開かない倉庫の前で
港へ着くと、共同倉庫の前には人だかりができていた。鉄の扉には新しい錠が二つ掛けられ、ヴェスタ商会の私兵が槍を交差させている。沖には黄色い検疫旗を掲げた船が一隻、停泊していた。甲板に並ぶ人影が、こちらからでも分かる。
ミラは走りながら事情を説明した。
「朝、倉庫の管理人が交代だって通達が来たの。男爵の印章があって、商会の人が鍵を持ってきた。私たちは断ったけど、商会の私兵に追い出された」
「三人の管理人は?」
「一人は病気で休んでる。残り二人は市庁舎に呼ばれたまま戻らない」
エリナは倉庫の前で足を止めた。扉の右側には、母が取り付けた小さな真鍮の札が残っている。『疫病時、薬品は市民の命に優先する』。古い規約の一節だった。母は鐘楼の管理人になる前、港の薬品倉庫の責任者だった。エリナが薬の扱いを覚えたのも、ここだ。
「扉を開けてください」
私兵の一人が鼻で笑った。
「商会主の許可がないと開けられない」
「患者を乗せた船が来ているの。解熱剤と消毒液が必要よ」
「それは商会主に言え。俺たちは命令を守ってるだけだ」
エリナは扉に手を置いた。中には、薬品が棚ごとに整理されているはずだ。船から患者を降ろすには検疫所の準備が必要で、そのための物資がここにある。
セドリックが私兵に身分証を示した。
「僕は港湾検疫の責任者だ。公衆衛生の緊急権限で開錠を命じる」
「その権限は倉庫の管理権には及ばないと聞いてる」
私兵は商会の通達を見せた。そこには確かに、倉庫の使用には新管理者の承諾が必要と書かれている。エリナは通達の末尾を読んだ。『通常時の保管・搬出に適用』。その一文を見て、記憶が動いた。
「通常時だけなのね」
「何だって?」
「この通達は、通常時の搬出についてしか書いていない。検疫旗を掲げた船が入った場合は、別の規約が優先される」
私兵は眉を寄せた。
「俺に法律の話をするな」
「法律じゃない。共同倉庫の設立規約よ」
エリナは真鍮の札を指した。母は設立規約を覚えるよう、何度も言っていた。『病人が来たとき、鍵の持ち主を探していては間に合わない。誰が扉を開けられるか、必ず先に決めておくの』。
規約では、検疫旗を掲げた船が入港したとき、倉庫の管理人が不在なら、登録された薬品取扱責任者二人の共同判断で緊急開錠できる。エリナはその資格を持っていた。もう一人は、港で長く働く老薬師のトマスだ。
「ミラ、トマス先生を呼んで」
「今朝から検疫所にいるはず!」
ミラが走り出した。セドリックはエリナの顔を見た。
「君が資格を持っていることを、僕は知らなかった」
「あなたに言う機会がなかった。薬品の配達だけしていると思っていたでしょう?」
「いや。君が帳簿を確認して、期限切れの薬を見つけたのを覚えている。ただ、資格まで持っていたとは」
彼は少し悔しそうに笑った。
「僕は君のことを知っているつもりで、知らないことがまだ多いな」
「私もよ。あなたが伯爵家の融資を受けていたこと、今日初めて聞いた」
「心配を掛けたくなかった」
「それは私も同じ。父の借金のことを、話せなかった」
二人は向き合った。港の騒音の中で、セドリックの声だけが近くに聞こえた。
「結婚したら、都合の悪いことも話そう。君を守りたいから隠すのではなく、君と考えたい」
「私もそうする。あなたが一人で背負おうとしたら、怒るわ」
「港で初めて会ったときみたいに?」
「もっと怒るかもしれない」
彼はエリナの額にそっと口づけた。
「それなら、結婚するのがますます楽しみだ」
その温かさに浸っていたかったが、倉庫の向こうで悲鳴が上がった。私兵の一人が、扉の前に集まった労働者を槍の柄で押し返したのだ。年若い荷運び人が石畳に倒れ、膝を押さえている。
「近づくなと言っただろう!」
エリナは駆け寄り、荷運び人を起こした。膝から血が出ている。消毒液は倉庫の中だ。
「怪我をした人がいるのよ。あなたたちの目の前で!」
「命令だ」
「誰の命令なら、人を傷つけてもいいの」
私兵は答えず、槍を構えた。セドリックが間に入る。
「槍を下ろせ。僕は検疫官として、この怪我を記録する」
「伯爵様でも、商会主には逆らえないぞ」
「僕が誰に逆らえるか、君が決めることじゃない」
私兵が一瞬ためらったとき、背後から拍手が聞こえた。ヴェスタ商会主が馬車から降りてきたのだ。父とカロリーヌもいる。
「立派な演説だな、伯爵様。しかし倉庫は私のものだ」
商会主は新しい鍵束を揺らした。
「薬が欲しければ、婚礼の話を戻そう。カロリーヌを妻に迎えると約束すれば、扉を開けてやる」
エリナは男を見据えた。
「患者の命を取引に使うのですか」
「商売とはそういうものだ。欲しいものには値段がつく」
「あなたは自分の娘の結婚にも、値段をつけた」
「娘にはいい縁談を用意してやった。おまえにもな。何が不満だ」
父がエリナの腕を掴もうとした。
「おまえが頑固だから、みんなが困っているんだ。謝って、ヴェスタ殿の言うとおりにしろ」
エリナは一歩退いた。
「私が結婚を断ったから患者が困っているんじゃない。あなたたちが倉庫を閉めたから困っているの」
「口答えをするな!」
父は平手を振り上げた。セドリックが止めようとしたが、エリナは逃げなかった。父の腕を自分で掴み、振り下ろされるのを止めた。
「もう、叩かせません」
父が目を見開いた。エリナは掴んだ腕を離した。
「私を家の道具にするのは終わりです」
カロリーヌが甲高い声で笑った。
「威勢がいいこと。でも結局、薬は出せないんでしょう? 伯爵様が私と結婚すれば済むのに」
セドリックは彼女に向き直った。
「僕は君と結婚しない。何度言えば分かる」
「そんなにその女がいいの?」
「エリナを愛している。君が誰を好きになろうと自由だが、僕の気持ちを決める権利はない」
カロリーヌは唇を噛み、父親にすがった。
「お父様、あの人たちを何とかして!」
商会主は私兵へ顎をしゃくった。
「伯爵と娘を捕まえろ。港から出すな」
私兵が動きかけたとき、トマスがミラとともに駆け込んできた。白髪の薬師は息を切らしながら、胸から革の札を取り出した。
「エリナ、わしの資格札だ。君の札もあるな」
「あります」
エリナは首に掛けていた小さな銀札を見せた。母の死後、薬品取扱責任者の資格を取ったときに交付されたものだ。
「検疫旗を確認した。緊急開錠の条件は満たしている」
商会主が怒鳴った。
「私の倉庫を勝手に開けるな!」
「あなたの倉庫ではないわ」
エリナは言った。
「共同倉庫は、市と港の労働組合が設立したもの。管理権を誰かが持っていても、所有権は移らない。しかも緊急時には、管理者の許可は要らない」
「そんな規約、誰が決めた!」
「あなたが買い取ったと言っている倉庫の設立者たちよ」
エリナは倉庫の脇へ回った。表扉の鍵は二つとも商会のものだが、壁には古い鉄箱が埋め込まれている。箱には二枚の資格札を差し込む溝があった。緊急時の開錠装置だ。
トマスが隣に立ち、二人で札を差し込んだ。内部で錠が外れる音がした。
「止めろ!」
商会主が走ってきた。私兵がエリナを掴もうとする。セドリックと荷運び人たちが間に立った。
「薬を出せ!」
荷運び人が叫んだ。
「船に病人がいるんだぞ!」
エリナは鉄箱の取っ手を引いた。中から長い緊急開錠用の棒が現れる。表扉の脇にある穴へ差し込み、力いっぱい回した。古い歯車が軋んだ。錆びついて動かない。
「エリナ、もう一度だ!」
トマスが叫ぶ。
彼女は足を踏ん張り、棒に体重を掛けた。セドリックが横から手を添えた。
「一緒に」
「お願い」
二人で押すと、内部の閂がようやく動いた。扉が少し開き、冷えた薬品の匂いが流れてくる。
商会主は私兵の槍を奪い、扉へ突進した。
「開けるな! 私の財産だ!」
エリナは棒を抜かず、男の前に立った。
「ここにあるのは、人を助けるための薬よ」
「金を払え!」
「必要な分は、正式な記録をつけて搬出する。あなたに払う金はない」
商会主が槍を振り上げた。セドリックが男の腕を掴み、槍を地面に落とした。荷運び人たちが私兵を取り囲む。誰も手を出さず、ただ道を塞いだ。
エリナは扉を開け切った。
「ミラ、消毒液を二箱。トマス先生、解熱剤の確認をお願いします。セドリック、船へ連絡して」
指示を出すと、人々が一斉に動き始めた。薬品が次々に運び出され、荷車が検疫所へ向かう。エリナは一箱ずつ帳簿へ記録した。急いでいるからこそ、間違いが許されない。
商会主はその場に立ち尽くしていた。父が彼の肩に触れた。
「ヴェスタ殿、今は引こう。あとで訴えれば」
「黙れ、オルデン!」
商会主は父を突き飛ばした。
「おまえが管理権を売れると言ったんだ! 印章も手に入れたと!」
エリナは帳簿を書く手を止めた。港の労働者たちも顔を上げた。
「印章を手に入れた?」
商会主は言い過ぎたことに気づき、口を閉じた。エリナは一歩近づいた。
「父上、管理印をどこから持ち出したの」
「知らん!」
「母が管理人だったころ、印章は市庁舎の保管庫にあった。管理人が交代しても、場所は変わらないはずよ」
ミラが顔色を変えた。
「昨日、市庁舎の書記が印章を点検すると言って、保管庫を開けたわ。男爵様が同席していた」
父はミラを睨んだ。
「小娘が余計なことを」
「私が見ました。市庁舎の受付簿にも記録があります」
エリナは父に向き直った。ここで初めて、父の計画の全体が見えた。娘の結婚を売っただけではない。共同倉庫の管理権を偽って担保にし、港の仕事を商会主へ引き渡そうとした。伯爵家の融資を握る商会主にとって、薬品倉庫は絶好の支配手段だった。
だが、父は一つだけ知らなかった。緊急開錠装置が今も使えることを。母が管理人を辞めたあとも、トマスとエリナが毎月点検を続けていたのだ。
セドリックが戻ってきた。
「船から連絡があった。薬が届いた。患者の受け入れを始める」
エリナは肩の力を抜いた。救えた命がある。その事実を確かめてから、父を見た。
「父上、これで終わりにはしません」
父は唇を歪めた。
「何をするつもりだ。父親を訴えるのか」
「あなたが売ったものを、ひとつずつ取り戻します」
エリナは共同倉庫の帳簿を閉じ、ミラに預けた。救護のための搬出記録と、男爵の印章が押された商会の通達。すべての書類が揃ったわけではない。だが、倉庫を開けた事実は消せない。
そのとき、市庁舎から使者が駆けつけた。
「エリナ・オルデン様! 至急、議場へお越しください。男爵が、あなたの薬品取扱資格の取り消しを申し立てました!」
父は勝ち誇ったように笑った。
「資格を失えば、おまえはただの娘だ。港も伯爵も、おまえを守れん」
エリナは銀の資格札を握った。母の教えと、自分の仕事を支えてきた証だ。
父は最後に、それを奪おうとしていた。




