獣の都の温もりと闇
ボヘカの夜は、獣人たちの宴と、人間たちの断末魔で満ちている。
歓楽街の裏路地。
人族エドは血を流し、泥の中に這いつくばっていた。
彼が犯した罪は、些細なことだった。
獣人たちの広場を掃除する際に
誤って通りかかったハイエナ獣人の足に泥を跳ねさせたのだ。
それだけで、彼は『牙の結社』の連中に引きずり込まれ
娯楽としての暴力を受けていた。
「おいおい、人間。人間の分際で、俺の毛並みを汚した報いだ」
ハイエナ獣人が棍棒を振り上げる。
エドはただ、頭を抱えて震えるしかなかった。
家族で経営する宿屋『夜明けを待つ鶏亭』で
老いた両親と妹が自分を待っている。
それだけが、今の彼の唯一の希望だった。
その棍棒が振り下ろされる直前、不自然なほど静かに
その手が止まった。
「……随分と威勢がいいな。
俺の夕飯の時間を邪魔されたんだ。少しは静かにしろ」
振り返った先には、冒険者の少年――ラックが立っていた。
彼はハイエナの手首を片手で掴み、淡々と告げる。
その瞳には、獣人たちが最も恐れる「捕食者の冷徹さ」が宿っていた。
牙の結社の面々は殺気だった。しかし、本能が死の予感で満ちる。
ハイエナの獣人は顔を引きつらせながら
「ははは。冒険者風情のガキが・・・
おっとそろそろ約束の時間か。フン。今日の所は勘弁してやる。
ガキンチョは、おうちに帰んな。へへん。」
「興覚めだな。いこうぜ。」
「あの店だったっけ。豚マダムのなんつったっけ?」
牙の結社の連中は肩で風を切りながら場を去っていった。
舐められたら終わりの世界で生きる連中の精一杯の強がりに
ラックは右手で頭をかいて苦笑いする。
恐怖で震えるエドを支え
ラックは彼の家である『夜明けを待つ鶏亭』へと足を向ける。
宿に辿り着くと、そこには老夫婦と
店を取り仕切る娘・ルナがいた。
エドの無事を確認した一家は、ラックに精一杯の感謝を伝える。
ルナが差し出した野菜スープは、飾り気のない味だったが
心に沁みる温かさがあった。
食後の会話で、この国の闇が明らかになる。
「この街の『牙の結社』って裏組織は
獣人社会の上層部と繋がっているのです。」
ルナが語ったのは、単なるチンピラの悪事ではない。
結社は支配層の「汚れ仕事」を請け負う代わりに
人間から富と尊厳を吸い上げる「公認の搾取機関」だった。
一家は、ルナが連れ去られる恐怖と
毎月、要求される上納金に怯えながら
それでも夜明けを信じて営業を続けていたのだ。
「支配層が汚れ仕事を外注するというのは
古今東西、変わらぬ手口だね。」
ラックの呟きに、ルナは驚いたように顔を上げた。
「お兄さん……どうしてそんなに落ち着いているんですか?
ここは、人間が人間として
生きることさえ許されない場所なのに」
「俺には、そうは見えないけれどね」
その時、宿屋の扉を叩く荒々しい音が響いた。
先ほどのハイエナ獣人の仲間たちが
エドを奪われた「貸し」を回収しに現れたのだ。
「おい、鶏亭の人間ども! さっきの分を払ってもらうぞ!」
ルナが蒼白になり、エドが怯える。
ラックは静かに立ち上がり、扉の方へと歩を進めた。
今夜、この『夜明けを待つ鶏亭』で交わされた温かなスープの味を
汚そうとするならば
その組織を根底から潰す準備はもう整っている。
ラックは色々、今は後ろめたい状況の中
小さな人助けをして自己肯定感を高めたい気分だった。




