第112話 歯車の底へ
亀裂の内側には、階段があった。自然に割れた地面の下へ、人の手で造られた石段が続いている。縁は長い年月に削られ、中央だけが浅く窪んでいた。誰かが使っていた。一度や二度ではない。町ができるより前から、何人もの足がここを下りている。
伊織は亀裂の縁へ左手を掛け、最初の一段へ足を置いた。下から吹き上がる風は冷たい。地下水の湿り気はなく、乾いた金属の臭いが混じっている。
「階段があるなら、入口もあったはずです」
アリアが後ろから言った。「井戸の下か、町の中央だろうな」
「埋めたのでしょうか」
「見つからないように」
クロが先へ降りる。数段進むたびに立ち止まり、暗闇へ鼻を向けた。背中の毛はまだ逆立っている。逃げたいわけではない。危険を前にして、全身が警告を発している。それでも進んでいた。
「無理なら戻っていいぞ」
伊織が言う。クロは振り返り、鼻を鳴らした。「怒っています」
「分かるのか」
「今のは分かります」
「置いていくと思ったんじゃないか」
クロは強く尾を床へ打ちつけた。図星らしい。
「悪かった」
伊織が言うと、黒い犬は再び先へ進んだ。
石段は緩やかに螺旋を描いている。壁には白い導線が走り、地下の脈動に合わせて明滅していた。一度。光が強くなる。消える。以前より間隔が短い。
「二十五秒です」
アリアが言う。「地上では三十だった」
「速くなっています」
階段の途中で、壁が大きく削れていた。古い崩落ではない。内側から何かが押し出したように石が割れ、奥の金属板が露出している。金属板には、細い傷が何本も残されていた。爪痕に見える。
「小型個体のものか」
アリアが近づく。「違う」
「なぜです」
「幅が広い」
一つの傷が、伊織の指二本分ほどある。小型個体の鉤爪ではない。もっと大きなもの。しかも、金属板の内側から付けられている。
「閉じ込められていた?」
「出ようとした」
クロが傷へ鼻を近づけ、すぐに後ろへ下がった。低く唸る。
「同じ臭いがしますか」
クロは答えず、階段の下を見る。地の底から、重い音が上がってきた。金属が一つ噛み合う。続いて、別の金属が回る。遠くで巨大な鎖が引かれる。それらが順番に重なり、最後に低い脈動が響いた。
階段が震える。伊織は壁へ左手をついた。右肩が固定されているせいで、身体を支えきれない。アリアが背中へ腕を回す。
「立てますか」
「今のは地面が動いた」
「あなたの足も動きました」
「転んではない」
「私が支えました」
「助かった」
素直に答えると、アリアは少しだけ目を見開いた。「......それでいいのです」
階段はさらに深く続く。百段。二百段。距離の感覚が曖昧になる。白い光以外に目印はない。空気が重くなっていく。魔力が濃い。呼吸をするたび、喉の奥へ細かな砂を吸い込んでいるような違和感があった。
「身体に入ってきます」
アリアが口元を布で覆う。「毒か」
「魔力です。濃すぎる」
「防げるか」
「少しなら」
彼女が風を薄い膜にして、三人の周囲へ巡らせた。空気を止めるのではない。流れを作り、濃い魔力が一か所へ溜まらないよう外へ逃がす。
伊織は呼吸を整えた。頭の重さがわずかに減る。「どのくらい持つ」
「進むだけなら。ただし、戦闘になれば難しいです」
「撃たない方がいいな」
「そうしてください」
「必要なら使う」
「最初から条件を付けないでください」
階段の先に、扉が見えた。高さは三メートル以上。灰白色の金属。中央に円形の窪みがあり、周囲へ六本の溝が伸びている。封印。あるいは認証装置。
「白い石は置いてきた」
「開けられませんか」
「触ってみる」
「生命反応を吸われたことを忘れましたか」
「忘れてない」
「なら」
「具現は使わない」
伊織は左手を扉へ近づけた。触れる直前。扉の表面に白い文字が浮かぶ。
『代替権限保持者を確認』
「まだ残ってる」
「権限が?」
「ああ」
白い石を中央施設へ固定してきた。それでも、一時権限の情報は伊織の身体に残っているらしい。
『上層遮断を確認』
『深層管理区画への進入を許可』
六本の溝に光が走る。扉が左右へ開き始めた。音は小さい。巨大な重量に似合わず、滑るように壁へ沈んでいく。
その向こうには、足場がなかった。闇。どこまでも続く縦穴。三人の立つ場所から、細い金属橋が中央へ伸びている。先端には円形の昇降台。その下は見えない。白い導線が縦穴の壁を螺旋状に走り、遥か下方へ集まっていた。
「底が見えません」
アリアが風を落とす。しばらくして、わずかな反応が返ってきた。
「どのくらいだ」
「風が乱れて、正確には。少なくとも百メートル以上」
脈動。縦穴全体が白く光る。一瞬だけ、底の輪郭が見えた。巨大な歯車。一枚ではない。何層にも重なり、互いに違う方向へ回っている。その中央に、赤黒い塊があった。収縮している。機械の中心に、肉が埋め込まれているように見えた。光が消える。
「見えましたか」
「ああ」
「生き物です」
「機械でもある」
クロが橋の入口で止まった。足元を嗅ぐ。橋には血の跡があった。新しくはない。黒く乾き、金属の溝へ染み込んでいる。人間のものかは分からない。だが、誰かが傷ついた状態でここを渡った。血の跡は、昇降台まで続いていた。
「ヴェルナーでしょうか」
「五十年前の血が残るか」
「保存されている可能性はあります」
「別の誰かかもしれない」
伊織は橋へ足を置いた。幅は二人が並べる程度。手すりはない。下から吹く風が外套を持ち上げる。右腕が使えない今、均衡を崩せば終わる。
「私が前を」
「クロが先だ」
黒い犬が橋へ出る。低い姿勢。一歩ずつ慎重に進む。アリアが伊織の左側へ立った。「支えます」
「落ちそうになったら離せ」
「嫌です」
「二人で落ちる」
「風があります」
「足りないかもしれない」
「それでも離しません」
伊織は返事をしなかった。橋を渡る。金属板は一歩ごとに低く鳴った。中央へ近づくほど、下からの脈動が強くなる。足裏へ伝わる。骨を通り、胸の内側へ響く。伊織の心拍が、その周期へ引かれ始めた。
一度。地下の心臓が収縮する。次に、自分の胸が鳴る。早い。また地下。また胸。
「呼吸を合わせないでください」
アリアが言う。「合わせてない」
「身体が引かれています」
「分かるのか」
「魔力が同調しています」
鋼鉄の具現。古代設備に認められた代替権限。ヴェルナーとの一致率。何かが伊織の中へ手を伸ばしている。歩みを止める。地下の脈動。心臓。重なる。
『適合反応を確認』
声が縦穴へ響いた。アリアが剣へ手を掛ける。
『上層代替権限保持者』
『深層管理者候補として照合』
「候補?」
伊織は暗闇を見下ろす。「何と?」
アリアには文字も声も一部しか理解できていない。「管理者にできるか調べてる」
「拒否してください」
「方法が分からない」
『生体記憶照合を開始』
胸の奥が焼けた。視界が白くなる。橋の上ではない。夜。雨。アスファルト。赤色灯。無線の声。銃声。南条が振り返る。
『あの店、また行こうな』
記憶が、勝手に引き出されている。次の瞬間。血。崩れた身体。届かなかった手。伊織の足が止まる。
「東さん!」
アリアの声が遠い。
『喪失記憶を確認』
『帰還欲求、低下』
『現地定着傾向、上昇』
「勝手に見るな」
伊織は左手で胸を掴んだ。記憶が続く。食堂。湯気。リナの鍵。クロの背中。アリアの手。
『代替管理者条件へ接近』
「東さん、聞こえますか!」
アリアが伊織の頬へ手を当てた。風が顔へ当たる。白い視界が揺れる。
「聞こえてる」
「戻ってください」
「いる」
「違います。ここを見てください」
紫の瞳。怒っている。怯えてもいる。その顔が、記憶の中ではなく目の前にある。伊織は息を吸った。地下の脈動から、呼吸を外す。
「大丈夫だ」
「何を見せられたのです」
「昔のことだ」
「南条さん?」
伊織はアリアを見た。名前を伝えたことはある。だが、今の記憶が声になって漏れたのかもしれない。
「ああ」
「それだけではありませんね」
「あとで話す」
「必ずです」
「戻ったらな」
昇降台へ到着する。床には円形の溝。中央に、手の形をした窪みがある。
「また触る装置です」
アリアの声が険しい。「触らないと降りない」
「他の方法を探します」
周囲に操作盤はない。橋はここで終わっている。縦穴の壁まで距離があり、風で渡るには遠すぎた。
「俺がやる」
「先ほど記憶を読まれたばかりです」
「今度はお前が手を重ねろ」
「何を」
「一人で接続しない」
アリアはしばらく黙った。「それで安全になる保証はありません」
「ない」
「正直ですね」
「嘘をついても仕方ない」
伊織は左手を窪みへ置いた。アリアがその上へ手を重ねる。クロは二人の脚の間に入り、身体を寄せた。三つの生命反応。昇降台の溝が光る。
『複数接続を確認』
『主権限、一』
『補助権限、一』
『守護獣系統、一』
伊織とアリアが同時にクロを見る。「守護獣」
アリアが呟いた。クロは低く唸った。言葉の意味を理解したのか、声の響きを嫌ったのかは分からない。
『深層降下を開始』
昇降台が沈む。音もなく、足元が下がった。橋が上へ離れていく。扉。階段。白い光。すべてが遠ざかる。
縦穴の中を降りる。速度は徐々に上がった。壁の導線が上へ流れていく。途中。巨大な金属輪が横切った。直径は町の広場ほどある。ゆっくり回転し、無数の歯が隣の輪へ噛み合っている。その隙間に、灰白色の殻が挟まっていた。
兵器の残骸ではない。人の形をしたもの。頭。肩。腕。だが、下半身は歯車と一体化している。何十体。何百体。壁に沿って並んでいた。
「人?」
アリアが息を呑む。「違う」
伊織は目を凝らす。顔がない。表面に目や口を模した窪みだけがある。人の形をした部品。機構を動かすための歯。
『旧管理者群』
声が答える。『機能停止済み』
「管理者を部品にしたのか」
『管理者は機構を維持する』
『機構を離脱しない』
「離脱できない、の間違いだろ」
返答はない。昇降台はさらに下る。アリアの手が伊織の手を強く握った。
「あなたを、あれにするつもりですか」
「候補らしい」
「断ります」
「俺に言うな」
「聞いているのでしょう」
彼女は暗闇へ向かって言った。「この人は渡しません」
縦穴に声が響く。機構は返事をしなかった。だが、地下の脈動が一度だけ乱れた。
「聞いたみたいだな」
「なら、覚えさせます」
降下が止まる。底。昇降台の前に、巨大な空間が広がっていた。歯車の森。太い鎖。壁から伸びる無数の管。その中心に、赤黒い心臓が吊られている。大きさは二階建ての建物ほど。表面の半分は肉。残りは灰白色の金属板。収縮するたび、肉の隙間から白い光が漏れ、周囲の歯車が一段ずつ回る。
一度。鎖が引かれる。二度。上層へ力が送られる。三度。町全体が震える。
心臓の下には、人影が立っていた。一人。白い外套。細い身体。背中を向けている。
「誰かいる」
アリアが剣を抜く。クロが唸る。伊織は目を細めた。
人影の横には、古い作業机がある。紙。工具。分解された機械。壁には、日本語で文字が書かれていた。
『止めるな』
『眠らせろ』
『壊せば、世界へ繋がる』
人影がゆっくり振り返る。顔の半分は老人。残り半分は灰白色の金属に覆われている。目は一つだけ人間のもの。もう一つは白く光っていた。
「遅かったな」
日本語だった。擦れた声。長い間、使っていなかった喉の音。伊織はその顔を見たことがない。だが、名乗られる前に分かった。この場所で、日本語を使い、古代機構を調べ、五十年前に異世界へ来た男。
「ヴェルナーか」
老人の口元がわずかに歪んだ。「その名を、まだ知る者がいたか」
心臓が脈打つ。老人の金属に覆われた半身へ、白い光が走った。
「塔を止めたのは、お前だな」
「ああ」
「なら、目覚めさせたのもお前だ」
ヴェルナーは伊織の胸元を見た。鋼鉄の具現を見ているのではない。もっと深い場所。この世界へ来る前の記憶まで見透かすような目だった。
「東伊織」
名乗っていない。アリアが剣を前へ出す。「なぜ名前を」
「心臓が読んだ」
ヴェルナーは背後の巨大な肉塊へ目を向けた。「それは兵器ではない」
「なら何だ」
「扉だ」
地下の心臓が収縮する。赤黒い肉の中央。縦に一本の裂け目が開いた。その向こうに、夜空が見えた。この世界の空ではない。黒い空。赤い光。遠くに並ぶ、崩れた高層建築。伊織の知る景色に似ている。だが、知っている場所ではなかった。
「世界と世界を繋ぐ心臓」
ヴェルナーが言う。「お前たちをこちらへ落としたものだ」
裂け目の奥で、何か巨大な影が動いた。
「そして今、向こう側から開こうとしている」




