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第113話 向こう側の手

裂け目の向こうで動いた影は、建物より大きかった。輪郭しか見えない。赤い空を背負い、崩れた高層建築の間をゆっくり横切る。脚があるのか、腕があるのかさえ分からない。ただ、動くたびに向こう側の地面が沈み、瓦礫が波のように持ち上がった。


アリアの剣先がわずかに下がる。「生き物......?」


「判断するな」


伊織は裂け目を見たまま言った。「見えてるものが本物とは限らない」


「では、あれは何です」


「扉の向こうだ」


答えたのはヴェルナーだった。老人の声に、恐怖はなかった。疲労だけがあった。長い時間、同じものを見続けた者の声だった。


「向こう側には、まだ世界が残っているのか」


伊織が尋ねる。「世界と呼べるものがな」


「俺たちのいた場所か」


「お前の日本ではない」


「別の世界?」


「この心臓が繋いだ場所は、一つではない」


ヴェルナーは赤黒い心臓へ向き直った。肉の裂け目は、ゆっくり広がっている。内側から押されている。


「古代人は、世界の境界を掘った」


「掘った?」


「穴を開けた。座標を定め、異なる世界から物質、知識、生物を引き寄せた」


「異世界人も」


「部品としてな」


アリアの剣が再び上がった。「人を部品と呼ぶのですか」


「私が呼んでいるのではない。これがそう扱う」


ヴェルナーは自分の金属に覆われた半身を叩いた。乾いた音。皮膚ではない。装甲でもない。心臓から伸びた灰白色の管が、老人の背中へ入り込んでいる。


「管理者は機構を維持する。機構を離脱しない」


先ほど聞いた言葉。ヴェルナーは笑った。「命令文だけなら、綺麗なものだ」


「外せないのか」


「外せば、私は死ぬ」


「今は生きてるのか」


老人の片方の目が細くなる。「半分ほどはな」


裂け目の向こう。巨大な影が止まった。こちらを向いた。目は見えない。それでも、見られていると分かった。


クロが激しく吠える。歯を剥き、昇降台の前へ出た。


「下がれ」


伊織の声に、クロは動かなかった。守ろうとしている。伊織たちだけではない。この場所そのものから、何かを遠ざけようとしている。


『境界接触を確認』


心臓から声が響いた。


『外部生体反応、接続中』


「閉じろ」


ヴェルナーが言った。「どうやって」


「心臓を眠らせる」


「止めるのと何が違う」


「止めれば境界が固定できない。眠らせれば、扉は閉じたまま維持される」


「塔は排出路だと言ったな」


「ああ。余剰魔力を地上へ逃がし、心臓が起きないようにしていた」


「兵器を造っていた」


「後から付け加えられた機能だ」


「誰が」


ヴェルナーは答えなかった。心臓が収縮する。裂け目がさらに開く。向こう側から、黒いものが伸びた。腕。ようやく形が分かった。長い。関節が多い。指は七本。一本だけで、人間の胴ほどの太さがある。黒い指先が裂け目の縁へ掛かる。肉と金属が同時に軋んだ。


「来ます!」


アリアが叫ぶ。「まだ入れない」


ヴェルナーは作業机へ手を伸ばした。古い金属棒を掴み、心臓の下へ突き出た操作部へ差し込む。回らない。老人の腕が震える。


「東伊織!」


「何をする」


「中央輪を止めろ!」


伊織は歯車の森を見た。大きすぎる。中央輪と呼ばれても、どれか分からない。「どれだ!」


「心臓の真下! 逆回転している輪だ!」


白い光が走る。複数の歯車。その中で一つだけ、周囲と反対方向へ回っている輪がある。直径は十メートル以上。地面から半分ほど露出し、心臓へ太い軸で繋がっている。


「止めれば眠るのか」


「一時的にな!」


「どうやって止める」


「歯へ楔を入れろ!」


「壊れないか」


「壊すな! 止めるだけだ!」


伊織は左手を開いた。黒い粒子が集まる。太い鋼鉄の棒。違う。ただの金属では意味がない。鋼鉄の具現は、伊織が使った装備だけだ。思い出す。VR内で装甲車両の整備に使った、折り畳み式の車輪止め。重量物の移動を止める楔。戦闘用ではない。だが、用途は明確だった。


黒い粒子が床へ落ちる。三角形の分厚い車輪止め。表面に滑り止めの溝。


「それで止まるのですか」


「一つじゃ無理だ」


伊織は二つ目を具現する。三つ目。魔力が削られる。額に汗が浮かぶ。アリアが背中へ手を当てた。


「必要な分だけです」


「六つ」


「多すぎます」


「歯が六方向にある」


「私が運びます」


風が三つの楔を持ち上げる。伊織は残りを左手で持った。右腕は動かない。それでも走る。歯車の間に設けられた細い足場。すぐ横で巨大な歯が噛み合う。一つの歯だけで、伊織の身長ほどある。踏み外せば、身体ごと挟まれる。


「クロ、残れ!」


クロは従わなかった。伊織の横を走る。脈動。足場が揺れる。向こう側の腕が、さらに裂け目を広げる。黒い指が一本、こちら側へ入った。空気が変わる。冷たくない。熱くもない。ただ、肺の中身が消えるような圧迫。


アリアが風の膜を強くする。「吸わないでください!」


「無理を言うな」


「息を止めて!」


伊織は呼吸を止める。黒い指が心臓の表面へ触れた。肉が痙攣する。


『外部接続率、十二』


数字が上がる。


「急げ!」


ヴェルナーの声。伊織たちは中央輪へ辿り着いた。逆回転。速い。歯の間隔は一定だが、楔を入れる余裕は一瞬しかない。


「私が遅くします」


「できるのか」


「やります」


アリアは双剣を床へ突き立てた。両手を広げる。風が歯車の回転へ逆らって巻きつく。空気だけでは止められない。だが、回転が僅かに落ちた。


「今です!」


伊織は最初の楔を投げ込む。歯と床の間。激突。楔が弾かれる。クロが横へ飛び、口で外套の端を引いた。弾かれた楔が伊織の顔の前を通り過ぎる。


「助かった」


再び拾う。「角度が浅い!」


ヴェルナーが叫ぶ。「下から入れろ! 歯の根元だ!」


「見えてる!」


伊織は膝をつく。回る歯の下。床との隙間。左手を伸ばす。右肩が痛む。無視する。


「三、二、一」


歯が来る。伊織は楔を押し込んだ。衝撃。左腕が痺れる。楔が床へ食い込み、歯車が一度大きく跳ねた。止まらない。だが、回転がさらに遅くなる。


「次!」


アリアが二つ目を風で運ぶ。反対側。伊織は足場を回る。そのとき、黒い指が心臓から離れた。こちらへ向いた。先端が割れる。七本の小さな触手。一本が伸びる。伊織へ。


クロが飛びかかった。「クロ!」


牙が触手へ届く前に、黒い表面が波打った。衝撃。クロの身体が弾かれる。足場の外へ飛ぶ。アリアが左手を振る。風の塊がクロを横から押し、別の足場へ落とす。黒い犬は転がり、すぐに立ち上がった。動ける。


「無事です!」


「先に言うな、見えてる!」


触手が再び伊織へ向かう。アリアが双剣を抜いた。一本を振る。風の刃。触手へ当たる。切れない。表面が僅かに凹んだだけ。


「硬い!」


「切るな!」


ヴェルナーが叫ぶ。「向こう側の物質は、こちらの法則に定着していない!」


「意味が分からない!」


「切れば増える!」


触手の先端。風の刃が当たった場所から、細い枝が二本伸びた。


「先に言ってください!」


アリアが後退する。「押し返せ!」


伊織は左手を開いた。黒い粒子。拳銃ではない。散弾銃でもない。衝撃を与える。殺さず、押し戻す。SAT装備の小型破城槌は具現できない。車両用の衝撃装置もない。なら、爆発。ただし、直接当てれば裂ける。伊織は閃光音響弾を具現した。


「目を閉じろ!」


「目があるのですか!」


「俺たちのだ!」


安全ピンを抜く。触手の手前。投げる。爆発。白い光。爆音。衝撃波が触手を正面から押した。切らない。焼かない。ただ、向こうへ押し返す。触手が揺れ、裂け目の側へ戻る。


「効いた!」


「耳が!」


アリアが片耳を押さえる。「閉じろと言った」


「目だけでしょう!」


「次は耳も言う」


「次を作らないでください!」


伊織は二つ目の楔へ向かう。心臓の声。


『外部接続率、二十一』


数値が下がらない。腕一本を押し返しただけ。裂け目そのものが開いている。


「楔を入れれば閉じるのか!」


「中央輪を止めれば、閉鎖処理へ入る!」


「何秒だ!」


「知らん!」


「使えないな!」


「五十年やっても分からんものはある!」


二つ目。歯の根元へ入れる。衝撃。歯車が大きく軋む。三つ目。アリアが風を二方向へ分ける。回転を抑えながら、楔を運ぶ。額に汗。呼吸が荒い。


「無理なら止めろ」


「誰に言っているのです」


「お前だ」


「止めません」


「分かった」


「今度は早いですね」


三つ目を入れる。回転が半分まで落ちた。巨大な軸が震える。心臓の収縮が乱れる。一度。途中で止まる。もう一度。早すぎる。


「リズムが崩れています」


「効いてる」


ヴェルナーが操作棒をさらに押し込む。老人の金属半身へ白い光が走る。人間の側の口から血が落ちた。


「お前も止めてるのか」


「私は弁を閉じている」


「死ぬぞ」


「今さらだ」


「それで済ませるな」


ヴェルナーが伊織を見る。人間の目に、初めて怒りが浮かんだ。「私に構うな!」


「管理者候補を探してたんだろ」


「探したのは心臓だ!」


「お前は違うのか」


「違う!」


操作棒が一段入る。床全体が揺れた。


「お前をここへ繋ぐつもりはない!」


伊織は一瞬、ヴェルナーを見た。老人は嘘をついていない。少なくとも、今の言葉には。


「なら、生きて説明しろ」


「楔を入れろ!」


四つ目。黒い指が再び裂け目へ掛かる。今度は二本。裂け目が上下へ広がる。向こう側の都市。赤い空。巨大な影。その身体の一部が近づく。顔のような面。無数の穴。穴の中で白いものが動いている。目。すべてがこちらを向く。


アリアの呼吸が止まった。「見ないでください」


伊織が言う。「見えています」


「数えるな」


「数えていません」


目が開く。脳の奥へ直接、音が入った。声ではない。言葉になる前の圧力。帰れ。開けろ。こちらへ来い。三つが同時に押し寄せる。


伊織の視界へ、東京の夜景が浮かんだ。濡れた道路。コンビニの光。自動販売機。見慣れた文字。帰れる。裂け目へ入れば。向こうへ行けば。南条がいる。死んでいない。あの店で待っている。


『帰還経路を提示』


伊織の足が止まった。アリアが気づく。「東さん?」


『喪失対象を再構成可能』


南条が笑う。


『あの店、また行こうな』


手を伸ばしている。雨の向こう。今度は間に合う。今度こそ。


「伊織!」


アリアが名前を呼んだ。敬称がない。初めてだった。紫の瞳が正面にある。その手が伊織の頬を叩いた。痛み。幻が揺れる。


「見ないで!」


「見てない」


「嘘です!」


「聞いてた」


「同じです!」


アリアは伊織の外套を掴んだ。「南条さんは、あなたを呼びません」


伊織の呼吸が止まる。「あの方は、戻れと言わない」


「知ったように言うな」


「知りません。でも、あなたが話した言葉なら知っています」


あの店、また行こうな。次があると思っていた言葉。死者が、生者を引きずるための言葉ではない。


「それは約束です。罠ではありません」


南条の姿が崩れる。雨。赤色灯。血。最後に残った笑顔だけが、暗闇へ消えた。


伊織は息を吐いた。「助かった」


「今は楔を!」


「ああ」


四つ目。入れる。五つ目。クロが足場の先で吠える。触手が背後から来る。アリアが風を正面からぶつける。押す。切らない。触手の速度が落ちる。


「最後です!」


六つ目の楔。伊織は中央輪の反対側へ走る。歯車はほとんど止まりかけている。しかし、その分、一つ一つの歯に掛かる力が大きい。楔を入れれば、砕ける可能性がある。角度。深さ。根元。


「東伊織!」


ヴェルナーが叫ぶ。「今だ!」


伊織は楔を押し込んだ。歯が落ちる。左腕へ凄まじい衝撃。楔が軋む。折れない。鋼鉄の具現で造られた装備が、役割を果たす。中央輪が止まった。一瞬。すべての音が消えた。心臓の収縮。歯車。鎖。風。沈黙。


『中央輪停止』


『深層機構、休眠処理へ移行』


裂け目が閉じ始める。黒い腕が引かれる。向こう側の巨大な影が動いた。無数の目が一斉に開く。裂け目の縁を、両側から掴む。閉じる力へ抵抗する。


「まだです!」


アリアが叫ぶ。「ヴェルナー!」


「閉鎖弁は限界だ!」


「他は!」


「守護獣だ!」


伊織とアリアがクロを見る。「何をさせる!」


「心臓の前へ連れていけ!」


「理由を言え!」


「守護獣は境界を固定するために造られた!」


クロがすでに走り出していた。心臓の下へ。黒い身体が歯車の足場を飛び越える。伊織たちも追う。心臓の正面。床に、獣の足跡を模した窪みがある。クロがその上へ立った。


『守護獣系統を確認』


『境界固定を開始』


クロの身体から黒い光が広がる。これまでの鋼鉄の具現とは違う。伊織の魔力を増やすときとも違う。影が床へ染み込み、心臓の周囲へ円を描く。裂け目の向こうから伸びた腕が止まった。巨大な指が震える。押し返される。


クロが吠える。一度。歯車の森が応える。二度。外壁の導線が光る。三度。裂け目が一気に狭まった。向こう側の無数の目。赤い空。崩れた都市。すべてが細い線になる。最後に、巨大な影がこちらへ手を伸ばした。届かない。裂け目が閉じる。心臓の表面が完全に塞がった。


静寂。クロがその場へ倒れた。


「クロ!」


伊織は駆け寄った。左膝をつく。黒い身体を抱き起こす。呼吸はある。浅い。目は閉じたまま。


「魔力を使い切っています」


アリアが手を当てる。「戻せるか」


「私の魔力では、性質が違います」


「俺なら」


「今のあなたも残っていません」


「それでも」


伊織は左手をクロの背へ置いた。鋼鉄の具現を通じて繋がる感覚。いつもなら、クロから力が流れ込む。今は逆。伊織の中に残った僅かな魔力を、クロへ押し戻す。頭の奥が白くなる。


「止めてください」


「まだだ」


「二人とも倒れます」


「呼吸が弱い」


「私が支えます」


アリアの手が、伊織の手へ重なる。魔力を直接クロへ送るのではない。伊織の流れを整える。細く。切れないように。クロの胸が上下する。一度。少し深く。もう一度。瞼が僅かに動いた。


「戻ってこい」


伊織が言う。黒い耳が微かに動く。それだけで十分だった。


「生きています」


アリアの声が震えた。「ああ」


伊織はその場へ座り込んだ。左腕にも力が入らない。右肩は熱を持ち、感覚が鈍い。ヴェルナーは操作部へ寄りかかったまま、荒い呼吸をしている。金属半身の光が弱まっていた。


「閉じたな」


伊織が言う。「一時的にだ」


「どのくらい」


「分からん」


「またそれか」


「心臓が再び余剰魔力を受ければ、目を覚ます」


「塔は止めた」


「塔だけではない」


ヴェルナーは顔を上げた。「この世界の各地に、同じ機構がある」


アリアの表情が硬くなる。「他にも?」


「観測所。工場。中継塔。古代遺跡と呼ばれているものの多くが、境界機構の一部だ」


「全部止めれば」


「余剰魔力が心臓へ戻る」


「動かせば兵器を造る」


「そうだ」


「最悪だな」


「だから私は、五十年かけて均衡を保ってきた」


「町を利用して?」


「人の生活は、魔力を散らす」


ヴェルナーは地上を見上げるように、暗い天井へ目を向けた。「火。井戸。防壁。魔道具。人が使うたび、機構から少しずつ力が抜ける。町は偶然ここにできたのではない。私が造らせた」


「オルドレインを」


「ああ」


伊織は老人を見る。この男が町を造った。守るために。あるいは、機構を眠らせるために。


「なら、なぜ黙ってた」


「知れば、人は掘る」


ヴェルナーの声は低かった。「使おうとする。王も、軍も、商人も。世界を繋ぐ力だと知れば、必ず奪い合う」


「だから一人で管理した」


「そのつもりだった」


「失敗したな」


「ああ」


老人は否定しなかった。「私の身体が先に限界を迎えた」


金属の管。半身。白い光。管理者は機構を離脱しない。


「代わりが必要だった」


「俺を繋ぐ気はないと言った」


「今はな」


「今は?」


「心臓はお前を選んだ」


アリアが一歩前へ出る。「選ばせません」


「私も選ばせたくない」


ヴェルナーは伊織を見た。「だが、次に目覚めたとき、私では閉じられない」


「なら、別の方法を探す」


「五十年探した」


「見つからなかった?」


「一つだけある」


「何だ」


ヴェルナーの人間の目が、僅かに揺れた。「扉の向こう側にある制御核を壊す」


閉じた心臓。その向こう。赤い空。無数の目。巨大な影。


「向こうへ行けと言うのか」


「それ以外に、心臓を永久に止める方法はない」


アリアが伊織の袖を掴んだ。力が入っている。伊織は閉じた裂け目を見た。帰還経路。そう表示された。だが、帰る場所ではない。南条もいない。日本でもない。向こう側には、世界を跨いで扉を開こうとする何かがいる。


「今すぐではない」


ヴェルナーが言った。「まず地上を安定させろ。塔の経路を調整し、心臓へ戻る力を減らす。守護獣も回復させる必要がある」


「お前は」


「ここを離れられん」


「連れていく」


「無理だ」


「管を切れば」


「死ぬと言った」


「死なせない方法を探す」


「甘いな」


「よく言われる」


伊織はクロを抱き上げようとした。左腕だけでは支えきれない。アリアが反対側から身体を入れ、二人で持ち上げる。


「戻るぞ」


「地上へ?」


「ああ」


伊織はヴェルナーを見る。「お前も来い」


「話を聞いていたか」


「歩ける範囲まででいい」


「何のために」


「町の連中へ説明する」


ヴェルナーは黙った。「五十年黙ってた分を、全部だ」


「信じると思うか」


「俺たちが信じるかどうかも、まだ決めてない」


老人の口元が、僅かに動いた。笑いではない。痛みに近い。「変わった男だな」


「お前よりは普通だ」


心臓は眠っている。歯車も止まった。だが、完全な静寂ではなかった。閉じた裂け目の向こうから、微かな音が続いている。爪。何本もの爪が、向こう側から扉を掻いている。


伊織はクロの重さを確かめた。温かい。生きている。今は、それでいい。


地上へ戻る。町を守る。そのうえで、向こう側へ行く方法を考える。帰るためではない。二度と、こちらへ開かせないために。


昇降台へ戻るまで、ヴェルナーは一度も手を借りようとしなかった。作業机の脇に立てかけていた杖を取り、金属に覆われた右脚を引きずるように歩く。背中から伸びた管は、心臓の下へ続く床の溝に繋がったままだった。


三歩。そこで止まる。管が張り、金属の半身に白い光が走った。


「ここまでだ」


ヴェルナーが言う。昇降台までは、まだ十数メートルある。


「切れないのか」


「切れる」


「なら」


「心臓と私のどちらも止まる」


伊織は管を見る。太さは親指ほど。灰白色の外殻に覆われ、その内側を白い光が流れている。一本ではない。外套の下に隠れているものを含めれば、少なくとも五本。血管に似ていた。ヴェルナーの身体から心臓へ力を送っているのか、心臓から老人へ送られているのかは分からない。


「どこまで離れられる」


「この区画の中だけだ」


「昇降台にも乗れない?」


「乗った瞬間、接続が切れる」


アリアはクロを支えながら、閉じた心臓へ目を向けた。「この方が離れれば、また扉が開くのですか」


「すぐには開かん。だが、休眠処理を維持する者がいなくなる」


「なら、ここへ残すしかない」


伊織が言うと、ヴェルナーは顔を上げた。「随分と簡単に切り捨てる」


「違う」


「何がだ」


「戻ってくる」


「何のために」


「管を外す方法を探す」


ヴェルナーは、しばらく伊織を見ていた。やがて、小さく鼻を鳴らす。「五十年探したと言ったはずだ」


「一人でだろ」


「人数が増えれば、世界の仕組みが変わるとでも?」


「見えるものは増える」


伊織はアリアを見る。彼女は返事の代わりに、クロの身体を抱え直した。


「少なくとも、あなた一人よりは三人の方がましです」


「その犬を数に入れるのか」


ヴェルナーの人間の目が、クロへ向く。「当然です」


アリアが答えた。黒い耳が僅かに動く。意識は戻っていない。だが、声は届いている。


「守護獣は犬ではない」


ヴェルナーが言った。「何だ」


「境界を越えてきた者に寄り添い、世界との接続を安定させる生体端末だ」


伊織の顔から表情が消えた。「端末と呼ぶな」


「古代人の分類ではそうなる」


「古代人はもういない」


「だから呼び方だけ変えれば、本質も変わると?」


「少なくとも、こいつは自分で選ぶ」


ヴェルナーの視線が止まる。伊織は続けた。「先に走った。俺が命令したからじゃない。俺たちを守るためにだ」


「設計された行動かもしれん」


「それでも、クロがやったことだ」


地下へ降りると決めたのも。心臓の前へ走ったのも。力を使い切るまで境界を押さえたのも。すべてを機能と呼ぶことはできる。だが、それだけで片づける気はなかった。人間も、生きるために食べる。恐れれば逃げる。守りたければ身体が先に動く。仕組みがあるから、選択ではないとは言えない。


「守護獣について知っていることを全部話せ」


「今ここでか」


「戻るまでに死なれると困る」


「死なん」


「さっき半分しか生きてないと言った」


「残り半分がしぶとい」


「面倒な老人ですね」


アリアが呟いた。ヴェルナーは彼女を見る。「お前に言われる筋合いはない」


「初対面で分かる程度には面倒です」


「アリア」


「事実です」


伊織は止めなかった。ヴェルナーの口元が僅かに歪む。今度は痛みではない。笑ったらしい。


「守護獣は、境界を渡った者すべてに現れるわけではない」


老人は作業机へ戻り、椅子へ身体を預けた。「世界を越えた際、魂と肉体の接続が不安定になった者に付く。こちらの世界へ定着させるためにな」


「転移者の補助装置?」


「それだけではない。境界機構は、異世界人を引き寄せる際に莫大な負荷を受ける。守護獣はその歪みを吸収し、機構へ戻す役割も持つ」


「クロが俺の魔力を増やすのは」


「お前をこの世界へ馴染ませているからだ」


「成長すれば、鋼鉄の具現の負担が減る」


「接続が安定するほど、変換時の損失が減る。当然だ」


アリアがクロの背へ手を置く。「では、この子は東さんのために存在しているのですか」


「古代人の設計上はな」


「設計上は」


「今のこいつが何を思っているかは知らん」


ヴェルナーは伊織を見る。「お前の言う通り、自分で選んでいる可能性はある」


「可能性じゃない」


「断言できる根拠は」


「一緒にいた」


それだけだった。説明する必要もない。空腹のとき。戦うとき。眠るとき。何も起きない時間。クロは道具のように待機していたわけではない。嫌なものを嫌がり、嬉しいときには尾を振り、伊織が無茶をすれば噛みつくように止めた。設計書に書かれた反応だけで、あの時間を説明できるとは思えなかった。


「守護獣は他にもいるのか」


「いた」


「過去形?」


「私のものは死んだ」


ヴェルナーの声から、僅かな熱が消えた。伊織は老人を見る。「いつ」


「四十八年前だ」


「ここへ来て二年後」


「よく計算できたな」


「何があった」


ヴェルナーは答えない。金属の指が、机の縁を一度叩いた。「境界が開いた」


「今と同じか」


「もっと小さい。だが、私は向こう側を見た」


「何がいた」


「何もいなかった」


「さっきはいた」


「当時は、だ」


老人は閉じた心臓へ目を向けた。「灰だけの世界だった。空も、地面も、海も、すべてが死んでいた」


「そこから何かが来た?」


「最初は、風だけだった」


ヴェルナーの人間の手が震える。「その風に触れた守護獣は、形を保てなくなった。黒い粒子へ崩れ、境界へ吸われた」


伊織はクロを見た。呼吸。まだ浅い。


「死体は」


「残らなかった」


「名前は」


老人の目が伊織へ戻る。「何だ」


「守護獣の名前」


長い沈黙。「......ハルト」


犬の名には聞こえなかった。「犬じゃなかったのか」


「鴉だ」


「黒い?」


「ああ」


「そうか」


ヴェルナーはそれ以上話さなかった。伊織も聞かなかった。死んでから四十八年。それでも名前を口にするとき、老人の声は変わった。機能でも端末でもない。ヴェルナーにとっても、ハルトはハルトだった。


「向こう側の景色が変わったのはなぜだ」


アリアが尋ねる。「分からん」


「灰だけの世界に、都市と生物が現れた」


「都市は元からあったのかもしれない。私が見た場所と、今回繋がった場所が同じとも限らん」


「心臓は複数の世界へ繋がると言いましたね」


「ああ」


「では、先ほどのものが扉を渡り、別の世界へも移動している可能性は?」


「ある」


伊織は閉じた心臓を見る。向こうから聞こえる爪の音。一定ではない。複数。一つが掻き、止まる。別の場所で始まる。あの巨大なものだけではない。


「外部接続率が上がると、何が起きる」


「向こう側の物質がこちらへ定着する」


「腕だけじゃなく、本体も通れる?」


「心臓が完全に開けばな」


「完全に開くまで、どのくらい」


「今の状態なら、数日から数年」


「幅が広すぎる」


「他の機構が何をしているか分からん」


世界各地にある観測所。工場。中継塔。一つが動けば、余剰魔力が流れる。どこかで兵器が起動すれば、心臓へ負荷が掛かる。ここだけを止めても、全体は眠らない。


「他の施設の位置は」


「分かるものだけで七つ」


「地図は」


ヴェルナーが作業机の引き出しを開ける。紙の束を取り出し、伊織へ差し出した。古い地図。この世界の文字。その上へ、日本語の注記が細かく書き込まれている。オルドレイン。第一観測所。北方山岳。東部砂海。王都地下。さらに、海の向こうへ二つ。


「王都にもあるのか」


アリアが地図を覗き込む。「王城のさらに下だ」


「父は知っている?」


「現在の王が誰かも知らん」


「アルド=シルヴェインです」


ヴェルナーの顔が僅かに動いた。「シルヴェイン」


「知っているのですか」


「先代をな」


「私の祖父?」


「若い頃に一度、ここへ来た」


アリアの指が地図の上で止まる。「何をしに」


「古代兵器を求めて」


「祖父が?」


「当時、北方で戦争があった。国を守る力が必要だと言っていた」


「あなたは渡したのですか」


「追い返した」


「それで諦めた?」


「人間が一度で諦めると思うか」


ヴェルナーは皮肉を込めて笑った。「別の遺跡を掘った。そこで手に入れたものが、今の王国の魔導技術の基礎になった」


アリアの顔から色が引く。「王都の技術は、古代機構から?」


「すべてではない。だが、根は同じだ」


「父は知っているのでしょうか」


「知らない方が不自然だ」


アリアは黙った。アルドが古代技術へ関心を持っていたこと。娘を研究対象として見ていた時期。伊織の能力を利用しようとしたこと。それらが一本の線へ近づいていく。


「王都の機構が動いている可能性は」


伊織が尋ねる。「ある」


「確認する方法は」


「心臓が休眠した今なら、上層の観測盤で見られる」


「お前がいないと分からない?」


「記録は読めるようにしてある」


「日本語で?」


「私以外が読むとは思わなかった」


「今いる」


「だから直す必要がある」


ヴェルナーは立ち上がろうとした。金属の脚が床を滑る。身体が傾く。伊織は反射的に手を伸ばしたが、クロを支えているため届かない。アリアの風が老人の背を押した。ヴェルナーは机へ手をつき、倒れるのを免れた。


「魔力が尽きています」


「心臓が眠れば、供給も減る」


「あなた自身がこの機構から力を得ている?」


「生かされていると言った方が正しい」


「どのくらい持つ」


「心臓が眠っている間は、消耗する」


「だから休眠を維持できないのか」


「ああ」


心臓を眠らせれば、ヴェルナーへ流れる力も減る。起こせば生きられる。眠らせれば死へ近づく。五十年間、老人は自分の命と扉の間で均衡を取っていた。


「食べ物は」


「必要ない」


「最後に食べたのは」


ヴェルナーの眉が動く。「覚えていない」


「地上へ持ってくる」


「吸収できん」


「匂いくらいは分かるだろ」


「何の意味がある」


「あるかどうかは、持ってきてから決めろ」


「伊織」


アリアが静かに呼ぶ。「何だ」


「戻りましょう。クロが冷たくなっています」


伊織は黒い身体へ触れた。確かに、体温が下がっている。


「ヴェルナー」


「行け」


「地上の状況を確認したら戻る」


「その前に」


老人は作業机から、小さな金属板を取った。黒い表面。中央に白い線が一本。


「持っていけ」


「何だ」


「上層観測盤の解除鍵だ」


「白い石と同じか」


「違う。これは私の権限を一部切り分けたものだ」


「生命を吸う?」


「使い方を誤ればな」


「先に言え」


「今言った」


伊織は金属板を受け取った。軽い。手の中で微かに震えている。


「何ができる」


「観測記録の閲覧。導線の切り替え。上層施設の停止」


「兵器の操作は」


「できないよう封じた」


「なぜ」


「お前が使わない保証がない」


「正しい」


ヴェルナーは僅かに目を細めた。「否定しないのか」


「必要なら使うかもしれない」


「だから封じた」


「それでいい」


伊織は金属板を外套へ入れた。食堂の鍵があった場所。今は空いている。


「もう一つ」


ヴェルナーが言う。「何だ」


「鋼鉄の具現を、ここで使いすぎるな」


「反応するからか」


「心臓がお前の装備を、古代兵装の同系統として認識している」


「なぜ同系統になる」


「お前の装備そのものが古代兵器だからではない」


「分かってる」


「なら話が早い。問題は、具現の際に使う変換式だ」


「変換式?」


「記憶から物質を再構成する過程が、境界機構の転送技術に似ている」


伊織は左手を見る。黒い粒子。武器。車両。VRで使用した装備を、この世界へ呼び出す。


「同じ技術なのか」


「似ているだけだ。お前の能力は、守護獣とこの世界の魔力によって成立している。だが心臓は、仕組みの違いを理解しない」


「使うたび、扉だと誤認する?」


「小さな境界開放として記録する」


「それで反応が強くなったのか」


「一因だ」


伊織は黙った。戦うたびに使ってきた。守るために。生きるために。その一つ一つが、世界の底にある心臓へ届いていた可能性がある。


「東さんのせいではありません」


アリアが言う。「まだ何も言ってない」


「顔に出ています」


「出てない」


「出ています」


「使わなければ死んでた」


ヴェルナーが言った。「責任を背負うのは勝手だが、事実まで曲げるな」


「お前に慰められるとは思わなかった」


「慰めていない。計算の話だ」


「そういうことにしておく」


鋼鉄の具現を捨てることはできない。だが、無制限にも使えない。重火器。車両。大量の弾薬。出力が大きいほど、心臓への刺激も大きくなる可能性がある。


「出力ごとの記録はあるか」


「上層観測盤に残っている」


「戻ったら見る」


「読め」


「言われなくても」


クロの身体が小さく震えた。伊織は腕へ力を入れる。「行くぞ」


アリアがうなずく。昇降台へ向かう。ヴェルナーは追わない。管の届く端で立ち止まり、三人を見送った。


「東伊織」


背後から呼ばれる。伊織は振り返った。「何だ」


「守護獣が目を覚ましたら、名を呼べ」


「いつも呼んでる」


「そうではない」


老人の人間の目がクロへ向く。「世界へ繋ぎ止めるつもりで呼べ。お前の声を、自分の帰る場所だと認識させろ」


伊織は腕の中の黒い身体を見た。「分かった」


「それと」


「まだあるのか」


「次にここへ来るときは、食事を持ってこい」


伊織は顔を上げた。ヴェルナーは視線を逸らしている。


「吸収できないんじゃなかったのか」


「匂いくらいは分かる」


「何がいい」


「肉だ」


「種類は」


「五十年ぶりに食事の注文をさせる気か」


「注文しないと適当に持ってくる」


「何でもいい」


「一番困る答えだな」


ヴェルナーの口元が僅かに緩んだ。「戻れ」


「ああ」


昇降台へ乗る。伊織が金属板を窪みへ近づけると、床の溝が白く光った。


『管理者権限の分割を確認』


『上層移動を許可』


台が上昇する。ヴェルナーの姿が遠ざかる。白い外套。金属の半身。止まった歯車の間に一人で立つ老人。五十年。その背後では、閉じた心臓を何本もの爪が掻き続けている。やがて暗闇が覆い、姿が見えなくなった。


上昇する風の中で、アリアが言う。「信用しますか」


「まだ決めない」


「助けるのに?」


「信用と救助は別だ」


「あなたらしいですね」


「褒めてるか」


「半分ほどは」


クロの呼吸がまた浅くなる。伊織は顔を近づけた。「クロ」


反応はない。ヴェルナーの言葉を思い出す。世界へ繋ぎ止めるつもりで。声を、帰る場所として。伊織は黒い耳の近くで、もう一度呼んだ。


「クロ」


戦場で呼ぶ声ではない。命令でもない。危険を知らせる声でもない。「戻ってこい」


黒い耳が動く。アリアが息を止めた。「クロ」


胸が一度、大きく膨らむ。息を吐く。閉じた瞼が、僅かに開いた。黒い瞳。焦点は合っていない。それでも、伊織の顔を探すように動いた。


「ここだ」


クロの喉から、小さな音が漏れた。吠える力はない。鼻先が伊織の胸へ触れる。


「聞こえています」


アリアの声が震える。「ああ」


伊織は黒い身体を抱え直した。帰る場所は、建物ではない。鍵でもない。誰かが待つ場所だけでもない。声を聞いて、戻ろうとする先。クロにとって、それが自分であるなら。手放すつもりはなかった。


昇降台が上がる。巨大な輪。壁へ埋め込まれた旧管理者群。橋。扉。やがて、降りてきた階段へ戻った。地上へ近づくほど、空気が変わる。土。煙。人の匂い。遠くで声が聞こえる。避難する住民。指示を出す兵士。泣く子ども。荷車の車輪。町はまだ生きている。


亀裂から地上へ出る。最初に駆け寄ってきたのはリナだった。「クロ!」


「道を空けろ」


伊織の声に、周囲の者が左右へ退く。「寝かせる場所を」


「食堂を開ける」


リナが走る。避難所として閉じていた扉へ鍵を差し込む。鉄の音。扉が開く。暗い店内。冷えた机。消えた炉。だが、場所は残っている。


伊織たちは奥の長椅子へクロを寝かせた。アリアが毛布を掛ける。リゼルが駆け込み、黒い身体へ手を置いた。


「魔力がほとんどない」


「戻せるか」


「少しずつなら。でも、普通の回復術とは違う」


「何が必要だ」


「この子と同じ性質の力」


全員の視線が伊織へ向く。「俺から送る」


「今のあなたに残っていると思う?」


「休めば戻る」


「どのくらい」


「分からない」


リゼルが眉を寄せる。「またそれ?」


「俺に言うな」


「では誰に」


「ヴェルナー」


店内が静まった。ヴォルフが扉の前で止まる。「誰だ」


「町を造った男だ」


誰も言葉を返せない。伊織は外套から黒い金属板を取り出し、机へ置いた。白い線が一度だけ光る。


「五十年前にこの世界へ来た異世界人。第一観測所と地下機構を管理していた」


「生きているのか」


「地下で機械に繋がれてる」


「信用できる?」


リゼルが尋ねる。「分からない」


「敵?」


「今は違う」


「今は、ということは」


「過去に何をしたか、まだ聞いてない」


ヴォルフが机を叩いた。「町を造っただと?」


「ああ」


「なぜ姿を隠した」


「地下の扉を押さえるためだ」


「何の扉だ」


伊織は全員を見る。説明すれば、不安が広がる。だが、黙ればヴェルナーと同じになる。知れば人は掘る。利用しようとする。それでも、ここにいる者たちは命を預けている。


「別の世界へ繋がる扉だ」


誰も動かなかった。「その向こうから、何かが入ろうとしてる」


「何かって」


リナの声が小さくなる。「大きな生き物だ」


「倒したの?」


「閉じただけだ」


「また開く?」


「ああ」


隠さなかった。店内の空気が重くなる。


「ただし、今すぐじゃない」


伊織は黒い金属板へ触れる。「地下の機構は眠った。塔への補給も止まってる。猶予はある」


「どれくらい」


「調べる」


「それまでどうする」


ヴォルフの問い。「町を捨てる準備は続ける」


住民の何人かが息を呑む。「同時に、残る方法を探す」


「両方?」


「ああ」


「どちらかに決めるべきでは」


「今決める材料がない」


伊織は地図を机へ広げた。ヴェルナーの注記。七つの施設。その一つ。王都地下。アリアの指が、その印へ触れる。


「父に確認します」


「連絡できるか」


「この町の通信設備が戻れば」


「先に観測盤だ」


伊織は黒い金属板を持ち上げる。「王都の施設が動いてるか確認する」


「動いていたら?」


「止める方法を考える」


「王都へ行くのですか」


「必要なら」


アリアは地図から目を離さなかった。父。王都。古代技術。すべてが彼女の過去へ繋がっている。


「一人で抱えるな」


伊織が言う。アリアが顔を上げる。「あなたがそれを言いますか」


「言う」


「説得力がありません」


「それでも言う」


紫の瞳が少し揺れた。「......分かりました」


店の外から、鐘が鳴った。一度。採石場の斥候からの合図。全員が扉を見る。二度目はない。三度目も。


「町へ向かってはいない」


ヴォルフが息を吐く。だが、安心はできない。補給を失った大型個体が、採石場に残っている。地下の心臓。王都の機構。扉の向こう側。敵は減っていない。見えるようになっただけだ。


長椅子で、クロが小さく身じろぎした。伊織は隣へ座る。身体は重い。右肩の痛みも、今になって強くなっている。


「東さん」


リゼルが傷を見る。「今度こそ治療します」


「クロが先だ」


「同時にします」


「人手は」


「黙って座って」


伊織は反論しなかった。アリアが向かいの椅子へ座る。疲れ切っている。それでも、剣はすぐ手の届く場所へ置いていた。


リナが炉へ薪を入れる。火打ち石。小さな火。何度か消えかけ、やがて薪へ移る。店内へ橙色の光が広がった。


「何か作る」


リナが言う。「ヴェルナーの分も」


伊織が答える。「誰?」


「地下の老人だ」


「食べられるの?」


「匂いは分かるらしい」


「面倒な注文ね」


「肉なら何でもいいそうだ」


「何でもいいが一番困るのよ」


「同じことを言った」


リナは小さく笑った。鍋を火へ掛ける。水。干し肉。根菜。食堂の音が戻ってくる。包丁。薪。煮える水。外では避難準備が続いている。地下では扉を掻く音が止まらない。それでも今、クロは眠り、アリアは隣にいて、鍋から湯気が上がり始めていた。


伊織は目を閉じる。眠るつもりはない。ただ、一度だけ呼吸を整える。胸の奥に、別の拍動はなかった。地の底の心臓ではない。自分のものだけだ。隣でクロが息をする。向かいでアリアが椅子へ背を預ける。炉の火が鳴る。伊織はその音の中にいた。



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