアリアを見た。彼女は泣いていない。怒ってもいない。ただ、何かを確かめるように表示を見続けている。
「何を固定する」
伊織が尋ねた。「王都の接続座標だ」
「俺の世界へ?」
「その可能性はある」
「アリアを使えば、扉が安定する」
「ああ」
「その間に俺を送り返す」
「おそらく」
「そして境界を閉じる」
「守護獣がいなければ、王統適合者が代替になる」
「代替になった人間は」
「機構へ残る」
壁に埋め込まれた旧管理者たち。肉体の一部を機械へ変えられ、心臓を維持し続ける者。
「アリアも、あれになるのか」
「処理次第では」
ヴェルナーは否定しなかった。「父上は、私を王都へ戻すよう命令しました」
アリアが言う。「戻った時点で拘束される可能性があるな」
伊織は観測板を外套へ入れた。「王都へ行くのはやめる」
アリアが顔を上げる。「何を言っているのです」
「敵の中へ自分から入る必要はない」
「ですが、父上を止めなければ」
「別の方法で止める」
「通信では止まりません」
「王都地下の導線を切る」
「十万人の魔導炉が止まります」
「止めずに流れを変える」
「どうやって」
「それを調べに来た」
伊織はヴェルナーを見る。「王都機構の構造図を出せ」
「完全なものはない」
「ある分だけ」
「お前は王都へ行かないのか」
「アリアは行かせない」
「東さん」
「お前を置いていくという意味じゃない」
「では」
「王都の外から入る」
アリアが眉を寄せる。「外から?」
「城門を通らない」
「地下?」
「王都機構は古代導線へ繋がってる。保守路があるはずだ」
ヴェルナーが黙った。「あるな」
「一つだけ」
「どこへ出る」
「王都北側の旧水路。そこから地下管理区画へ入れる」
「知っていたのですね」
アリアの声に棘が戻る。「五十年前の話だ。今も残っている保証はない」
「地図を」
「待て」
ヴェルナーは伊織を見る。「王都へ行く前に、東部第二観測所を止めろ」
「なぜ」
「お前たちが移動すれば追跡される」
「昨日の回収部隊は失敗した」
「だから次は、王都へ先回りする」
伊織は観測板を再び出す。広域表示。東部第二観測所。再計算中だった文字が消えている。
『新規回収経路を設定』
『王都管理区画と連携』
『適合者移送を優先』
「王都と繋がった」
アリアが言う。「アルドが受け入れたのか」
「自動連携の可能性もある」
「どちらでも同じだ」
伊織は表示を追う。東部第二観測所から、王都へ向かう赤線。複数。昨日より数が少ない。だが、一つだけ表示形式が違う。
『転送個体』
「転送?」
「地上を歩かない個体だ」
ヴェルナーが言った。「導線を通じて、部品状態で移送される。到着先で組み上がる」
「王都地下へ直接出る?」
「ああ」
「何が来る」
表示。種別不明。構築率、十二。推定完成時間。二十一時間。
「明日までに王都へ行けない」
「普通の道ならな」
「保守路は」
「ここから東部第二観測所を経由し、王都導線へ乗れる」
伊織はヴェルナーを見る。「人間も転送できるのか」
「理論上は」
「成功率」
「知らん」
「お前が使ったことは」
「ない」
「他に方法は」
「馬で三日。急いでも二日」
「間に合わない」
「転送なら数分だ」
「危険は」
「身体が裏返る程度で済むかもしれん」
「程度の使い方がおかしい」
「成功すれば元に戻る」
「失敗すれば」
「部品ごと別の場所へ出る」
アリアがヴェルナーを睨む。「それを方法と呼ぶのですか」
「時間内に着く方法だ」
「安全とは言っていない?」
「安全な方法があるなら、最初から言っている」
伊織は考える。東部第二観測所を先に止める。その施設から王都へ転送。移送中の敵個体より先に到着できる可能性がある。だが、第二観測所まで百二十キロ。
「第二観測所へ行く時間もない」
「地上を走ればな」
ヴェルナーが心臓の反対側を指した。巨大な歯車の奥。閉ざされた円形扉。
「地下導線用の保守車両がある」
「動くのか」
「昨日、心臓が再始動した際に一部へ力が戻った」
「どんな車両だ」
「列車に近い」
「地下鉄?」
「日本のものとは違う。もっと悪い」
「何が」
「速い」
「悪くない」
「止まらないことがある」
「悪いな」
アリアが額へ手を当てた。「他の方法を探しましょう」
「二十一時間だ」
「それでも」
「アルドが何を考えているか分からない。転送個体が完成すれば、アリアを確保するために王都の兵まで使う可能性がある」
「父上はそこまで」
「承認した」
アリアは言葉を失う。伊織は続けなかった。責めるためではない。事実だった。
「私も行きます」
「分かってる」
「今度は止めないのですね」
「止めても来る」
「そうではなく」
「お前の父親だ。話す権利がある」
アリアは小さく息を吐いた。「はい」
「クロは置いていく」
「敵はクロも狙っています」
「だから町に置く方が危険か」
「二人とも狙われています」
ヴェルナーが口を挟む。「守護獣を連れていけ」
「回復していない」
「転送時の境界歪みを吸収できる」
「使い切れば死ぬ」
「連れていかなければ、お前たちが死ぬ可能性が上がる」
「選べと言うのか」
「選択しないことも選択だ」
伊織は閉じた心臓を見る。爪の音。昨日、クロは境界を閉じた。戦車の具現を安定させた。今もまともに歩けない。
「クロ自身に決めさせます」
アリアが言った。「またか」
「前もそうしました」
「弱っている」
「それでも、置いていかれる理由を説明せずに決めるのは違います」
伊織はアリアを見る。彼女の父は、娘へ何も告げずに承認した。生命の六割を使う処理。王都へ戻せという命令。必要なら犠牲にするという判断。
「分かった」
伊織は答えた。「戻って話す」
「はい」
「来ると言ったら」
「連れていきます」
「止めないのか」
「止めても来るでしょう」
「同じことを言うな」
「あなたに合わせました」
ヴェルナーが金属の指で机を叩く。「話は終わったか」
「地図を出せ」
「その前に、お前の肩を見せろ」
「なぜ」
「保守車両の加速で千切れる」
「脅しか」
「予測だ」
「固定すればいい」
「身体ごとな」
「方法は」
「座席へ縛り付ける」
「雑だな」
「五十年前の安全基準だ」
「古代機構に五十年前は関係ないだろ」
「私が作った追加設備だ」
「余計に不安だ」
ヴェルナーは机の下から、古い紙束を取り出した。日本語。図面。地下の導線。第一観測所から東部第二観測所。そこから王都。白い線が三つの施設を結んでいる。
「保守車両はここ」
歯車の森の奥。「動力は」
「心臓からではない。導線内の残留魔力を使う」
「心臓への刺激は」
「低い」
「戦車より?」
「比較するな」
「どのくらい」
「車両の起動で〇・八。移動中は一以下」
「使える」
「途中で導線が切れていなければな」
「切れていたら」
「止まる」
「それだけか」
「車両だけは」
「俺たちは」
「壁へぶつかる」
「やはり止まらないのですね」
アリアが呟く。「手動制動は」
「ある」
「使えるのか」
「五十年前は使えた」
「試運転は」
「する時間があると思うか」
二十一時間。町へ戻る時間。クロへ説明する。装備。食料。王都到着後の侵入計画。余裕はない。
「出発は二時間後」
伊織が言った。「リゼルが許可しません」
「連れてくる」
「治療師を?」
「肩を固定させる」
「本人は」
「置いていく」
「怒りますね」
「慣れてる」
ヴェルナーが図面をまとめる。「私も行く」
伊織とアリアが同時に老人を見る。「管は」
「保守車両まで延長できる」
「王都まで?」
「無理だ」
「では、どこまで」
「東部第二観測所」
「そこで死ぬ気か」
「切断できる設備がある」
「切れば心臓とお前が止まる」
「第二観測所へ管理権限を移せば、心臓は休眠を維持できる」
「お前は」
「機構から切り離される」
「死ぬのか」
「分からん」
「またか」
「死ぬ可能性が高い」
アリアがヴェルナーを見る。「なぜ今になって」
「王都地下の転送個体は、私の権限がなければ停止できん」
「観測板では」
「閲覧権限だけだ」
「兵装操作は封じた」
「お前に持たせるのが危険だからな」
「自分で行くつもりだったのか」
「最初からではない」
ヴェルナーの視線が、冷めた肉へ向く。「少し、外を見たくなった」
五十年。この地下。止まった歯車。閉じた心臓。ハルトを失った場所。
「東部第二観測所に外はあるのか」
「地上へ出る出口がある」
「何が見える」
「山だ」
「それだけ?」
「十分だ」
ヴェルナーは皿へ顔を近づけ、もう一度だけ肉の匂いを吸った。
「それに、死ぬなら匂いだけでは割に合わん」
「食べられるようになる可能性がある?」
「機構から切れればな」
「なら生きろ」
「命令するな」
「肉を食うんだろ」
「予定だ」
「予定を守れ」
ヴェルナーは笑った。今度は隠さなかった。「面倒な男だ」
「よく言われる」
アリアが伊織を見る。「また言いました」
「今のは仕方ない」
「数えています」
「本当に一覧を作る気か」
「王都までの車内で」
「暇なら寝ろ」
「止まらない車両で眠れると思いますか」
爪の音が一度、強くなった。閉じた心臓の表面が僅かに膨らむ。ヴェルナーの表情が消える。
『外部接触圧、上昇』
『休眠維持率、九十一』
「下がってる」
伊織が言う。「王都の接続準備が影響している」
「王都で扉を開けば、ここも開く?」
「すべての境界機構は、深層で繋がっている」
「なら、二十一時間もないかもしれない」
「ああ」
伊織は図面を受け取る。「一時間後に戻る」
「二時間では」
「短くした」
「リゼルさんが怒ります」
「時間が減った」
「説明になっていません」
「食堂へ戻るぞ」
昇降台へ向かう。ヴェルナーが管をまとめ、金属の半身へ固定し始める。
「ヴェルナー」
「何だ」
「歩けるのか」
「保守車両までは」
「無理なら運ぶ」
「断る」
「右肩が使えないから、アリアに頼む」
「なぜ私が」
「風で浮かせられる」
「老人を荷物のように扱うな」
「自分で歩け」
「歩くと言っている」
アリアが小さく笑う。ヴェルナーが睨む。「何がおかしい」
「少し安心しました」
「何がだ」
「面倒な人が増えただけです」
伊織は否定しなかった。
◆
食堂へ戻ると、クロは入口で待っていた。立っている。脚は震えているが、自分で。伊織を見つけると、一歩進む。
「誰が歩いていいと言った」
クロはさらに一歩。アリアがしゃがむ。「王都へ行きます」
クロの耳が立つ。「危険です」
黒い瞳がアリアを見る。「あなたを狙う敵もいます」
クロは伊織へ視線を移す。「置いていく方が安全かもしれない」
伊織が言った。クロは動かない。
「だが、転送にはお前の力が必要らしい」
鼻が一度鳴る。「来るか」
クロは伊織の足元まで歩いた。前脚が崩れる。伊織は左腕で抱き上げる。
「それで答えたつもりか」
黒い鼻先が伊織の顎へ触れた。「分かった」
「本当に連れていくのですか!」
リゼルの声が食堂へ響いた。治療道具を抱えたまま、奥から出てくる。
「保守車両で東部第二観測所へ行く」
「何ですか、その不穏な名前は」
「地下を走る車両だ」
「安全なのですか」
「五十年前は」
「今を聞いています!」
「試す」
「駄目です」
「王都地下で敵が組み上がってる」
「だからといって」
「完成まで二十一時間。実際はもっと短い」
リゼルは言葉を止めた。「アリアを機構へ繋ぐための個体だ」
「どういうことです」
「生命の六割以上を使う」
食堂が静まる。リゼルの顔から怒りが消えた。「誰が承認したのです」
「父上です」
アリアが答えた。リゼルは彼女を見る。何かを言おうとして、やめる。
「止めに行く」
伊織が言う。「なら、私も行きます」
「駄目だ」
「治療師が必要です」
「町にも必要だ」
「あなたの肩は移動に耐えません」
「固定しろ」
「移動中に何かあれば」
「アリアがいる」
「戦闘と治療は違います」
「クロもいる」
「犬です」
クロが低く唸る。「今のは謝ります」
リゼルは即座に言った。伊織は肩の布を外す。
「一時間で固定しろ」
「聞いていますか」
「聞いてる」
「なら」
「町の負傷者を置いていくのか」
リゼルは黙る。昨日の戦い。重傷者。まだ熱の下がらない者。感染の危険がある者。
「こちらにも治療師はいます」
「お前が一番詳しい」
「それでも」
「俺たちは戻る」
「それを信じろと?」
「約束する」
リゼルの眉が動く。「あなたの約束は信用できません」
「アリアとクロも戻す」
「自分を外さないでください」
「俺も戻る」
リゼルは長く伊織を睨んだ。やがて治療道具を机へ置く。
「上着を脱いで」
「今ここで?」
「時間がないのでしょう」
「そうだな」
「座ってください。身体ごと固定します」
ヴェルナーの予測どおりになった。肩だけではない。胸郭。右上腕。背中。布と革帯で、上半身の右側を動かせないように固められる。
「息がしにくい」
「生きている証拠です」
「戦えない」
「戦わせないためです」
「左手は使える」
「縛りましょうか」
「やめろ」
アリアが荷物を整える。食料。水。薬。地図。黒い観測板。剣の手入れ道具。リナは保存食を追加し、ヴォルフは兵士二人を護衛に付けようとした。
「車両へ乗れるのは四人まで」
伊織が言う。「ヴェルナーを入れて四人だ」
「兵は」
「乗れない」
「では、俺が」
「町を守れ」
「またか」
「第二観測所が止まっても、残った小型が来る可能性はある」
「分かった」
ヴォルフは不満を隠さず、伊織へ短剣を渡した。「何だ」
「具現できないときに使え」
「軽いな」
「右腕が使えない男向けだ」
「気が利く」
「返せ」
「褒めた」
「気味が悪い」
伊織は短剣を腰の左側へ差した。リナがクロ用の毛布をまとめる。
「王都へ着いたら、まず休ませて」
「ああ」
「この子を戦わせないで」
「約束はできない」
リナの手が止まる。「ただ、選ばせる」
「それでいいと思ってる?」
「俺が決めるよりは」
リナはクロを見る。クロも彼女を見る。「必ず帰ってきて」
今度はクロへ言った。黒い尾が一度動く。「あなたたちも」
アリアが頷く。「戻ります」
伊織は答えなかった。リナが睨む。「返事は」
「戻る」
「約束」
「ああ」
食堂の鍵は、リナの腰にある。伊織はそれを見た。持っていかない。ここに残す。帰る場所を、王都へ運ぶ必要はない。待つ場所に置いておけばいい。
外へ出る。町の人々が道を空ける。戦車を見た者。水路で戦った者。負傷した者の家族。誰も歓声を上げない。ただ、伊織たちを見る。
「どこへ行くんだ」
老人が尋ねた。「王都」
「いつ戻る」
「扉を閉じたら」
「また開くのか」
「開かせないために行く」
老人は頷いた。それだけだった。
旧井戸の入口。地下へ降りる。アリア。クロ。伊織。深層で、ヴェルナーが待っている。保守車両。東部第二観測所。王都。生命の六割を使う承認。アリアの父。元の世界へ帰すための扉。
伊織は階段を下りながら、左手で腰の短剣を確かめた。鋼鉄の具現は使える。戦車も出せる。だが、これから止める相手は、古代兵器だけではない。十万人を守ろうとする王。娘を犠牲にする父。帰還路を求める機構。そして、帰れるかもしれない自分自身。
正しい答えが一つなら、苦労はない。それでも、許せない線だけは見えている。本人に選ばせず、誰かを部品へ変える。その線だけは、切る。
歯車の奥から、低い駆動音が響いた。五十年間、止まっていた保守車両が目を覚ます。王都へ続く暗い線が、地下で白く光り始めた。




