第109話 狭い場所の戦い
最初に壁を抜いたのは、爪だった。細い金属の指先が石の隙間へ差し込まれ、内側からゆっくりと広げていく。砕けた石が床へ落ち、その向こうで赤い光が揺れた。一つではない。重なっている。小型個体は、順番に入ってくるつもりがなかった。
「穴から離れろ」
伊織は左手でアリアの肩を押した。「あなたもです」
「後ろへ行け」
「嫌です」
「今は揉めるな」
「なら、無茶をしないでください」
「善処する」
「それは信用できない言葉です」
クロが低く唸る。石壁の向こうで、金属音が一斉に止まった。次の瞬間、爪が左右へ開いた。壁が崩れる。灰色の粉塵の中から、四つ脚の小型個体が飛び込んできた。
人間の腰ほどの高さ。蜘蛛に似ているが、胴体は細長く、前方に二本の腕がある。先端は刃ではない。三本に分かれた鉤爪で、壁や天井を掴む構造になっていた。頭部にあたる場所には、赤い光が一つ。伊織へ向いた。
『異物を確認』
「来るぞ」
小型個体が床を蹴った。速い。直線ではない。左壁を走り、天井へ移り、真上から落ちてくる。
アリアの剣が閃いた。右の刃が前脚を弾き、左の刃が胴体の継ぎ目を狙う。金属音。刃は浅く食い込んだが、切断には届かない。小型個体はそのまま身体を捻り、鉤爪をアリアの首へ振るった。風が爆ぜる。軌道が数センチ外れた。爪が髪を掠め、背後の壁へ突き刺さる。
「硬いです」
「大型と同じ装甲か」
「薄いですが、動きます」
小型個体の胴体を覆う板がずれ、アリアの剣が入った隙間を塞いだ。学習ではない。最初から、そのために作られている。
伊織は右腕を胸へ固定したまま、左手を開いた。黒い粒子。短い銃身。折り畳まれた銃床。小型短機関銃が左手へ収まる。
「撃てるのですか」
「左なら」
「片手で?」
「近い」
小型個体が壁から爪を引き抜いた。伊織は銃口を向ける。胴体ではない。床。敵の前脚が着く場所。三発。乾いた音が狭い空間へ跳ね返る。弾丸が床を叩き、石片を撒き散らした。
小型個体が跳躍する。「クロ!」
待っていた黒い影が横から飛び込んだ。首に噛みつくのではない。空中で後脚へ体当たりし、身体の向きを変える。敵は横倒しになる。
「アリア、下」
アリアが踏み込む。双剣を交差させ、胴体の下側へ叩き込んだ。装甲板の少ない腹部。刃が内部へ入る。赤い光が揺れた。だが、止まらない。小型個体は脚を広げ、床を転がりながらアリアへ爪を振るう。
伊織がさらに撃つ。狙ったのは、アリアの剣が開いた隙間。一発目は装甲へ。二発目は火花。三発目が内部へ入った。赤い光が消える。小型個体が床へ落ちた。
「一体」
アリアが息を吐く。「まだ来る」
崩れた壁の向こうで、赤い光が増えた。三つ。五つ。七つ。数える意味がなくなる。狭い通路なら、一度に入れる数は限られる。だが、敵は壁も天井も使う。正面だけを守ればいい相手ではない。
「ここでは持ちません」
アリアが言った。「分かってる」
「保守区画を出ます」
「どっちへ」
「中継施設へ戻るしかありません」
「途中で追いつかれる」
「では、ここで?」
伊織は円筒を見る。補給路を止めた設備。白い石を抜き取ったあと、内部では空回りする音が続いている。敵がここへ来た目的は、伊織たちではない。設備の復旧。抜き取った石の回収。伊織は左手にある白い石を見た。敵の赤い光が、それへ向いている。
「こいつを狙ってる」
「石を?」
「ああ」
「なら、捨てれば」
「戻される」
「持ったまま逃げるのですか」
「違う」
伊織は保守区画の入口を見る。崩した石壁。人一人が通れる程度の穴。その外に細い通路。さらに先で、道は左右へ分かれている。
「ここで止める」
「今、持たないと言ったばかりです」
「この部屋ではな」
伊織は床へしゃがみ込み、白い石を外套の内側へ入れた。食堂の鍵と同じ場所。金属同士が触れ、小さな音を立てる。
「クロ、先へ」
クロが穴を抜ける。アリアも続く。伊織は最後に保守区画を出た。背後で、二体目が壁を抜いてくる。振り返らない。細い通路を走る。右腕は動かない。左手には短機関銃。足元へ伝わる振動で、敵の数が分かる。多い。しかも、こちらより速い。
「右です」
アリアが分岐を指す。「左だ」
「左は行き止まりです」
「だからだ」
伊織は左の通路へ入った。十数メートル先で、壁に突き当たる。逃げ場はない。アリアの表情が険しくなる。
「説明してください」
「狭める」
「もう十分狭いです」
「もっとだ」
伊織は左手を壁へ当てた。黒い粒子が集まる。金属の筒。小型の指向性爆薬。VRで扉や薄い障害物を破壊するために使った装備だった。壁を壊すためではない。通路の両側へ、向かい合わせに貼りつける。
「爆破するのですか」
「通ったあとでな」
「何を通すのです」
「全部」
伊織はさらに二つ具現した。魔力が削られる。頭の奥が重くなる。アリアがすぐに伊織の背中へ手を当てた。
「必要ですか」
「あるだけ」
「倒れないでください」
「努力する」
「善処よりはましです」
クロが分岐の方を見て吠えた。来る。
「配置できた」
伊織は通路の奥へ下がる。行き止まりまで残り三メートル。アリアとクロを背後へ。
「敵が入ったら、風を正面へ」
「押し返すのですか」
「逆だ」
「引き込む?」
「そうだ」
分岐に赤い光が現れた。最初の一体。壁を走る。二体目は天井。三体目は床。並ばない。重なって進む。
「まだ」
敵が近づく。十五メートル。十。八。先頭の個体が腕を上げる。
「今だ」
アリアが両手を広げた。風が背後から吹く。敵へ向かう風ではない。通路の奥へ吸い込む流れ。小型個体の速度が上がる。予想外の加速に、先頭が姿勢を崩した。後続が追突する。三体。五体。狭い通路の中で、金属の脚が絡む。
「もっと」
アリアが風を強める。敵は自分の力だけでなく、風に引かれて殺到する。後方の個体も止まれない。前へ詰まる。壁。天井。床。すべてが灰白色の装甲で埋まった。
「伏せろ」
伊織は左手を握った。爆破。左右の壁に仕掛けた指向性爆薬が、同時に作動した。衝撃は通路の中央へ集中する。音が消えたように感じた。一瞬遅れて、凄まじい轟音が地下を揺らす。
小型個体の装甲が内側へ叩き込まれた。完全には壊れない。だが、狭い場所で互いに重なっていたため、逃げる空間がない。装甲板が隣の個体へ食い込み、脚が折れ、天井から落ちた個体が床の敵を押し潰す。
「下がれ!」
爆風が来る。アリアが風の壁を作る。正面から受け止めない。上へ逃がす。衝撃が天井を走り、石と砂が降り注ぐ。
伊織はアリアを庇うように前へ出た。右肩へ破片が当たる。痛み。それでも立つ。
煙の中で、赤い光が一つ残っていた。壊れた個体の隙間から、先頭の一体が這い出してくる。前脚の一本を失い、胴体の装甲が半分剥がれている。それでも進む。
『回収対象を確認』
赤い光が伊織の胸へ向く。白い石の位置を見ている。
「しつこいな」
伊織は短機関銃を上げた。左手だけでは照準が揺れる。敵まで五メートル。近い。十分だ。引き金を引く。連射。装甲の剥がれた胸部へ弾丸を叩き込む。火花が飛ぶ。
小型個体が跳ぶ。残った脚で床を蹴り、伊織の顔へ爪を伸ばす。クロが割り込んだ。黒い身体が敵の横腹へぶつかる。軌道がずれる。爪が伊織の頬を掠めた。血が飛ぶ。
アリアが前へ出る。双剣ではない。右手を敵の腹へ当てた。「離れてください」
風が一点に集まる。外から押すのではなく、伊織の銃弾が開けた穴へ流れ込む。内部で膨張。装甲の内側から、乾いた破裂音がした。小型個体の胴体が割れる。赤い光が床へ落ちた。今度こそ、消えた。
通路に残ったのは、煙と金属の臭いだけだった。アリアは呼吸を整えながら、壊れた個体を見下ろした。
「倒せました」
「狭い場所ならな」
「補給を切ったからでは?」
「それもある」
伊織は敵の残骸へ近づいた。大型個体と違い、傷口は塞がらない。外部供給もない。修復能力は、補給路に依存していた。
「やはり、線を切れば弱くなる」
「全部が止まるわけではありません」
「動力は残ってる」
「ええ。ですが、装甲の動きも遅かった」
アリアの言うとおりだった。最初の一体との戦いでは、剣が入った隙間を塞ぐまで、わずかに間があった。採石場の大型個体より明らかに遅い。補給路は回復だけではない。反応速度。装甲制御。火力。すべてを底上げしている。
伊織は壊れた個体の内部を覗いた。赤い導線。小さな円柱。歯車のような部品。その中央に、白い石と同じ材質の欠片が埋め込まれている。
「持ち帰る」
「どれをですか」
「全部」
「右腕が使えない人の言葉ではありません」
「お前がいる」
「最初から私に持たせるつもりでしたね」
「頼りにしてる」
アリアは何か言い返そうとした。だが、伊織の頬から流れる血に気づき、言葉を止めた。
「座ってください」
「時間がない」
「一分です」
「追手が」
クロが鼻を鳴らした。耳は分岐の方を向いている。新しい音はしない。
「クロも来ていないと言っています」
「そう聞こえたか」
「私には分かります」
アリアは伊織を壁際へ座らせ、頬の傷へ指を近づけた。治療の光。温かい。
「浅いです」
「なら行ける」
「肩の方は悪化しています」
「見なくても分かる」
「分かっていて使うのですね」
「左しか使ってない」
「庇ったときに右肩へ石が当たりました」
「見てたのか」
「目の前でした」
アリアの声音は平静だった。だが、治療の光が少し強い。
「次はしないでください」
「何を」
「私の前に出ることです」
「敵の前に出ろと?」
「そうではありません」
「難しいな」
「難しくありません」
アリアは治療を止め、紫の瞳で伊織を見る。「私も、あなたを守れます」
伊織は返事をしなかった。言葉を探したからではない。正しいと思ったからだ。アリアはもう、後ろで守られるだけの存在ではない。剣を持って前へ出るだけでもない。風で道を作り、攻撃を組み立て、伊織が動けない部分を補っている。
「分かった」
それだけ答えた。「本当に?」
「ああ」
「次も同じことをしたら」
「そのとき考える」
「分かっていません」
アリアは立ち上がった。それでも、伊織へ差し出した手は引かなかった。伊織は左手で掴み、立ち上がる。右腕は動かない。魔力も減っている。だが、敵の残骸と白い石は手に入れた。補給路を断てば、古代兵器は弱くなる。狭い場所へ誘い込めば、数の利点も消せる。そして、敵は壊せる。
「戻るぞ」
伊織は短機関銃を消した。黒い粒子が散る。その瞬間、保守区画の方角から低い振動が伝わった。一度。二度。止めたはずの円筒が、再び動き始めている。
アリアが振り返る。「流れが戻っています」
「どのくらい」
「まだ弱い。けれど、増えています」
「自動復旧か」
「違います」
アリアは目を閉じ、地下の魔力を読む。表情が変わった。「別の場所から迂回しています」
六本の導線。一つを止めても、残りがある。町の中心。地下中継施設。外縁へ伸びる四本。構造全体が、切れた補給路を補おうとしている。
伊織は舌打ちをしなかった。予想していなかったわけではない。ただ、思っていたより早い。
「何分持った」
「おそらく十分ほどです」
「十分あれば、大型一体を倒せるか」
「今の作戦なら、可能性はあります」
「次は十分で終わらせる」
伊織は歩き出した。クロが先へ出る。アリアは小型個体の残骸を風で持ち上げ、後ろから続く。
「全部の補給路を切るのですか」
「切らない」
「では」
「迂回するなら、流れる場所は決まってる」
分岐へ戻る。壁を走る白い光は、弱いながらも再び明滅を始めていた。一本を止めれば、別の線へ流れる。それなら、敵が選ぶ経路を読める。防御。攻撃。修復。古代兵器だけではない。観測所そのものも、何かを失えば別の選択をする。
「追うぞ」
伊織は光の流れる方向を見た。「次に力が集まる場所を」




