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第115話 鋼鉄の咆哮

食堂へ戻った伊織を迎えたのは、歓声ではなかった。包帯と湯気と、血の臭いだった。長机の上には負傷者が横たわり、床ではリゼルの補助に入った治療師たちが行き来している。大型個体を倒した知らせはすでに届いていたが、南へ誘導した小型個体との戦闘は終わったばかりだった。


死者はいない。重傷者が三人。軽傷者は十人を超えている。勝った。それでも、誰も無傷ではなかった。


「座って」


リゼルが伊織を見るなり言った。「先に確認する」


「あなたの肩を?」


「観測盤だ」


「その肩も確認対象です」


伊織は店内を見回した。クロは長椅子の上にいる。目を開け、頭も上げていた。毛布から前脚を出し、戻ってきた伊織をじっと見ている。


「歩けるか」


クロは立ち上がろうとした。前脚に力を入れた瞬間、身体が傾く。リナが慌てて支えた。


「歩けない」


伊織は言った。クロは不満そうに鼻を鳴らした。


「判断が早すぎます」


アリアが横から言う。「見れば分かる」


「ご自分の身体にも同じ判断力を使ってください」


「俺は歩いてる」


「倒れかけながらです」


伊織は空いている椅子へ座った。リゼルが満足そうに頷き、右肩の固定布を外し始める。服へ貼りついていた血が引かれ、鈍い痛みが肩から背中へ走った。


「傷が開いています」


「動かしたからな」


「何のための固定ですか」


「壊れにくくするため」


「壊しているでしょう」


伊織は返事をせず、黒い金属板を机へ置いた。白い線が弱く明滅している。一定ではない。短い光。長い間。また二度。


「警告に見えます」


アリアが言った。「観測盤まで戻る時間はない」


「なぜです」


「東部第二観測所が大型だけで終わるとは思えない」


黒い板へ左手を乗せる。何も起きない。


「ここでは使えないのでは」


「権限を分けられたなら、簡単な記録くらいは出せるかもしれない」


「また生命を吸われる可能性は」


「ある」


「手を離してください」


「その前に」


アリアの手が上から重なった。黒い板と伊織の手をまとめて押さえる。


「一人で接続しない」


地下で交わした言葉。伊織は手を引かなかった。「クロ」


黒い犬が耳を立てる。「できるか」


クロは長椅子から前脚を下ろした。リナが止めようとしたが、伊織は首を振る。歩かせるわけではない。クロは身体を引きずるように机へ近づき、伊織の膝へ鼻先を触れた。


三つの反応。伊織。アリア。クロ。黒い板の白線が広がる。


『補助接続を確認』


『守護獣系統、不完全』


『簡易観測を開始』


机の上へ小さな光景が浮かんだ。第一観測所。採石場。水路。破壊された大型個体。その東側。地図の外から、複数の赤い印が近づいている。


「やはり来た」


アリアが息を吐く。赤い印は一列ではない。北東。東。南東。三方向。


『境界鍵回収部隊』


『第一波、消失』


『第二波、進行中』


数が表示される。小型個体、四十六。中型個体、八。運搬個体、一。


「運搬?」


リゼルが傷口を縫いながら尋ねる。「クロを持ち帰るための個体だろう」


伊織は表示を拡大した。運搬個体。全長十八メートル。六脚。装甲内部に拘束区画。攻撃能力もある。胸部に高出力砲。中型個体は護衛。小型は索敵と攪乱。


「到着まで」


アリアが表示を追う。


『予想到達時間、五十二分』


店内の音が止まった。治療師たちも、負傷者も、机の上の光を見ている。


「町を出る時間はありません」


リナが言った。「全員で逃げれば追われる」


伊織は地図を見る。水路では二度目は通じない。敵は戦闘記録を持っている。荷車。両岸からの交互攻撃。成形炸薬。すべて対策される。


「北の石切場を使う」


ヴォルフが店へ入ってきた。剣に小型個体の黒い液体が残っている。


「また外で迎えるのか」


「ああ」


「兵は消耗している」


「だから正面から戦わせない」


「罠か」


「罠と火力」


伊織は観測表示を切り替えた。鋼鉄の具現を使った際の反応記録。小型ドローン。デコイ。防護板。成形炸薬。それぞれの出力と、地下心臓の反応。数値が並ぶ。


「読めるのですか」


「日本語だ」


「そうではなく、意味を」


「大体は」


小型ドローン。境界刺激、〇・四。防護板。一・八。遠隔具現補正を含め、二・六。成形炸薬二基。三・一。心臓が目覚め始める警戒値は十。大型兵器の推定値は表示されていない。まだ具現していないからだ。


「合計すると、もう警戒値を超えていませんか」


「時間で減衰してる」


使用した具現を消せば、刺激は徐々に薄れる。現在値。三・八。


「あと六ほど」


アリアが言う。「その範囲で戦う?」


「普通なら」


「普通ではない案があるのですね」


「ある」


「聞くのが怖いです」


伊織はクロを見る。守護獣系統、不完全。それでも三者接続をしたとき、観測板の光は安定した。


「ヴェルナーは、クロが境界の歪みを吸収すると言った」


「はい」


「具現の変換損失も減らす」


「まさか」


「クロを戦場へ連れていく」


リナが立ち上がる。「駄目よ」


声は大きくなかった。だが、食堂の全員が聞いた。「今やっと目を覚ましたところなの」


「分かってる」


「歩けもしない」


「戦わせない」


「連れていくだけでも同じでしょう」


「置いておけば狙われる」


「だからって」


「町へ来させるわけにはいかない」


敵の目標はクロだ。食堂へ隠しても、遠隔の感知から逃れられる保証はない。町中で戦えば、拘束しようとする敵が家屋を破壊する。


「囮にするのですか」


アリアの声が低くなる。「違う」


「何が違います」


「俺も一緒に出る」


「答えになっていません」


使い慣れた返し。だが、今のアリアの声には棘だけではなく、怯えがあった。クロをまた失うかもしれない。伊織も同じだった。


「敵はクロの位置を追う」


「はい」


「なら、場所を選べる」


「それを囮と言うのです」


「囮にするなら離して置く。俺の横から離さない」


アリアは何も言わない。「クロが嫌なら残る」


伊織は黒い犬を見る。「決めるのはこいつだ」


クロは身体を起こそうとした。前脚。後脚。立ち上がる。震えている。それでも、伊織へ一歩進んだ。次の一歩で崩れかけ、伊織が左腕で受け止める。


「無茶をするところまで似てきました」


アリアが呟いた。「俺より頑固だ」


クロが伊織の腕へ鼻を押しつける。「来るか」


小さく喉が鳴った。「分かった」


「私はまだ納得していません」


アリアはクロの前へしゃがむ。「本当に行くのですか」


クロは紫の瞳を見た。次に、アリアの手へ鼻先を触れる。


「......ずるいです」


アリアは目を伏せた。「それをされると、止められません」


伊織は観測表示へ戻る。「罠を作る。二十分で配置。残りは退避」


「使える兵は」


ヴォルフが尋ねる。「兵は罠の設置だけ。戦闘が始まったら石切場から離せ」


「俺たちを外すのか」


「中型八、小型四十六。近接で受ければ死ぬ」


「お前たち三人なら死なないと?」


「死なない配置を作る」


「また鋼鉄か」


「ああ」


伊織は立ち上がる。リゼルが肩を押さえた。「縫っている途中です」


「あと何針」


「三針」


「急げ」


「患者が言うことではありません」


針が通る。痛み。伊織は机の地図を見続けた。北の石切場。段差。古い運搬路。崩れかけた斜面。中央に深い掘削跡。大型の運搬個体を落とせる。だが、中型と小型を先に剥がす必要がある。


「ヴォルフ」


「何だ」


「町中の油樽は使わない」


「なぜだ」


「火が広がる」


「石切場なら問題ない」


「町へ戻る煙で避難が混乱する」


「では何を使う」


「鉄線」


鋼鉄の具現で適当な線を作ることはできない。だが、SAT時代に使った突入用の拘束ワイヤー装置ならある。VRでは車両阻止用へ改造した装備も使った。


「具現の数を増やすのでは」


「設置後に消さず、最後まで使う」


「刺激値は」


「二を超えない」


必要なのは、敵を倒す線ではない。進路を揃える線。


「石切場の資材庫に古い鎖がある」


ヴォルフが言う。「使えるか」


「併用する。具現は接続部だけだ」


「分かった」


「杭を二十。鎖を全部。滑車も持ってこい」


「兵に伝える」


ヴォルフが出ていく。「リナ」


伊織が呼ぶ。「何」


「肉料理を一つ包んでくれ」


予想外だったのか、リナが瞬きをする。「今?」


「戦いが終わったら地下へ持っていく」


「終わる前提なのね」


「終わらせる」


「何の肉がいいの」


「何でもいいと言ってた」


「それが一番困るって言ったでしょう」


「塩漬け肉を焼いてくれ」


「分かった」


リナは少しだけ笑った。「必ず持っていって」


「ああ」


「冷めても」


「匂いは残る」


リゼルが最後の縫合を終え、布を巻き直す。「右腕は使わない」


「分かってる」


「重いものを持たない」


「左で持つ」


「走らない」


「必要なら走る」


「何一つ分かっていません」


伊織は外套を着た。クロを抱き上げる。左腕だけでは安定しない。アリアが下から支えた。


「私が抱きます」


「剣が使えない」


「風があります」


「魔力を残せ」


「あなたもです」


クロは二人の腕の間へ収まった。「半分ずつだな」


「最初からそうしてください」


三人は食堂を出た。



北の石切場には、古い採掘跡が三段に分かれていた。上段。幅の狭い運搬路。中段。資材置き場。下段。深さ十メートル以上の掘削穴。底には石屑が積もり、一部に雨水が溜まっている。


伊織は上段へクロを寝かせた。毛布。水。アリアが風の膜を薄く巡らせ、冷気と砂埃を防ぐ。


「ここから動かすな」


「誰に言っています」


「二人に」


「あなたも含めて三人です」


「俺は動く」


「でしょうね」


兵士たちは鎖を運搬路へ渡し、石柱へ固定している。高さは小型個体の胴。中型の脚へも引っ掛かる。鎖の間には、伊織が具現した拘束ワイヤー装置を接続した。黒い小型筒。遠隔作動。内部の圧縮機構がワイヤーを瞬時に巻き上げる。敵が鎖を越えた瞬間、脚を絡めて転倒させる。倒すのは兵ではない。斜面。重力。落石。石切場そのものだ。


「南側、準備完了!」


「東側も!」


ヴォルフが上段へ来る。「これで本当に止まるのか」


「止めない」


「何?」


「落とす」


伊織は掘削穴を見る。「中型は下段へ落とす。小型は上段と中段の間で分断。運搬個体だけ中央路へ通す」


「最後の一体をどうする」


伊織は答えなかった。「何を出す気だ」


「まだ決めてない」


「嘘だな」


「候補はある」


「町を吹き飛ばすものではないだろうな」


「ここは町じゃない」


「答えになっていない」


ヴォルフまで同じ言い方をした。伊織は石切場の西側を見る。町から離れている。地下導線も薄い。心臓への刺激を抑えられる可能性が高い。観測板の現在値。二・九。罠具現を含めても四・七。警戒値まで五・三。大型兵器を出せば超えるかもしれない。クロがどれだけ吸収できるか。分からない。


「駄目ならすぐ消す」


伊織は言った。「何を」


「最後の手段を」


ヴォルフが眉を寄せる。「先に教えろ」


「見れば分かる」


「嫌な言い方だな」


「よく言われる」


アリアが振り返った。「その言葉も使いました」


「今は気にするな」


「あとで一覧にします」


「やめろ」


斥候の鳥が上空を旋回した。三度。敵が近い。兵士たちが退避を始める。石切場には伊織、アリア、クロだけが残る。ヴォルフは最後まで動かなかった。


「俺も残る」


「兵を指揮しろ」


「戦場はここだ」


「町の防衛線は後ろにもある」


「お前が失敗したときの線か」


「ああ」


伊織は迷わず答えた。「その線を任せる」


ヴォルフは奥歯を噛んだ。「必ず戻れ」


「クロが戻る」


「お前たち全員だ」


アリアが小さく頷いた。「連れて戻ります」


「頼む」


「本人にも言ってください」


「言っても聞かん」


「私も苦労しています」


ヴォルフは運搬路を下り、兵たちのいる後方へ向かった。


地面が震える。小さな音が重なる。四十六体。八体。そして一体。東の尾根に灰白色の影が現れた。最初は小型。岩を越え、四肢で地面を掴みながら進む。その後ろに中型。二本脚と四本腕。人型に近いが、頭部は横へ細長い。最後。運搬個体。六本の太い脚。腹部に閉じた檻のような区画。前面には縦長の砲口。歩くたび、地面へ深い穴を残す。


「思ったより大きいですね」


「十八メートルは記録上の長さだ」


「高さでは?」


「八くらい」


「十分大きいです」


敵の先頭が石切場へ入る。クロが頭を上げた。喉から低い音。


「まだだ」


伊織は左手に遠隔起動器を持つ。小型個体が運搬路を走る。最初の鎖を越える。二十。三十。中型が続く。運搬個体は後方。


「今」


伊織が起動器を押す。拘束ワイヤーが一斉に巻き上がった。黒い線が鎖を引く。前後。左右。小型個体の脚が絡む。中型の一体が膝から崩れる。後続が衝突。灰白色の身体が積み重なる。


「西側!」


アリアが風を放つ。石柱へ立てかけた支えが外れる。積まれていた岩が崩れた。落石。小型個体を巻き込み、運搬路を塞ぐ。中型三体が下段へ落ちる。硬い殻が石へ激突し、脚が折れた。


「東側も!」


二つ目の落石。別の中型が巻き込まれる。残り四体。小型は半数以上が瓦礫の下。だが、止まってはいない。岩の隙間から這い出す。


運搬個体の前面が開いた。砲口に白い光が集まる。


「伏せろ」


伊織はクロの上へ身体を被せた。アリアが二人の前へ風壁を作る。砲撃。白い線が上段を薙いだ。石が溶ける。風壁が裂ける。熱が伊織の頬を焼く。砲撃は横へ流れ、背後の岩壁へ穴を開けた。


「狙いはクロです」


「ああ」


運搬個体は町へ向かわない。石切場へ正確に入ってくる。拘束区画が開く。内部から、細い金属腕が何本も伸びた。捕獲用。


「気持ち悪いですね」


「同感だ」


小型個体が上段へ登る。アリアが双剣を抜いた。「ここは私が」


「四体までだ」


「数えています」


一体目。低く跳ぶ。アリアは右の剣で前脚を弾き、左の剣を腹へ差し込む。風が内部で炸裂。灰白色の殻が上へ跳ねる。二体目。背後。クロが吠えた。アリアは振り返らず、身体を沈める。小型が頭上を越える。伊織の黒い警棒が左から入った。関節。前脚が折れる。アリアの踵が胴体を蹴り、崖下へ落とす。


三体目と四体目。左右から。


「二人で二体」


「分かりました」


伊織は右側。警棒だけ。撃たない。具現を増やさない。小型が爪を突き出す。伊織は左へ半歩。爪が外套を裂く。警棒を首元の隙間へ入れ、身体を回さず押し上げる。右肩へ痛み。力が抜ける。小型が覆い被さる。クロが毛布から跳んだ。


「クロ!」


黒い身体が小型の側面へぶつかる。力はない。それでも軌道がずれた。爪が伊織の顔の横へ落ちる。伊織は警棒を逆手に持ち替え、頭部の窪みへ叩き込んだ。一撃。二撃。小型が痙攣する。三撃目。白い光が消えた。


クロは着地できず、地面へ転がる。伊織は小型を押し退け、黒い身体を抱き上げた。


「寝てろと言った」


クロが弱く唸る。「怒るな。俺が悪かった」


「何をしているのです!」


アリアが四体目を切り伏せ、駆け寄る。「クロが飛びました」


「見れば分かります!」


「動けるらしい」


「そういう問題ではありません!」


中型個体が上段へ上がってきた。一体。落石を避けた個体。四本の腕に刃。胸部に白い光。


「続きは後です」


アリアが伊織の前へ出る。「下がって」


「一人では」


「一人ではありません」


彼女は左手を後ろへ伸ばした。「魔力を」


伊織はその手を取る。直接送るのではない。クロを介して流れを作る。三人。黒い犬の身体が微かに光った。アリアの双剣へ、黒と紫の風が纏う。


中型個体が四本の刃を振り下ろす。アリアは前へ踏み込んだ。最初の刃を右剣で外へ。二本目を左剣で受ける。三本目。身体を低くして潜る。四本目。伊織が警棒で軌道を変える。


「今!」


アリアの双剣が交差する。胸部。同じ線へ二度。一撃目で装甲を開く。二撃目。黒紫の風が内部へ入る。中型個体の背中から光が噴き出した。四本の腕が止まる。巨体が膝をつく。アリアは胸部へ足を掛け、剣を引き抜いた。


「あと三体」


「下段に二。東斜面に一」


「運搬個体は」


「来る」


六本脚が瓦礫を踏み砕く。落石も、鎖も、止められない。中型を押し退け、中央の運搬路を上がってくる。胸部砲。拘束腕。重装甲。罠で削った傷は脚部に僅かだけ。


「通常攻撃では無理です」


「分かってる」


観測板の現在値。五・二。警戒値まで四・八。伊織はクロを地面へ下ろした。


「ここから動くな」


今度はクロも立ち上がらなかった。荒い呼吸。それでも、瞳は伊織を追う。


「アリア」


「はい」


「最後の手段を使う」


「何を出します」


「戦車」


アリアは黙った。驚かなかった。ただ、伊織の目を見た。


「心臓が目覚めますか」


「可能性はある」


「どのくらい」


「分からない」


「クロが吸収できる量は」


「それも分からない」


運搬個体が近づく。百五十メートル。胸部砲へ光。


「使わなければ」


「ここで捕まる」


「なら、使います」


アリアは伊織の背中へ回った。右肩を避け、左肩甲骨の下へ手を置く。いつもの位置。大きな出力を扱う前。伊織の魔力を支え、暴れる流れを整える場所。


「私が支えます」


「クロもいる」


黒い犬が低く鳴く。「三人で出す」


伊織は左手を前へ伸ばした。記憶。鋼鉄のレクイエム。荒野。最後の攻略戦。仲間を守るため、何度も乗った車両。主砲。複合装甲。黒い車体。現実の自衛隊装備を基礎に、VR内で調整された主力戦車。ただ強いから覚えているのではない。敗北寸前の戦線で、最後まで帰還地点を守り切った車両。


「鋼鉄の具現」


黒い粒子が渦を巻く。小さな装備とは違う。空気が押し退けられる。地面が軋む。履帯。車体。砲塔。一本の長い主砲。黒い戦車が、石切場の上段へ姿を現した。


アリアの髪が吹き上がる。運搬個体が足を止めた。敵の感知器官が一斉に戦車へ向く。


『高出力境界反応を検出』


『刺激値、九・七』


「ぎりぎりだ」


「まだです」


アリアが言う。観測値が上がる。九・八。九・九。クロが立ち上がった。脚が震えている。黒い光が身体から戦車へ伸びる。粒子の乱れが収まる。数値。九・六。九・一。八・七。


「下がってる」


伊織はクロを見る。守護獣。境界の歪みを吸収し、世界へ馴染ませる。戦車の輪郭が安定する。黒い装甲が、この世界の地面へ重さを預ける。以前の具現よりも、存在が薄くない。


「クロが繋いでいます」


「ああ」


「この世界へ」


運搬個体の胸部砲が開く。「乗るぞ」


伊織は車体へ上がる。右腕は使えない。車長席へ身体を滑り込ませ、左手で操作系を起動する。VRの補助操作。神経接続はない。だが、記憶にある操作は再現されている。


アリアが砲塔上へ乗る。「中へ入れ」


「外の方が見えます」


「砲撃が来る」


「風で逸らします」


「戦車の上でやるな」


「では、早く撃ってください」


運搬個体の砲口が白くなる。伊織は照準器を覗く。距離、百二十。近い。主砲には近すぎるほど。狙うのは正面装甲ではない。拘束区画。その下。脚部と胴体を繋ぐ中央軸。


「徹甲弾、装填」


砲尾が動く。黒い砲弾が具現され、薬室へ送られる。追加刺激。八・九。クロの黒い光が強くなる。八・四。


「撃てます!」


アリアの手が砲塔へ触れる。魔力が戦車全体へ薄く広がる。伊織は照準を合わせる。運搬個体が発砲。白い光。


「アリア!」


風が戦車の前へ集中する。砲撃の軌道が僅かに逸れる。車体左側面を掠めた。複合装甲が赤く焼ける。戦車が揺れる。警告音。それでも主砲は外れない。


「撃つ」


引き金。轟音。砲塔が震える。主砲炎。黒い徹甲弾が運搬個体へ突き刺さった。正面ではない。中央軸。装甲を貫く。六本脚の動きが一瞬ずれた。左側三本が止まる。巨体が傾く。


「まだ倒れません!」


「一発で終わるとは思ってない」


運搬個体が拘束腕を伸ばす。戦車へ。クロへ。


「榴弾、装填」


「刺激値が上がります!」


九・二。九・四。心臓の警戒値へ近づく。


「クロ」


伊織が呼ぶ。黒い犬はその場に立ち、戦車を見ている。苦しい。それでも逃げない。


「無理なら切れ」


クロは低く吠えた。「そうか」


九・五。アリアが車内へ手を伸ばし、伊織の首の後ろへ触れる。「私たちもいます」


「ああ」


「撃ってください」


榴弾装填。照準。先ほど開けた穴。中央軸の内部。拘束腕が迫る。


「発射」


二発目。砲声が石切場を打った。榴弾が同じ穴へ入る。内部で爆発。運搬個体の腹部が膨らんだ。装甲板が外へ弾ける。拘束区画が割れ、細い腕がまとめて吹き飛んだ。巨体が下段側へ傾く。残った三本脚が地面を掴む。倒れない。


「しぶとい」


伊織は履帯を動かした。戦車が前進する。


「近づくのですか」


「押す」


「戦車で?」


「そのための重さだ」


運搬個体の胸部砲が再充填を始める。伊織は加速する。黒い履帯が石を噛む。巨体同士が衝突。戦車の前面装甲が、運搬個体の傷ついた中央部へ入る。金属が潰れる音。六脚の一本が崖際から外れる。


「もっと!」


アリアの風が戦車の後ろから押す。クロの光が履帯へ絡む。具現の輪郭が崩れない。伊織は左手で操縦桿を押し込んだ。エンジンの咆哮。運搬個体が後退する。一歩。二歩。崖際。


中型個体が側面から戦車へ飛びついた。四本の刃が砲塔を叩く。


「アリア!」


「任せて!」


彼女が砲塔から跳ぶ。空中。双剣。風。一体目の腕を二本切断。戦車の側面へ着地。二体目が後方から来る。アリアは振り返り、一本の剣を投げた。風を纏った刃が頭部へ突き刺さる。そのまま風が横へ走り、中型の身体を履帯の前へ倒す。戦車が踏み越える。灰白色の殻が砕けた。


「残り一体!」


「先に大きい方だ!」


運搬個体の脚が崖を掴む。落ちない。胸部砲の光が戦車の至近距離で強くなる。


「撃たれます!」


「砲塔を下げろ!」


伊織は主砲を俯角いっぱいまで下げる。砲身の先が運搬個体の胸部砲へ触れるほど近づく。


「装填!」


徹甲弾。刺激値。九・九。警告音。


『深層機構への波及を検出』


『臨界接近』


地下の心臓が、遠くで一度だけ脈打った。地面が震える。


「伊織!」


「分かってる」


撃てば十を超える。撃たなければ、至近距離から砲撃を受ける。戦車が耐えたとしても、クロとアリアが巻き込まれる。クロの黒い光が途切れかける。限界。


「消しますか」


アリアが叫ぶ。「消した瞬間に撃たれる」


「では」


伊織は左手を操縦桿から離した。砲撃ではない。主砲を使わない。黒い戦車の車体を、僅かに解除する。砲塔ではない。後部。装甲の一部。余分な具現を削る。刺激値が下がる。九・七。さらに、車体上の補助装備。九・四。外部燃料槽。九・一。必要な部分だけ残す。主砲。砲塔。前面装甲。履帯。撃つために必要な鋼鉄。


「これで」


徹甲弾を装填。九・八。クロの光。九・六。伊織は照準器を覗く。白い砲口。黒い砲身。互いに至近距離。


「撃て!」


主砲。三発目。徹甲弾が敵の砲口から内部へ入った。発射直前のエネルギー中枢を貫く。一瞬の静寂。運搬個体の内部が白く光った。爆発。胸部装甲が四方へ開く。六本脚から力が抜ける。戦車が前へ押す。崖。運搬個体の巨体が傾く。ゆっくりと落ちる。下段へ。轟音。石屑が空へ舞い上がる。底へ落ちた運搬個体の内部で、二度目の爆発が起きた。白い炎。拘束区画。胸部砲。すべてが崩れる。


残った中型個体が逃げようとした。敵が初めて、町と反対方向へ向きを変える。


「逃がしません」


アリアが地面へ手をついた。風が斜面の砂を巻き上げる。中型の足元が崩れる。片脚が沈む。アリアが走る。長い叙述を必要としないほど、動きは迷いなく繋がった。一歩目で距離を詰める。二歩目で低くなる。右剣で下腕を切り上げ、左剣で胸部の継ぎ目を開く。返す刃では届かないと判断した瞬間、彼女は剣を引かず、そのまま身体ごと踏み込み、肩を装甲へ当てた。


「クロ!」


黒い犬が短く吠える。伊織からクロへ。クロからアリアへ。黒い粒子が風へ混じる。アリアの剣先が、胸部中枢まで届いた。


「終わりです」


風が爆ぜる。中型個体の白い光が消えた。石切場に残った音は、燃える機構と、戦車の低い駆動音だけになった。


伊織は観測板を見る。刺激値。九・三。八・八。七・四。戦闘終了とともに下がっていく。


『深層機構、休眠維持』


伊織は息を吐いた。黒い戦車を消す。砲塔。主砲。車体。履帯。巨大な鋼鉄が黒い粒子へ戻り、風の中へ溶けていく。最後に残ったのは、履帯が刻んだ深い跡だった。


クロが倒れる。伊織は戦車の消えた場所から飛び降りた。右肩へ激痛。構わず走る。黒い身体を左腕で抱き上げる。


「クロ」


呼吸はある。地下で倒れたときよりも深い。瞳も開いている。クロは伊織の顎へ鼻先を触れた。


「無茶をしたな」


弱い声。伊織は苦笑した。「お互い様か」


アリアが歩いてくる。足取りが重い。双剣を鞘へ戻し、クロの背へ手を置く。「刺激値は」


「下がってる。心臓は眠ったまま」


「成功ですね」


「ああ」


「戦車」


「何だ」


「ずるいです」


「何が」


「あんなものを隠していたのですか」


「隠してない」


「では、なぜもっと早く使わなかったのです」


「出すと大抵の話が終わる」


アリアは一瞬、黙った。「それは確かに困ります」


「それに重い」


「見れば分かります」


「魔力の話だ」


「分かっています」


石切場の外から歓声が上がった。遠巻きに待機していた兵士たちが、運搬個体の爆発を見たのだろう。ヴォルフが先頭で駆けてくる。崖下。焼けた残骸。履帯の跡。彼は足を止めた。


「何を出した」


「戦車」


「センシャ」


「でかい鉄の車だ」


「車が砲を撃ったのか」


「ああ」


「最初から出せ」


「出すと地下の扉が開く可能性がある」


ヴォルフは口を閉じた。「二度と使うな」


「必要なら使う」


「せめて先に言え」


「次は言う」


「本当だな」


「多分」


「信用できん」


兵士たちが上段へ集まる。負傷者はいない。罠の設置後、全員を下げた。戦ったのは三人。いや。


「クロを入れて三人か」


ヴォルフが言う。「最初から三人だ」


伊織は答えた。黒い犬の尾が、腕の中で一度だけ動いた。



町へ戻った頃には、空が白み始めていた。一晩のうちに、地上と地下で何度戦ったのか分からない。食堂の扉は開いている。リナが入口で待っていた。伊織たちを見る。クロを見る。アリアの服に付いた黒い汚れ。伊織の開きかけた包帯。


「おかえり」


「戻った」


リナはクロを受け取ろうとした。伊織は一瞬迷い、それから黒い身体を預ける。


「寝床を作ってある」


「助かる」


「肉も焼いた」


「ヴェルナーの」


「冷めたけど」


「匂いは残る」


リナは頷いた。店内では、負傷者の治療が終わりつつある。鍋には新しい水が足され、朝のスープが作られていた。ヴォルフが兵へ休息を命じる。リゼルは伊織の包帯を見て、言葉を失った。


「どうした」


「三針縫った意味を考えています」


「傷は閉じてる」


「開いています」


「また縫えばいい」


「次は口も縫います」


「それは困る」


「少しは困ってください」


伊織は椅子へ座った。黒い観測板を机へ置く。白線。今度は警告ではない。一定の明滅。


『境界鍵回収部隊、消失』


『東部第二観測所、再計算中』


「再計算」


アリアが横へ座る。「まだ諦めてない」


「次も来ますか」


「可能性はある」


『第一観測所圏、回収不能と判定』


『優先順位を変更』


赤い線が地図上で動く。オルドレインから離れる。西へ。王都。


「目標を変えた」


アリアの顔が硬くなる。


『境界鍵候補を再照合』


『王統適合者を確認』


「私?」


アリアが立ち上がる。表示。銀の樹の紋章。王統系統。適合率。八十二。


「守護獣が取れないなら、王家の血で扉を固定するつもりか」


「父上が使われる?」


「違う」


表示を拡大する。適合者。女性。若年。高魔力。シルヴェイン直系。アリアだった。


「私を回収する命令?」


『王都管理区画へ、適合者誘導を要請』


『管理権限保持者、承認済み』


承認者。アルド=シルヴェイン。食堂の音が消えた。アリアは表示を見たまま動かない。


「父上が」


「理由は聞く」


「理由があれば許せますか」


「許すかどうかは、そのあとだ」


アリアの手が震える。伊織は黒い観測板を抜いた。表示が消える。


「王都へ行く」


「今から?」


リナが尋ねる。「休んでからだ」


全員が伊織を見る。「何だ」


「休むのですね」


アリアが言った。「王都まで倒れずに行く必要がある」


「正しい判断です」


「珍しいものを見る顔をするな」


「珍しいので」


伊織は椅子へ背を預けた。身体が沈む。一度座れば、立ち上がるのが難しいほど重い。


「出発は明日」


「早すぎます」


リゼルが言う。「二日後」


「最低三日」


「二日」


「三日」


「二日半」


「その言い方は何ですか」


「妥協だ」


リゼルは額へ手を当てた。「二日後の朝に状態を見ます。出発できるかは私が決めます」


「分かった」


「本当に?」


「王都へ行けるなら」


「条件を付けないでください」


アリアが小さく笑った。疲れ切った顔。それでも、昨夜より僅かに柔らかい。


「私も休みます」


「ああ」


「起きたら、父上への質問を整理します」


「一つでいい」


「何です」


「なぜ、お前に言わなかったか」


アリアの笑みが消える。「それだけ?」


「まずは」


「東さんは、何を聞きますか」


「俺を帰すために、何人を犠牲にするつもりか」


「帰りたいかどうかではなく?」


「それは俺が決める」


アリアは長く伊織を見た。「はい」


リナが布に包んだ料理を机へ置く。焼いた塩漬け肉。香草。僅かな酒。


「ヴェルナーへ」


「持っていく」


「いつ」


「昼までに」


「休むのでは?」


「地下へ往復するだけだ」


リゼルが立ち上がった。「私が持っていきます」


「道が分からない」


「アリアさんが」


「私も休みます」


「ではヴォルフさん」


「古代文字が読めない」


「伊織さん」


「俺が行く」


リゼルは睨み続けた。伊織は肉の包みを見た。「約束した」


「命を削って守るほどの約束ですか」


「五十年ぶりの食事だ」


リゼルは息を吐いた。「二時間寝てからです」


「一時間」


「三時間」


「増えたな」


「二時間」


「分かった」


「起こすまで動かない」


「ああ」


「観測板にも触らない」


「ああ」


「武器を具現しない」


「ああ」


「本当に?」


「寝てる間は」


「当たり前です!」


食堂に、久しぶりに笑いが起きた。大きくはない。疲れた声。途切れ途切れ。それでも、昨夜から続いていた緊張が少しだけ緩む。


伊織は長椅子へ移った。クロは隣の毛布で眠っている。アリアが向かいの椅子へ座り、壁へ背を預けた。


「ベッドを使え」


「あなたが長椅子を使っています」


「床でも寝られる」


「では床へ」


「冗談だ」


「分かりにくいです」


リナが炉へ薪を足す。火が鳴る。包丁。食器。負傷者の寝息。店の外では兵士が交代し、壊れた門や道を確認している。町は残った。食堂も。クロも。アリアも。


伊織は目を閉じた。黒い戦車の反動が、まだ身体の奥に残っている。主砲の轟音。鋼鉄の重さ。あれほどの力を出しても、守護獣と仲間がいれば、世界の境界を壊さずに済む可能性がある。一人では扱えない力。だから悪くない。


「伊織」


眠りへ落ちる直前、アリアが呼んだ。「何だ」


「王都へ行っても、勝手に帰らないでください」


伊織は目を開けなかった。「帰る道が見つかっても?」


「はい」


「理由は」


少しの沈黙。「私が困ります」


それだけだった。伊織は口元を僅かに動かした。「分かった」


「軽い返事ですね」


「勝手には行かない」


「約束です」


「ああ」


炉の火が鳴る。クロの呼吸が隣にある。アリアの気配が向かいにある。王都では、父親が娘を機構へ差し出そうとしている。扉はまだ閉じている。だが、閉じたままでは終わらない。


伊織は眠りへ落ちた。次に目を開けたとき、向かう先は決まっている。帰るためではない。誰かに帰る場所を決めさせないために。


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