第111話 下で脈打つもの
地上へ戻ったとき、夜は町を半分まで飲み込んでいた。旧井戸の縁から顔を出すと、冷えた風が頬の傷へ触れた。地下に満ちていた金属と灰の臭いが薄れ、代わりに薪の煙と煮込み料理の匂いが流れてくる。
避難所では、まだ火が使われていた。広場に並べられた鍋から湯気が上がり、毛布を巻いた住民たちが木椀を抱えている。泣いていた子どもは眠り、疲れ切った大人たちは小声で話していた。
誰かが伊織たちに気づいた。一人が立つ。隣の者も立つ。声は上がらなかった。ただ、全員の視線が向いた。
伊織は井戸の梯子を左手だけで上り切り、縁へ膝をついた。足に力が入らず、そのまま前へ倒れかける。アリアが腕を掴んだ。
「座ってください」
「先に報告だ」
「その姿で話しても、誰も安心しません」
「立っても同じだ」
「では、せめて血を拭いてください」
頬の傷はすでに塞がり始めていたが、乾いた血が顎まで残っている。右腕は胸へ固定されたまま。外套も土と灰で白く汚れていた。勝って戻った者には見えない。だが、負けてもいない。
「塔への供給は止めた」
伊織は広場へ向けて言った。大きな声ではない。それでも、静まり返った夜には十分だった。
「採石場の兵器は、もう外から力を受けられない。新しい兵器を造る音も止まった」
住民たちの間で、息を吐く音が重なった。歓声は起きない。皆、すぐには信じられないのだろう。
ヴォルフが人垣を割って歩いてきた。「本当か」
「ああ」
「確認は」
「地下の導線が消えた。打撃音も止まった」
「塔は?」
「まだ立ってる」
「兵器は動くのか」
「内部の力だけなら動く。ただ、修復と装甲制御は落ちる」
ヴォルフは伊織の顔を見た。「倒せるか」
「今なら」
迷わず答えた。採石場の大型個体は、補給を失っている。三つの選択を同時に行えない。装甲の反応も遅くなる。先ほどの小型個体と同じなら、修復も止まっている。同じ作戦は通用しないだろう。だが、倒せない理由はなくなった。
「兵を集める」
「待て」
「今なら倒せるのだろう」
「今夜は動かさない」
「なぜだ」
「地下で別のものが動き始めた」
広場の空気が戻ってしまう。僅かに緩んだ緊張が、また張り詰めた。ヴォルフの眉間に皺が寄る。
「何だ」
「分からない」
「兵器か」
「それも分からない」
「では、なぜ危険だと」
「塔へ行くはずだった力が、もっと下へ流れた」
アリアが伊織の隣へ立った。「町の地下深くに、大きな魔力反応があります。先ほどまでは眠っていたものです」
「目を覚ましたのか」
「まだ完全には。ただ、脈動が強くなっています」
「止めたせいか」
ヴォルフの問いに、アリアはすぐ答えなかった。伊織が代わりに言う。「可能性は高い」
何人かが不安そうに顔を見合わせた。塔を止めれば終わる。そう思っていた者もいただろう。伊織自身も、そこまで単純だとは考えていなかった。だが、止めた直後に別のものが動くとは予想していなかった。
「話は中でしましょう」
リゼルの声がした。地下中継施設から戻ったのだろう。顔色は悪く、片手でニコの肩を借りている。「立っている者から倒れそうよ」
「お前もだろ」
「だから言っているの」
避難所の奥に、簡単な会議場所が作られた。食堂から運び出した長机。椅子。地図。そして、リナが持ってきた大鍋。
「先に食べる」
誰も反論しなかった。伊織は椅子へ座らされ、左手側へ木匙を置かれた。食堂で使っていたものだ。器も見覚えがある。縁の欠けた灰色の皿。
「鍵」
リナが手を出した。伊織は外套の内側へ手を入れる。鉄の鍵を取り出し、掌へ置いた。
「なくしてない」
「それだけ?」
「返した」
「ちゃんと戻ったって言って」
伊織はリナを見た。彼女の目の下には疲れが溜まっている。避難所で何時間も火を守り、住民へ食事を配り続けたのだろう。
「戻った」
短く答えた。リナは鍵を握り、ようやく肩の力を抜いた。「おかえり」
伊織はすぐには返せなかった。地下で何度も、この鍵へ触れた。戻る理由として。自分を繋ぎ止めるものとして。それでも、言葉にされると、胸の奥で何かが引っかかった。
「ああ」
それだけ返した。リナはそれ以上求めず、鍋へ戻った。
アリアは向かい側へ座り、木椀を両手で包んでいる。クロは机の下へ伏せたが、食事へ鼻を近づけることもなく、床へ耳をつけていた。
「まだ聞こえるのか」
伊織が尋ねる。クロの耳が動く。床。一度。少し置いて、もう一度。地上まで届くほどではない。だが、クロには分かる。
「近づいている?」
アリアが聞く。クロは首を横へ振った。
「強くなっているだけか」
今度は一度、床を叩いた。「そうみたいですね」
ニコが記録板を机へ置いた。「地下中継施設でも、塔経路の光は消えました。ただし、残る五本のうち二本が逆流しています」
「逆流?」
ヴォルフが聞き返す。「中央施設へ戻る方向です。東さんたちが遮断した直後から始まりました」
「余った力が下へ戻った」
伊織は地図へ視線を落とした。「流れの量は」
「増加中です。一定ではありません。周期があります」
「どのくらい」
「最初は一分に一度。現在は四十秒前後です」
心臓の拍動にしては遅い。だが、加速している。
「地上への影響は」
リゼルが答える。「東区画の井戸で水位が下がった。北側の倉庫では、床板の下から白い光が見えたという報告があるわ」
「他は」
「町の外壁に刻まれていた古い模様が光り始めている」
ヴォルフが顔を上げる。「外壁が?」
「兵士を確認に行かせた。壊れてはいない。ただ、触れると熱を持っている」
「町全体が設備の一部だ」
伊織が言う。地下導線。井戸。外壁。古い保守区画。住民が町として使ってきた構造の下に、もっと古い機構が埋まっている。第一観測所だけが異物なのではない。町そのものが、古代設備の上に作られていた。
「ここを捨てるべきでは」
ニコの声は小さかった。誰もすぐには否定しなかった。合理的な判断だ。兵器製造施設。地下の未知の反応。町全体へ広がる導線。安全を優先するなら、住民を完全に退避させ、遠くから様子を見るべきだった。
「どこまで逃げればいい」
伊織が尋ねる。「西の丘を越えれば」
ヴォルフが答えかける。「根拠は」
「それは......」
「地下の設備がどこまであるか分からない。外壁の外にも導線が伸びてる」
地図には、町の外縁へ向かう四本の線がある。その先は未確認。避難先が安全とは限らない。
「それでも、ここにいるよりは」
リゼルが言う。「全員を動かす準備はする」
「避難するのね」
「異常が地上へ出たらすぐに」
「今ではなく?」
「夜に子どもと老人を動かす方が危険だ。道も見えない。敵が外にいる可能性もある」
「採石場の個体」
ヴォルフが低く言う。「あれが町へ来れば、避難列が狙われる」
「だから今夜は門を固める。戦うためじゃない。動きを見るためだ」
「明け方まで待つのか」
「地下の周期を測る。その間に避難路を二つ作る」
「二つ?」
「西門だけに集めると詰まる。南の古い荷車道も使う」
「整備されていないぞ」
「兵を回せ」
ヴォルフはうなずいた。「採石場はどうする」
「斥候だけ。近づくな」
「敵が動いたら」
「鐘を一度。町へ向かうなら三度」
「倒しには行かないのか」
「地下を見てからだ」
ヴォルフは不満そうだった。だが、今度は異論を口にしなかった。伊織たちは一度、敵へ正面から挑み、能力を見た。次に補給を切った。その結果、もっと大きな構造が動いた。順番を間違えれば、町を守るつもりで町そのものを壊す。
「下へ行く者は」
リゼルが尋ねた。「俺、アリア、クロ」
「その腕で?」
「見るだけだ」
「あなたがそう言うときは、大抵それだけでは終わらないわ」
「今回は武器を減らす」
「武器の数の問題ではありません」
アリアが冷たく言った。伊織は木匙を止める。「まだ怒ってるのか」
「何に対してだと思いますか」
「前に出たこと」
「それもあります」
「他は」
「生命反応を供給源にされたこと。説明せずに手を離さなかったこと。肩を悪化させたこと。爆薬を使いすぎたこと」
「多いな」
「まだあります」
「食べ終わってからにしてくれ」
「逃げましたね」
「スープが冷める」
アリアは不満そうに木椀へ視線を落とした。リゼルが小さく笑う。「仲がいいのね」
「違います」
アリアが即座に否定した。伊織は何も言わなかった。否定する理由も、肯定する理由も思いつかなかった。
机の下で、クロが鼻を鳴らす。「クロまで何ですか」
アリアが睨むと、黒い犬は顔を背けた。短い笑いが机の周囲へ広がった。張り詰めていた者たちの呼吸が、少しだけ戻る。
伊織はスープを口へ運んだ。温かい。食堂ではない。椅子も机も違う。それでも、同じ鍋から注がれた味だった。場所を閉めても、失われたわけではない。人がいる。火がある。飯を食べる。戻るというのは、建物へ入ることだけではないのかもしれなかった。
その考えを口にする前に、床が揺れた。器の中のスープへ波紋が広がる。一度。これまでより強い。広場の住民が一斉に黙る。数秒後、二度目。地面の下で、巨大なものが身じろぎしたような振動。
外壁の方向から、兵士の叫びが聞こえた。「光が!」
ヴォルフが立ち上がる。伊織たちも広場へ出た。
夜の町を囲む外壁。その表面に刻まれた古い線が、白く輝いている。一本。二本。次々と繋がる。外壁全体に巨大な輪が浮かび上がった。第一観測所の上にある白い輪と、同じ形。
「町も観測所だったのか」
ニコが呟く。「違う」
伊織は光の流れを見る。外壁の輪は上へ向いていない。地面へ向かって力を送っている。
「蓋だ」
アリアが息を呑む。外壁は町を守るために造られたものではない。少なくとも、最初の目的は違う。円形に配置された壁。地下へ走る導線。中央施設。すべてが、地の底にあるものを囲んでいる。封じるために。押さえつけるために。塔へ送られていた力は、元々そこから逃がすためのものだったのかもしれない。あるいは、眠り続けさせるために使われていた。
「止めたから、蓋へ力が戻った」
アリアが言う。「蓋が閉じるならいい」
「いいえ」
彼女は外壁を見たまま首を横へ振る。「流れが逆です。押さえるのではなく、内側へ注いでいます」
地面が再び震えた。今度は、町の中央。井戸の周囲。石畳へ細い亀裂が走る。白い光が滲み出した。住民が悲鳴を上げ、後ろへ下がる。
「全員、広場の西へ!」
ヴォルフが叫ぶ。「建物から離れろ! 荷物は置け!」
兵士たちが住民を誘導する。伊織は亀裂へ近づいた。クロが前へ出て、激しく吠える。
「東さん、離れてください」
アリアが外套を掴む。亀裂の奥。深い。光が脈打つたび、下から風が吹き上がる。冷たい風。だが、土の臭いはしない。金属と、古い油。そして、微かに獣のような臭いが混じっている。
「生き物?」
アリアが低く言った。「分からない」
「クロが嫌がっています」
クロの毛が逆立っている。古代兵器へ向かったときとも違う。敵を前にした警戒ではない。近づいてはいけない場所を、本能で拒んでいる。
亀裂の中から、音が響いた。金属が擦れる音。低く、長い。やがて、それは言葉に変わった。
『上層排出路、閉鎖』
町中へ響く声。第一観測所のものと似ている。だが、もっと低い。遠い地底を通して聞こえる声だった。
『余剰供給を確認』
外壁の光が強くなる。
『心臓機構、再始動』
地面が大きく持ち上がった。石畳が波打ち、井戸の縁が割れる。伊織はアリアを引き寄せ、倒れそうになった身体を支えた。右肩へ痛みが走る。構わない。
亀裂の下で、何かが動いた。巨大な歯車。暗闇の中を横切る白い光。その奥に、赤いものが一度だけ見えた。目ではない。光でもない。肉に似たものが、機械の隙間で収縮している。
「歯車の心臓」
アリアが呟いた。地面の下で、再び脈打つ。一度。町の外壁が応える。二度。第一観測所の白い輪が回り始める。三度。遠くの採石場から、獣のような金属音が響いた。補給を失ったはずの大型個体が、何かに呼ばれている。
「全部が繋がった」
伊織は言った。塔。兵器。町。地下。別々の設備ではない。一つの巨大な機構。今まで見ていたものは、外へ露出した部品に過ぎなかった。
「どうします」
アリアが尋ねる。伊織は亀裂の下を見た。逃げる準備は必要だ。住民を守ることが先だ。だが、地上だけを見ていても止められない。根は下にある。
「夜明けを待たない」
「下へ?」
「ああ」
「今の身体で」
「歩ける」
アリアは反論しかけた。伊織はその前に続ける。「ただし、一人では行かない」
アリアの口が閉じた。「お前とクロが必要だ」
それは事実だった。魔力を読む者。危険を先に知る者。そして、判断する者。三人でなければ、地の底へは降りられない。
「分かりました」
アリアは双剣の柄へ手を置いた。「今度こそ、三人で戻ります」
「ああ」
クロはまだ亀裂へ向かって唸っている。それでも、伊織が歩き出すと、横へ並んだ。
広場では避難の準備が始まっている。荷車。毛布。水。食料。誰もが恐怖を抱えながら、動いていた。
リナが食堂の鍵を握ったまま、伊織を見ている。「また行くの」
「ああ」
「鍵は」
伊織は一瞬考えた。今度は預からなかった。「持っててくれ」
「どうして」
「帰る場所が動かないように」
リナは鍵を強く握った。「分かった」
伊織は亀裂へ向き直る。地の底から吹き上がる風が、外套を揺らした。暗闇の向こうで、歯車が回り続けている。その中心にあるものが兵器なのか、生物なのか、あるいはその両方なのか。まだ分からない。だが、脈動は速くなっている。四十秒。三十秒。次は、もっと短い。夜明けまで眠っていてはくれない。
「降りるぞ」
伊織は言った。アリアが隣に立つ。クロが先を見た。三人の前で、白く光る亀裂が地の底まで続いていた。




