第110話 集まる場所
白い光は、逃げるように壁の中を走っていた。止めた補給路から離れ、別の導線へ入り込み、さらに細い枝へ分かれていく。光そのものに意思があるわけではない。それでも、追われていることを知っている生き物の動きに見えた。
伊織は足を止めず、左手の測定具を壁へ当てた。反応。弱い。三歩進む。強くなる。
「右だ」
通路の分岐を曲がる。クロが先へ出る。鼻先は床ではなく、壁の継ぎ目へ向いている。導線の明滅より一瞬早く進路を変え、そのたびに伊織たちは迷路のような地下道を抜けていった。
アリアは後方を警戒しながら、風で小型個体の残骸を運んでいる。「まだ追手はいません」
「復旧を優先してる」
「それとも、別の場所で待っているか」
「そっちの方がありそうだ」
白い光は一本の太い流れにならなかった。むしろ逆だった。分岐するたびに細くなる。六本の導線から一本へ集まるはずの補給路が、今は網のように町の下へ広がっている。
「迂回というより、分散しています」
アリアが言う。「ああ」
「塔へ送るなら、どこかでまた集める必要があります」
「その場所を探してる」
伊織は測定具の表示を見る。右。前方。下。反応が重なっている。
通路は緩やかな下り坂へ変わった。壁の石積みも古くなる。人が通るための地下道ではない。設備を埋めたあと、保守のために最低限の幅だけ残した空間だ。天井が低い。伊織は身を屈めた。右腕が胸へ固定されているせいで、身体の均衡が悪い。足元の段差に靴を取られ、壁へ肩をぶつけそうになる。
アリアが背中を支えた。「大丈夫ですか」
「歩ける」
「その返事は聞き飽きました」
「なら、別のを考える」
「素直に支えられてください」
「そうする」
アリアの手が一瞬止まった。「今日は聞き分けがいいのですね」
「落ちるよりましだ」
「理由は何でも構いません」
風に浮かせていた残骸が、狭い天井へ触れる。金属音。クロがすぐに振り返った。
「置いていくか」
「持ち帰ると言ったのはあなたです」
「今は状況が変わった」
「では、必要な部分だけ抜きます」
アリアは残骸を床へ下ろした。腹部の裂け目へ双剣の先を差し込み、内部に埋め込まれた白い欠片を外す。周囲の赤い導線も一部切り取り、布へ包んだ。
「これで十分でしょう」
「装甲も欲しい」
「戻るときです」
「戻れればな」
アリアは伊織を見た。「戻ります」
言い切った。不安を否定するためではない。決めた者の声だった。
「食堂の鍵を持っているのでしょう」
「ああ」
「なら、返しに行かなければなりません」
「なくしたら怒られる」
「その程度で済めばいいですね」
伊織は外套の内側へ左手を当てた。鍵。白い石。二つは同じ場所にある。一つは帰るためのもの。一つは、敵の構造へ入るためのもの。どちらも、今は伊織の身体に近い場所で小さく揺れていた。
さらに下る。遠くの打撃音は聞こえなくなった。代わりに、低い振動が続いている。一定ではない。波のように強弱を繰り返す。
「何かが呼吸しているみたいです」
アリアが言う。「機械の音だ」
「分かっています」
「なら、似てるだけだ」
「似ているから、不気味なのです」
クロが急に止まった。前脚を踏ん張る。低く唸る。
「敵か」
耳は前を向いている。だが、匂いを追っている様子ではない。床。伊織は測定具を下へ向けた。表示が振り切れる。
「真下だ」
「導線が?」
「それだけじゃない」
伊織は床へ膝をついた。石の継ぎ目に指を入れる。微かな空気の流れ。下に空間がある。
「開けられますか」
「蓋になってる」
石板の四隅。他より新しい。表面には泥が塗られているが、下には金属の縁が隠れている。伊織は左手で泥を払い、細い溝を見つけた。白い石に刻まれていたものと同じ印。六つの線。三つの輪。中央の一点。
「ここも認証式です」
「たぶんな」
「先ほどと同じことになるのでは」
「触らない」
伊織は黒い粒子を集めた。小型の内視鏡。細いケーブルの先に光学装置がついた、装備点検用の道具だった。石板の隙間へ差し込む。暗い。少し進める。広い空間。下まで、およそ八メートル。床には白い光が走っている。一筋ではない。何十本。網目状に広がり、中央の巨大な柱へ集まっていた。
「見せてください」
伊織は視界接続をアリアへ共有できない。代わりに、装置の小型画面を向ける。アリアの表情が硬くなる。「中継施設より大きい」
「こっちが本体だ」
地下中継施設と呼んでいた場所は、分配点に過ぎなかった。この空間には、町の下へ伸びるすべての導線が集まっている。塔。町の中心。外縁。井戸。古い外壁。そして、さらに下へ続く一本。
「下にも流れています」
アリアが画面を指す。中央柱の根元。白い光の一部が、床の亀裂へ吸い込まれている。
「供給源はもっと下か」
「あるいは、ここから別の場所へ送っている」
伊織は内視鏡を少し動かした。柱の周囲。何かがいる。小型個体。十体以上。動かない。柱へ脚を接続し、身体を伏せている。
「充電中か」
「待機中にも見えます」
「どちらでも同じだ」
内視鏡の映像をさらに送る。壁際。灰白色の大型装甲。脚。腕。まだ組み上がっていない複数の部品が、棚のような構造へ並べられている。工場ではない。兵器を造る前の部品置き場。ここで補給を集め、必要な場所へ送り、損傷した個体へ交換部品を供給している。
「これを壊せば」
アリアが小さく言った。「塔だけじゃない。町の下全部が止まる」
「止めるべきでは?」
「何が繋がってるか分からない」
伊織は町の中心へ伸びる導線を思い出した。井戸。地下水。防壁。古い照明設備。現在の住民が知らずに使っている何かが、この構造へ依存している可能性がある。
「壊したら町まで死ぬ」
「では、塔への流れだけを切る」
「ここならできる」
各導線が一度集まり、再分配される。外で一本ずつ追う必要はない。中央柱の出口側で、塔へ向かう経路だけを止めればいい。
「入りますか」
「入る」
「敵がいます」
「見えてる」
「十体以上です」
「止まってる」
「起きます」
「その前に見る」
アリアは息を吐いた。「止めても無駄だとは分かっています」
「助かる」
「ただし、条件があります」
「言ってみろ」
「私が先に降ります」
「却下だ」
「早いですね」
「敵の配置が分からない」
「だからです。風で着地位置を変えられます」
「俺が上から見て指示する」
「右腕が使えず、魔力も消耗しています」
「左は動く」
「銃を撃てるという意味ではありません」
アリアは伊織の正面へ回った。「あなたは観測してください」
「お前一人で十体を相手にする気か」
「起こさなければいい」
「起きたら」
「そのときは、あなたが逃げ道を作ってください」
「逆だろ」
「何がです」
「俺が先に行く。お前が退路を作る」
「なぜですか」
「俺の方が敵に狙われる」
白い石を持っている。古代設備へ一時権限を認められた。小型個体はそれを回収対象と呼んだ。敵の注意を引くなら、伊織の方が確実だった。
「だから、危険だと言っています」
「危険だから使う」
「自分を道具のように扱わないでください」
声が低くなった。狭い通路に、アリアの言葉だけが残る。
「戦術と自己犠牲は違います」
「分かってる」
「分かっていません」
「今回は戻るためにやる」
「同じです」
「違う」
伊織は左手で外套の内側を押さえた。「鍵を返す」
アリアは黙った。しばらく、伊織の顔を見ていた。「......必ずです」
「ああ」
「私が先です」
「話を聞いてたか」
「聞いたうえで譲りません」
そのとき、クロが二人の間へ入った。石板を前脚で叩く。一度。伊織を見る。もう一度叩く。アリアを見る。
「クロが先に行くと言っています」
「そう見えるか」
「ええ」
クロは鼻を鳴らし、石板の縁へ爪を掛けた。自分が決めたと言わんばかりだった。
「三人で降りるか」
「最初からそうしてください」
石板を持ち上げる。音を立てないよう、アリアが風で重さを支える。下から冷たい空気が上がってきた。金属。灰。微かな油の臭い。
伊織は携行していた細いロープを固定した。アリアが風を足元へ集める。クロは先に穴へ入った。落ちるのではない。壁の出っ張りへ足を掛け、音もなく下りていく。アリアが続く。最後に伊織。右腕を使えないため、左手と足だけで身体を支える。アリアの風が下から押し、体重を軽くした。
床まで残り一メートル。伊織は手を離した。着地。膝を曲げ、衝撃を逃がす。音は小さい。小型個体は動かない。赤い光も消えたままだ。
三人は中央柱から離れた壁際へ身を寄せた。近くで見ると、空間はさらに広かった。天井まで十メートル以上。中央柱は太く、何本もの輪が重なっている。白い光が表面を上下し、導線ごとに異なる速度で流れていた。
アリアが目を閉じる。「町へ向かう流れは弱いです」
「塔は」
「最も強い。ただし、今は分散中です」
「出口を探す」
伊織は測定具を柱へ向けた。近すぎて、すべてが強く反応する。
「クロ」
黒い犬は床を嗅ぎ、柱の周囲をゆっくり回った。途中で止まる。一本の導線。他より明滅が速い。その先は壁を抜け、塔の方向へ伸びている。
「これだ」
伊織は柱の根元を見る。導線の出口に、三つの小さな円筒が並んでいる。先ほど止めたものより小さい。弁。ただし、中央のものだけ表面が新しい。交換されている。
「対策されたか」
「何に対する?」
「ヴェルナーの爆破だ」
古い焦げ跡が周囲に残っている。だが、円筒そのものは新しい。ヴェルナーは過去にここまで来た。塔への流れを止めようとした。そして、失敗した。
伊織は白い石を取り出した。表面の印が、中央の円筒と同じだった。
「これが鍵ですか」
「たぶん」
「入れますか」
「まだだ」
伊織は周囲を見る。小型個体。停止中。柱へ接続。白い石を使えば、設備が反応する。敵も起きる。
「先に退路を作る」
アリアが言った。「どこへ」
「上だけでは危険です。風で一人ずつ上げるには時間が掛かります」
彼女は壁へ手を向けた。空気の流れを読む。「西側に細い隙間があります」
「通路か」
「自然の亀裂です。広げれば、クロと私たちは通れます」
「柱を止めたあとに崩れる可能性は」
「あります」
「先に開ける」
二人は壁際へ移動した。アリアが風を細く絞り、亀裂の砂を削る。伊織は左手で崩れた石を除く。クロは小型個体を見張る。
穴は徐々に広がった。人一人が這って通れる。出口の先は、別の古い排水路へ繋がっている。
「これで戻れます」
「まだだ」
「何が足りません」
「追ってこられる」
伊織は穴の縁へ指向性爆薬を一つ設置した。「最後に塞ぐ」
「あなたは爆薬を便利な道具だと思いすぎです」
「便利だから使ってる」
「次から所持数を確認します」
「具現するから意味がない」
「では、魔力残量を管理します」
「厳しくなったな」
「必要です」
退路。確保。次は弁。伊織たちは柱へ戻った。白い石を円筒の前へ近づける。表面に文字が浮かぶ。
『回収対象を確認』
設備の表示ではない。背後から響いた。伊織は振り返る。小型個体の赤い光が、一斉に灯った。十。十二。十五。壁際。柱の陰。棚の上。すべてがこちらを向いている。
「起きました」
「見れば分かる」
『代替権限保持者を確認』
小型個体が柱から脚を外す。一体。二体。床へ降りる。金属音が、広い空間に重なった。
「アリア」
「分かっています」
風が伊織たちの周囲へ集まる。攻撃ではない。砂と灰を巻き上げ、視界を切る。だが、小型個体の赤い光は揺らがない。
「目で見てない」
「魔力を追っています」
「なら、消せるか」
「一瞬なら」
アリアが伊織の背中へ手を当てた。「あなたの具現を止めてください」
「武器なしで戦うのか」
「魔力の輪郭を薄くします」
伊織は測定具を消した。黒い粒子が散る。それでも敵の赤い光は伊織を追う。
「石だ」
白い石そのものが標識になっている。「なら、使う」
伊織は円筒の中央へ石を押し込んだ。ぴたりと嵌まる。
『権限照合』
白い光が柱全体へ走る。小型個体が一斉に動いた。
「クロ、右!」
黒い影が走る。先頭の一体へ向かうのではない。脚の間を抜け、柱の裏へ回り込む。敵の一部がクロを追う。
伊織はそれを見て、円筒の下段を回した。動かない。「アリア、風」
「どちらへ」
「右回り」
風が円筒へ巻きつく。二人の力で回す。一段。低い音。塔へ向かう導線の光がわずかに弱まった。
「もう一段!」
小型個体が迫る。残り十メートル。アリアは右手で風を維持し、左手で剣を抜いた。「私が止めます」
「三秒くれ」
「五秒です」
先頭が飛ぶ。アリアの剣が下から走り、前脚を弾く。二体目。風を横から叩きつけ、柱へぶつける。三体目は天井を走る。クロが吠える。
「上!」
伊織が叫ぶ。アリアは見ずに身体を沈めた。爪が頭上を通る。振り返りざまに剣を突き上げる。腹部へ入る。赤い光が揺れる。
「まだですか!」
「あと一つ!」
円筒の中段。三つの輪。どれを回す。表示はない。古い焦げ跡。ヴェルナーが爆破した位置。中央ではない。左。
「左だ」
伊織は左側の輪へ手を掛ける。熱い。皮膚が焼ける。それでも離さない。アリアが風を送る。輪が回る。
『塔経路の遮断を確認』
白い光が消えた。完全に。同時に、小型個体の動きが鈍る。飛びかかっていた一体が空中で姿勢を崩し、床へ落ちた。アリアの剣が首の継ぎ目へ入る。切断。
「止まりました!」
「全部じゃない!」
小型個体の赤い光は残っている。内部動力。補給がなくても戦える。だが、装甲の反応は遅い。修復もない。
「穴へ!」
伊織は白い石を引き抜こうとした。抜けない。
『遮断維持のため権限媒体を固定』
「またか」
小型個体が迫る。残り八体。クロが一体の脚へ噛みつき、進路を逸らす。アリアが二体を風で壁へ叩きつける。長くは持たない。
「石を置いていく」
「でも、回収されたら」
「円筒の中だ。簡単には外せない」
「あなたの権限は」
「いらない」
伊織は外套の内側へ手を入れた。食堂の鍵へ触れる。こちらは残っている。
「目的は終わった」
伊織は穴へ向かった。「クロ!」
黒い犬が敵から離れ、先に亀裂へ飛び込む。アリアは後退しながら風を放つ。砂塵。破片。小型個体の脚を止める。
「先に行け」
「今度は聞きません」
「穴が狭い」
「あなたからです」
「アリア」
「早く!」
敵の爪が風を裂く。伊織は亀裂へ身体を入れた。左手と足で這う。右肩が壁へ擦れる。痛みで視界が滲む。それでも進む。後ろで金属音。剣。風。アリアが一人で止めている。
穴を抜けた。伊織はすぐに振り返った。「来い!」
アリアが後ろ向きに亀裂へ入る。小型個体の爪が足首へ伸びる。クロが穴の向こうから吠える。伊織は左手を伸ばし、アリアの腕を掴んだ。引く。右肩は使えない。片腕だけでは足りない。クロがアリアの外套を咥える。二人と一匹で引く。爪が靴底を掠めた。アリアの身体が亀裂を抜ける。
「伏せろ!」
伊織は爆薬を作動させた。爆発。亀裂の縁が内側へ崩れる。石と土が穴を塞ぐ。小型個体の爪が一瞬だけ見え、そのまま埋もれた。
静寂。全員が息をしている。アリアは仰向けに倒れたまま、天井を見ていた。
「......戻れましたね」
「まだ途中だ」
「今は、それでいいです」
伊織は左手を胸へ当てた。食堂の鍵がある。白い石は残してきた。代替権限も、柱の中へ置いてきた。だが、塔へ向かう導線は止まった。完全に。遠くから響いていた打撃音も、もう聞こえない。第一観測所は、兵器を造れない。採石場の大型個体も、外部供給を受けられない。
「成功ですか」
アリアが尋ねる。「ああ」
「珍しく、はっきり言いますね」
「止まったからな」
クロが低く唸った。喜びではない。警戒。伊織も気づく。足元。さらに下。中央施設の床下から、別の振動が伝わっている。塔への流れを切ったことで、余った力が下へ向かっている。弱い。だが、確実に増えている。
「まだ、何かあります」
アリアが起き上がる。「供給源だ」
「下にあるものが、力を受け取っている?」
「違う」
伊織は耳を澄ませた。振動には間隔がある。打撃音ではない。心臓に似た脈動。一度。沈黙。もう一度。
「起きようとしてる」
塔を止めた。その代わりに、もっと深い場所へ力が集まり始めた。古代兵器でもない。観測所でもない。この町が造られるより前から、地の底に置かれていた何か。
伊織は暗い通路の先を見た。「戻って、全部伝える」
「そのあとで?」
「下へ行く」
アリアは反対しなかった。クロも、先へ進むために立ち上がった。食堂の鍵が、伊織の胸元で小さく鳴る。戻る場所は残っている。なら、その下に眠るものが何であっても、確かめなければならなかった。




