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第114話 町を守る線

クロが目を開けたのは、鍋の匂いが店内へ満ち始めた頃だった。黒い瞳が、ゆっくり天井を追う。次に、長椅子の脇へ座る伊織を見た。


「起きたか」


クロは鼻を鳴らそうとして、息だけを漏らした。頭を持ち上げようとする。


「寝てろ」


伊織が首の後ろへ手を添えると、クロは不満そうに耳を伏せた。


「起き上がれるなら大丈夫です」


リゼルが胸へ手を当て、魔力の流れを確かめる。「ただし、空になった器へ少し戻っただけ。走らせたら、また倒れます」


「聞いたな」


クロは顔を背けた。「聞いていませんね」


アリアが言う。「いつものことだ」


「あなたもです」


伊織は反論せず、長椅子から立ち上がった。右肩は厚い布で固定し直されている。熱は残っているが、指先の感覚は戻っていた。動かせないことに変わりはない。


「観測盤へ行く」


「治療が終わっていません」


「固定はした」


「休養も治療です」


「座って見るだけだ」


リゼルが睨む。伊織は視線を外し、机に置いた黒い金属板を拾った。


「町が待ってくれるなら休む」


外から鐘が鳴った。一度。短い間を置いて、もう一度。店内の全員が動きを止めた。三度目。採石場からの警報。町へ向かう敵。


ヴォルフが扉を開ける。外から兵士が駆け込んだ。「大型個体が移動を開始! 西街道へ出ます!」


「数は」


「一体です! ただし、小型が周囲に十以上!」


「速度は」


「人の歩みより速い!」


伊織は地図を広げた。採石場。西街道。町まで、真っ直ぐ来れば一時間も掛からない。


「斥候は」


「追跡中です」


「近づけるな。地形だけ見ろ」


「了解!」


兵士が走り去る。ヴォルフは剣帯を締めた。「兵を西門へ集める」


「待て」


「時間がない」


「門前で受けるな」


「ではどこで」


伊織は地図の西側を指で辿った。街道。乾いた水路。放棄された石切場。畑。町の外壁。


「水路へ誘導する」


「あそこは浅いぞ」


「大型が自由に旋回できない」


「小型は壁を走る」


「だから上を取らせない」


伊織は顔を上げた。「弓兵は水路の東岸。魔術師は西岸。兵士を同じ側へ固めるな」


「なぜだ」


「敵が防御を選んだ側と反対から撃つ」


大型個体は三つの選択を同時に行えない。防御。修復。攻撃。補給を失った今、切り替えは遅くなっている。


「攻撃させるのか」


「させる」


「兵が死ぬ」


「当てさせない」


「簡単に言うな」


「簡単じゃない。だから場所を選ぶ」


アリアが地図を覗き込む。「水路の中央に、荷車を置きますか」


「ああ」


「囮に?」


「中身は石。後ろから押せるよう縄を付ける」


「敵が攻撃を選んだ瞬間、引く」


「その間に反対側から撃つ」


ヴォルフが腕を組む。「一撃で抜けるか」


「抜けない」


「なら」


「何度も選ばせる」


伊織は黒い金属板を見る。「その前に観測盤だ。大型が何に呼ばれて動いたかを確認する」


「時間は」


「十分で戻る」


「戻らなければ」


「水路で止めろ。町へは入れるな」


ヴォルフはしばらく黙っていた。「分かった」


命令が飛ぶ。兵士。弓兵。魔術師。荷車。縄。杭。人が一斉に動き始める。


伊織は長椅子へ視線を向けた。クロが起き上がろうとしている。


「来るな」


黒い前脚が床へ着く。身体が揺れる。


「クロ」


伊織が低く呼ぶ。クロは止まった。


「ここを守れ」


命令ではない。頼んだ。黒い瞳が伊織を見る。次に、店内。リナ。リゼル。鍋。長椅子。クロはゆっくり身体を伏せた。


「任せた」


耳が一度動いた。アリアが双剣を背負う。「行きましょう」


二人は店を出た。


観測盤は、町中央の旧井戸から西へ二本目の路地、その地下にあった。ヴェルナーの金属板を井戸脇の石へ近づけると、表面に細い文字が浮かんだ。


『上層管理鍵を確認』


『保守入口を開放』


石畳が横へ滑る。狭い階段。先ほど降りた深層への道とは違う。地下二階ほどで、円形の部屋へ着いた。壁一面に黒い板が並んでいる。中央には半球状の卓。天井から白い導線が垂れ、卓の周囲へ接続していた。


「ここが観測盤」


伊織は黒い金属板を中央の窪みへ差し込んだ。音はしない。壁の板が一斉に光る。最初に浮かんだのは、日本語だった。


『管理者権限を継承』


『閲覧権限のみ』


『兵装操作権限、封鎖』


「本当に封じていますね」


「正しい判断だ」


「残念そうです」


「使えるものが減るのは困る」


「やはり残念なのですね」


伊織は表示へ触れる。空中に地図が浮かんだ。町。地下導線。第一観測所。採石場。白い線が網のように走っている。塔へ向かう線は暗い。中央施設から深層へ戻る線も、ほとんど消えていた。それでも一本だけ、赤く点滅している。


「採石場の個体」


アリアが言う。大型個体を示す印。その中心から、細い赤線が伸びている。町ではない。もっと東。


「何に繋がってる」


伊織が表示を拡大する。赤線は地表を通っていない。地下。深層のさらに下を通り、遠方へ伸びている。地図の端。そこに別の施設がある。


『東部第二観測所』


「別の観測所が命令している」


「距離は」


「百二十キロ以上」


「それほど遠くから?」


「導線が繋がってる」


第一観測所への補給を切った。心臓を眠らせた。その結果、別系統が兵器の制御を引き取った。


『遠隔命令を受信』


『対象地点へ移動』


『境界鍵回収』


伊織の目が止まる。「境界鍵」


「何を指していますか」


表示を開く。町の中心に、白い印。正確には、食堂。その奥。


「クロだ」


アリアの声が硬くなる。守護獣。境界を固定する存在。向こう側の侵入を閉じた鍵。大型個体は町を襲いに来たのではない。クロを回収しに来ている。


「戻ります」


「ああ」


伊織は金属板を抜こうとした。表示が切り替わる。


『広域異常を検出』


「待って」


アリアが言う。世界地図。ヴェルナーが示した七施設。それぞれの状態が浮かぶ。第一観測所。停止。東部第二観測所。稼働。北方山岳施設。休眠。砂海施設。不明。沿岸施設。損壊。王都地下。稼働。最後の一つ。海の向こう。赤く明滅している。


『境界接続準備』


「一つだけではありません」


アリアが表示を睨む。「王都も動いてる」


「何をしているのです」


「外からは分からない」


王都地下の表示を開く。


『魔力収束中』


『管理権限、王統系統へ移行』


『接続座標を照合』


王統系統。アリアの顔が変わる。「父です」


「断定はできない」


「王統の権限を持つ者は限られます」


『適合者登録』


名前は表示されない。代わりに、紋章。銀の樹。シルヴェイン王家の印。アリアは息を吸った。


「通信を」


「ここから送れるか」


表示を探る。


『広域通信路、使用可能』


『王都管理区画への接続を申請』


伊織はアリアを見る。「話すか」


「はい」


迷いはなかった。伊織が申請へ触れる。白い輪が空中に浮かぶ。雑音。途切れた光。やがて、人の声が入った。


『所属を示せ』


若い男。兵士か、技術官。アリアが前へ出る。「アリア=シルヴェインです。アルド王へ繋いでください」


沈黙。『......殿下?』


「急いで」


『お待ちください』


光が揺れる。別の声。低い。冷静。


『アリアか』


アルド=シルヴェイン。アリアの父。


「父上。王都地下で何をしています」


『挨拶もなしか』


「時間がありません」


『こちらにもない』


「接続座標の照合を止めてください」


向こうで、短い沈黙。


『なぜそれを知っている』


「オルドレインの観測盤を起動しました」


『誰が許可した』


「ヴェルナーです」


通信の向こうで、何かが倒れる音がした。


『ヴェルナーが生きているのか』


「知っていたのですね」


『質問に答えろ』


「生きています。地下機構に接続され、心臓を管理しています」


『心臓を見たのか』


「はい」


『扉は』


「一度開きました。閉じましたが、一時的です」


アルドの呼吸が僅かに変わった。


『守護獣を使ったな』


伊織が通信へ近づく。「なぜ分かる」


『東伊織か』


「答えろ」


『境界を閉じられるのは守護獣だけだ』


「知っていて、何を繋ごうとしてる」


『帰還路だ』


アリアが目を見開く。「帰還?」


『異世界人を元の世界へ戻す経路を探している』


「父上は、東さんを帰すつもりなのですか」


『必要ならな』


「本人の意思を確認せずに?」


『本人の意思だけで決められる問題ではない』


伊織は表情を変えなかった。「続けろ」


『異世界人が存在する限り、境界機構は完全には眠らない』


「クロが俺を定着させている」


『だからだ。守護獣は歪みを抑えるが、消してはいない』


「なら俺を戻せば終わる?」


『可能性はある』


「可能性」


『確証はない』


「確証もないのに王都で扉を開くのか」


『こちらには時間がない』


通信の向こうで警報が鳴る。低い金属音。


『王都地下で、古代機構が再起動した。停止すれば城下の魔導炉が止まる。続ければ接続が進む』


「なぜそんなものを使っている」


『王都は百年以上、その力で維持されてきた』


ヴェルナーの言葉。古代技術が王国の魔導技術の根にある。王都そのものが、すでに機構から離れられない。


「接続先はどこだ」


『照合中だ』


「俺の世界か」


『お前の記憶から座標を抽出している』


アリアが通信卓へ手をついた。「勝手に東さんの記憶を使っているのですか」


『王都の記録に残っている。入城時の検査、研究所での解析、戦闘記録』


「父上!」


『怒るのは後にしろ。こちらが止まれば十万人が凍える』


「だから扉を開く?」


『他に方法がない』


「あります」


『何だ』


「探します」


アルドが息を吐いた。『子どもの答えだ』


「人を部品にするよりましです」


『王は、全員を救える選択だけを待てない』


「だから一人を勝手に捨てるのですか」


『必要なら』


アリアの手が震えた。伊織はその手首へ軽く触れた。止めるためではない。ここにいると伝えるだけ。


「アルド」


『王を呼び捨てるか』


「今は父親として聞く」


通信の向こうが静かになる。「アリアを研究対象に戻す気か」


『何の話だ』


「王都の機構を動かすために必要なら、使うか」


『......必要ならな』


アリアの指が固まる。伊織は続ける。「分かった」


『何がだ』


「お前とは現場で話す」


『王都へ来るつもりか』


「その前に、こっちへ来てる兵器を止める」


『兵器?』


「東部第二観測所から大型個体が遠隔操作されてる。目標は守護獣だ」


『クロを狙っているのか』


「名前を知ってるのか」


『アリアの報告にあった』


「なら一つだけ聞く。第二観測所を止められるか」


『こちらからは無理だ』


「王統権限でも?」


『東部は王国の管理外だ』


「使えないな」


『お前に言われる筋合いはない』


「似たような老人が地下にもいた」


『ヴェルナーと一緒にするな』


「本人に言え」


伊織は通信を切った。アリアが顔を上げる。「まだ話が」


「敵が来てる」


「父上は」


「逃げない」


「そうではなく」


「今ここで答えを出す必要はない」


アリアは唇を結んだ。「東さんは、帰りたいですか」


伊織はすぐには答えなかった。通信盤には、王都地下の赤い表示。接続座標を探している。元の世界。日本。帰還。かつてなら、迷わなかったかもしれない。


「帰れる場所と、帰りたい場所は違う」


アリアは黙って聞いている。「向こうに戻る道があっても、それだけで行くとは決めない」


「では」


「今はクロを守る」


伊織は黒い金属板を抜いた。壁の光が消える。「そのあと、お前の父親を止める」


アリアの紫の瞳が揺れた。「私も行きます」


「当然だ」


二人は階段を上がった。地上へ出ると、西の空に土煙が見えた。遠い。だが、一定の間隔で地面が震える。大型個体の足音。町の兵たちはすでに移動を始めている。荷車が西街道へ運ばれ、弓兵が水路へ向かう。魔術師たちは魔石を抱え、二列で走っていた。


ヴォルフが馬上から叫ぶ。「遅いぞ!」


「十分以内だ」


「十二分だ!」


「誤差だ」


「戦場で言うな!」


伊織は歩きながら指示を出す。「食堂へ二十人残せ」


「クロの護衛か」


「ああ。入口を固めるな」


「なぜだ」


「狙われる。固めれば場所を教える」


「ではどうする」


「住民を分散させる。食堂には普段通り火を入れろ」


「普段通り?」


「敵が境界反応を追うなら、人の魔力や火の反応へ紛れさせる」


正確に有効かは分からない。だが、クロだけを孤立させるよりはいい。


「リナには」


「もう伝えた」


アリアが答える。いつの間に。伊織は見たが、彼女は前を向いたままだった。「通信術式を飛ばしました」


「便利だな」


「今、その言葉を使いましたね」


「何が」


「何でもありません」


西門を出る。街道の先に、乾いた水路がある。幅は十五メートルほど。深さは二メートル。両岸は崩れかけた石壁。中央には三台の荷車が並べられている。中身は石。後方へ太い縄が伸び、十人ずつ兵士が握っていた。


東岸。弓兵。長弓を伏せ、矢を地面へ並べている。西岸。魔術師。炎、風、土。系統ごとに分かれた。


「撃つ順番を変える」


伊織は水路へ降りる。「最初は魔術師だけ」


「弓兵は?」


ヴォルフが聞く。「待機」


「敵が防御したら」


「弓」


「弓へ防御を切り替えたら」


「魔術」


「攻撃したら」


「全員伏せる」


「それで当たらないのか」


「荷車を狙わせる」


伊織は一台目の荷車へ近づく。側面へ黒い粒子を集めた。小型の反射板。レーザーではない。敵の索敵が魔力と形状のどちらを重視するか分からない。だが、伊織の具現物には古代機構が強く反応する。


「お前が囮になるのか」


「装備だけだ」


伊織は反射板を荷車へ固定する。次に、小型ドローン。偵察用。攻撃機能なし。


「具現を使うと心臓が反応するのでは」


アリアが低く尋ねる。「小さいものだけにする」


「境界刺激の記録はまだ確認していません」


「分かってる」


「なら」


「ここで使わず、町を壊される方が困る」


伊織はドローンを飛ばした。片手操作。右肩を動かさないよう、端末を左手だけで保持する。映像。街道。土煙。大型個体が見えた。以前より動きが鈍い。装甲の白い光も弱い。だが、胸部の亀裂は閉じている。


「修復してる」


「補給は切ったはずです」


「別系統から少し受けてる」


遠隔命令だけではない。東部第二観測所から、最低限の魔力も送られている。完全な状態ではない。それでも、倒した小型個体よりは強い。周囲に十二体。蜘蛛型。大型の脚元を走り、壁や岩へ移っている。


「小型を先に引き離す」


「どうやって」


伊織は二台目の荷車を見る。「アリア、風で土煙を上げられるか」


「できます」


「小型は視覚より振動を使う可能性が高い。煙の中で荷車を動かす」


「別方向へ?」


「南へ二台。大型だけ中央へ残す」


「小型が荷車を追う保証は」


「具現物を付ける」


伊織は二つの小型ビーコンを具現した。VRで敵の索敵を誘導するデコイ装置。音と熱を発する。魔法ではない。現代兵器の訓練用装備。


「二つまでです」


アリアが言う。「何が」


「具現です。これ以上は、私が止めます」


「敵が来る」


「だから決めています」


「勝手だな」


「あなたよりは相談しています」


伊織はビーコンを荷車へ取り付けた。「分かった」


アリアが少し驚いた顔をした。「何だ」


「いえ。もっと言い返すかと」


「時間がない」


「それでも、分かったのですね」


「ああ」


大型個体まで、あと二キロ。地面の振動が強くなる。兵士たちの顔に緊張が浮かぶ。伊織は水路の両岸を見た。配置。逃げ道。射線。荷車。縄。最後に、自分の位置。水路中央。


「お前はどこに立つ」


ヴォルフが聞く。「ここ」


「囮の横だぞ」


「大型の選択を近くで見る」


「また前へ出るのか」


「右肩が使えない。撃つ役じゃない」


「だから安全とは限らん」


「指示は近い方が早い」


ヴォルフが何か言いかける。アリアが先に水路へ降りた。「私もここです」


「お前は西岸だ」


「風はここからでも届きます」


「両岸へ指示を出せ」


「あなた一人で大型の前へ立たせると思いますか」


伊織は彼女を見る。紫の瞳。譲らない。


「では、俺より半歩後ろ」


「横です」


「射線に入る」


「あなたもです」


「俺が囮だ」


「二人なら、選択肢が増えます」


「敵の?」


「私たちのです」


伊織は息を吐いた。「横でいい」


アリアが僅かに顎を上げた。「最初からそう言えばよいのです」


クロがいない。いつもなら足元にいる黒い影がない。その空白を意識した。だからこそ、戻らなければならない。


「来るぞ!」


斥候が丘を越えて走ってくる。その後ろ。大型個体が姿を現した。灰白色の巨体。四本脚。前面装甲。胸部中央に、以前撃ち抜いた痕跡。その周囲を小型個体が走る。十二。数は変わらない。


「全員、配置!」


ヴォルフの声が響く。兵士が縄を握る。弓兵が矢を番える。魔術師が杖を上げる。アリアが両手を広げた。「風を起こします」


「まだだ」


大型まで八百メートル。六百。小型が先へ出る。


「今」


風が水路の土を巻き上げた。茶色い壁。視界が消える。


「南の荷車、動かせ!」


兵士たちが縄を引く。二台の荷車が水路を南へ走る。車輪が石を跳ねる。ビーコンが発熱し、断続的な音を出す。小型個体の進路が変わった。八体が南へ。四体は大型の周囲に残る。


「全部は引けない」


「十分です」


大型が土煙を抜ける。正面。三百メートル。胸部の白い光が強くなる。


「魔術師、撃て!」


炎。風。石弾。西岸から一斉に飛ぶ。大型個体の装甲が動いた。左側へ厚く集まる。防御を選択。


「弓兵!」


反対側。東岸から矢の雨。装甲の薄い右側へ突き刺さる。深くは入らない。だが、関節部へ数本が食い込んだ。大型が向きを変える。装甲が右へ流れる。


「魔術、もう一度!」


炎弾が左脚へ当たる。表面が弾ける。装甲は戻らない。切り替えが遅い。


「効いています!」


アリアが言う。「まだ浅い」


大型の胸部が開く。白い光。攻撃選択。


「全員伏せろ!」


弓兵と魔術師が岸の下へ身を隠す。伊織とアリアは荷車の横へ。光が収束する。


「縄!」


兵士たちが中央の荷車を引く。荷車が横へ滑る。大型の砲撃。白い線が水路を貫いた。荷車が消える。石も木も、まとめて吹き飛んだ。衝撃が伊織たちへ届く。アリアが風の壁を作る。土と破片が左右へ逸れた。


「攻撃を選んだ!」


「全員、撃て!」


防御がない。東西両岸から矢と魔術が集中する。胸部。脚。関節。炎が装甲の隙間へ入り、石弾が同じ場所を叩く。大型が一歩よろめいた。修復へ切り替える。白い線が傷口へ集まる。


「止めるな!」


伊織はドローンを低く飛ばした。大型の頭部前。具現物の反応。敵の感知器官が向く。修復が止まる。攻撃へ移る。


「今度は俺を狙う」


「分かっています」


ドローンが水路を北へ走る。大型の胸部が追う。


「アリア、右脚!」


風が地面の砂を削る。矢の刺さった右前脚。関節の下へ砂が入り、足場が崩れる。大型の身体が傾く。砲撃。ドローンが白い光へ飲まれる。消失。爆発ではない。跡も残らない。


「一つ失った」


「命より安いです」


「その通りだ」


大型が水路へ降りた。巨体が左右の岸へ挟まれる。旋回できない。狙い通り。だが、四体の小型が岸へ飛びついた。


「小型!」


弓兵の一人が叫ぶ。蜘蛛型が石壁を走る。速い。


「ヴォルフ!」


「任せろ!」


兵士たちが槍を構える。一体が岸を越える。ヴォルフの剣が前脚を払う。小型が回転。別の兵士が盾で受け、地面へ叩き落とす。魔術師の石弾。胴体が割れる。残り三体。


一体が水路中央へ降りる。伊織へ向かう。右腕は使えない。具現は増やさないと決めた。腰の黒い警棒。左手で抜く。小型が跳ぶ。伊織は半歩下がる。前脚を警棒で外へ流す。身体を捻らない。右肩を守る。小型の腹が見える。アリアの剣が横から入った。風を纏った刃。腹部装甲の隙間。切断。小型が地面へ落ちる。


「横で正解だったな」


「あとで何度でも言ってください」


大型が前脚を上げる。踏み潰す動き。


「離れろ!」


二人が左右へ跳ぶ。巨大な脚が水路底へ落ちる。地面が割れる。伊織は左肩から転がる。右腕を胸へ固定したまま、膝を立てる。


大型の装甲が前面へ集まる。攻撃を選びながら、防御へ移ろうとしている。以前より遅い。だが、完全に一つずつではない。切り替えの途中で、僅かに重なる。


「学習してる」


「補給がなくても?」


「命令系統が変わった」


第二観測所。遠隔制御。以前の戦いの記録を受け継いでいる。大型は単純に弱くなったわけではない。別の頭脳を得た。


胸部が開く。今度の狙いは岸。弓兵。


「東岸、退避!」


間に合わない。白い光が収束する。伊織は左手を上げた。黒い粒子。使うな。心臓が反応する。だが、岸には十人以上いる。迷う時間はなかった。


「鋼鉄の具現」


黒い盾。大型防弾盾ではない。SATで使用していた折り畳み式の移動防護板。伊織の前ではなく、東岸の斜面へ具現する。遠隔。距離分だけ魔力を余計に食う。視界が暗くなる。


防護板が弓兵の前へ展開。砲撃。白い光が板へ当たる。衝撃。鋼鉄が軋む。表面が赤く焼ける。耐えきれない。


「アリア!」


「押します!」


風が防護板の後ろから支える。光が左右へ逸れる。板の中央が溶け落ちた。それでも、弓兵たちは伏せたまま生きている。


砲撃が終わる。防護板が崩れる。伊織の膝が地面へついた。


「東さん!」


「撃たせろ!」


「ですが」


「攻撃の直後だ!」


アリアは振り返る。「全員、胸部へ!」


矢。炎。石。風。一斉射。大型の胸部装甲が開いたまま。奥の白い中枢へ攻撃が集中する。爆発。巨体が後ろへ下がる。一歩。二歩。右前脚が崩れた。膝に相当する関節が水路底へ落ちる。


「まだ動く!」


ヴォルフが叫ぶ。大型の内部で白い光が渦巻く。修復。


「止める方法は」


アリアが伊織の横へ戻る。「中枢を抜く」


「何で」


対物ライフル。右肩では撃てない。戦車。出力が大きすぎる。攻撃ドローン。距離と火力が足りない。重火器を具現すれば、心臓へ強い刺激を与える可能性がある。だが、このままでは修復される。町へ進まれれば、クロが狙われる。


「伊織」


アリアが低く呼んだ。「選んでください」


何を使うか。何を守るか。どの危険を取るか。伊織は大型を見る。胸部の亀裂。修復の白い線。装甲の重なり。正面から一発で抜く必要はない。中枢まで通る道を作ればいい。


「大きいものは出さない」


「では」


「小さいものを重ねる」


伊織は立ち上がった。左手を開く。黒い粒子。一つ目。成形炸薬。対装甲用。二つ目。同じもの。アリアが眉を寄せる。


「二つまでと言いました」


「さっき使った盾は消えた」


「数の話ではありません」


「これで終わらせる」


「保証は」


「ない」


「また正直ですね」


「止めるか」


アリアは伊織の背中へ手を置いた。魔力が流れ込む。荒れた流れを整える。「止めません」


「いいのか」


「一人で決めさせないと言いました」


伊織は二つの成形炸薬を見た。「一つ目で装甲を抜く」


「二つ目で中枢を?」


「同じ穴へ入れる」


「誰が設置します」


「俺」


「却下です」


「ではお前か」


「それも却下です」


「時間がない」


大型が前脚を立てようとしている。白い線が関節を繋ぐ。伊織は水路の上を見る。残った荷車。南へ走った二台のうち、一台が戻されている。縄。斜面。重力。


「荷車を使う」


伊織はヴォルフへ叫ぶ。「北側の荷車を水路へ落とせ!」


「中身は石だぞ!」


「炸薬を載せる!」


「誰が狙う!」


「俺がやる!」


兵士たちが動く。荷車を岸へ寄せる。伊織は二つの炸薬を荷台の前面へ固定した。角度を変える。一つ目は装甲。二つ目は、その後ろ。時間差。


「信管は」


アリアが尋ねる。「衝撃式と遅延式」


「ずれたら」


「終わり」


「別の案は」


「ない」


大型が立ち上がる。胸部の修復は半分。伊織は荷車の縄を左手へ巻いた。


「何をするつもりです」


「落としたあと、向きを変える」


「片腕で?」


「足も使う」


「私が風で押します」


「強すぎると跳ねる」


「合わせます」


二人で岸へ上がる。荷車の後ろ。大型まで百メートル。水路内。正面。


「全員、射撃を止めろ!」


攻撃が止まる。大型の装甲が動く。防御先を失い、迷う。白い板が胸部中央へ戻る。


「今!」


兵士が荷車を押す。車輪が岸を越える。落下。水路底へ激突。荷車が前へ跳ねる。アリアの風。後ろから押す。車輪が回る。石を撒き散らしながら、大型へ向かう。進路が左へ逸れる。


伊織は縄を引いた。左肩。腰。脚。全身で支える。右肩に激痛。視界が白くなる。


「伊織!」


「押せ!」


アリアの風が右側面へ当たる。荷車の向きが戻る。大型が前脚を上げた。踏み潰す。荷車が脚の下へ入る。


「まだ!」


伊織は縄を離さない。炸薬の向き。胸部。あと僅か。大型の足が落ちる。


「離してください!」


伊織は縄を放した。荷車が前へ滑る。大型の脚が後部を潰す。反動で前面が跳ね上がる。炸薬が胸部へ当たった。一つ目。爆発。細い高温の噴流が装甲を貫く。白い板。内部隔壁。同じ線上へ穴が開く。荷車の残骸が回転する。二つ目の炸薬が穴の前へ入り込む。一拍。遅延信管。爆発。内部。白い光が膨張した。


大型個体の動きが止まる。音が消える。次の瞬間、背面装甲が内側から弾け飛んだ。白い炎。黒い破片。巨体が前へ傾く。


「伏せろ!」


伊織はアリアを抱えるように地面へ倒した。大型が水路へ崩れ落ちる。轟音。土煙。衝撃が背中を叩く。しばらく、何も見えない。耳鳴り。口の中に土。


伊織は顔を上げる。大型は動かない。胸部の白い光も消えている。


「倒した......?」


誰かが言った。兵士たちはすぐには立ち上がらない。待つ。一秒。二秒。十秒。修復は始まらない。


「終わった」


伊織が言う。歓声が水路の両岸から上がった。兵士。弓兵。魔術師。誰もが武器を上げる。


伊織は立とうとして、左膝をついた。右肩から力が抜けている。アリアが身体を起こし、すぐに支えた。


「見せてください」


「脱臼はしてない」


「あなたの判断は信用しません」


「大型は倒した」


「だから傷も治ったと?」


「関係ないな」


「分かっているなら黙ってください」


南へ誘導した小型個体の方角から、戦闘音が続いている。まだ終わりではない。伊織は立つ。


「小型を片づける」


「あなたは戻ります」


「まだ八体」


「兵士たちで対処できます」


「損害が出る」


「すでに出ています」


アリアの声が強くなる。「あなたの身体にも」


伊織は彼女を見る。怒り。恐怖。背中へ置かれた手が震えている。


「俺が残れば早い」


「あなたが倒れれば、次がありません」


王都。第二観測所。境界。クロ。ヴェルナー。次がある。一つの戦いで身体を使い切るわけにはいかない。


「分かった」


アリアが目を見開く。「本当に?」


「ああ」


「熱がありますか」


「ない」


「頭を打ちましたか」


「土には打った」


「冗談を言えるなら歩けますね」


「厳しいな」


ヴォルフが水路へ降りてくる。頬に血。鎧に傷。それでも立っている。


「小型は俺たちがやる」


「死ぬなよ」


「誰に言っている」


「兵を預かってる男に」


ヴォルフは大型の残骸を見る。「これを倒したのは、俺たちだな」


「ああ」


「お前一人ではなく」


「俺一人なら、最初の砲撃で終わってた」


東岸。弓兵。西岸。魔術師。荷車を引いた兵士。風で軌道を変えたアリア。全員の役割が重なった。


「なら、次も同じだ」


ヴォルフが剣を上げる。「町は俺たちが守る。お前は戻って、その犬を守れ」


「犬と言うと怒るぞ」


「起きたら謝る」


「覚えておく」


伊織はアリアに支えられ、水路を上がった。町へ戻る道。背後では兵士たちが南へ向かう。大型個体の残骸から、白い煙が上がっている。第一観測所から受けた敗北。補給路。中央施設。心臓。積み重ねたものが、ようやく一つの勝利へ繋がった。


だが、伊織の胸には歓喜より先に、観測盤で見た赤い表示が残っていた。王都地下。接続準備。アルドは止めない。十万人を守るために、境界を開こうとしている。正しいかどうかではない。止めるべきかどうかでもない。別の方法を見つけなければ、アリアは父と戦うことになる。


「アリア」


「何です」


「王都へ行く」


「はい」


「嫌なら」


「行きます」


言葉を重ねる前に答えた。「父と話します」


「話して止まるか」


「止まらなければ、止めます」


紫の瞳に迷いはあった。だが、目を逸らしてはいない。


「一人でやるな」


「あなたもです」


「ああ」


町の門が見える。食堂の煙突から、細い煙が上がっていた。クロはあそこにいる。戻る場所が見える。その向こう。遥か遠くの王都では、別の扉が開こうとしている。


伊織は歩みを止めなかった。守る線は、町の外壁で終わらない。食堂から王都へ。王都から、世界の境界へ。切るべき線と、繋ぐべき線を見極めなければならない。次に間違えれば、開くのは扉だけでは済まない。



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