父の買い手
鐘楼から商会までは、石畳の大通りを歩いて十五分ほどだった。セドリックは馬車を呼ぼうとしたが、エリナは歩くと言った。今度こそ自分の足で、父の前へ行きたかった。
神官は誓約帳を封じ、鐘楼に残った職人の証言を記録するために部下を置いた。執事は警備兵に見張られたまま、まだ男爵の命令に従っただけだと言い張っている。エリナは彼を責める言葉を探さなかった。誰かに責任を押しつける父の姿を、これまで何度も見てきたからだ。
商会の大広間に近づくと、花の香りと楽団の音が通りへ流れてきた。門前には招待客の馬車が列をつくり、礼服の男たちが酒を飲みながら談笑している。門番はエリナを見て慌てた。
「お嬢様、こちらへは」
「私の結婚式があると聞いたの。入れない理由がある?」
「男爵様のご命令で」
セドリックが一歩前へ出た。
「僕の婚礼に、僕を入れないつもりか」
門番は答えられず、二人を通した。
広間の中央には白い花で飾られた壇があり、カロリーヌが先ほどの花嫁衣装で座っていた。真珠の髪飾りはなく、代わりに宝石を散りばめた冠をつけている。父は招待客へ酒を配り、ヴェスタ商会主と肩を組んで笑っていた。
商会主はエリナを見ると、値踏みするように上から下まで眺めた。
「おお、これがオルデンの娘か。思ったより気が強そうだな」
「あなたがヴェスタ商会の主ですか」
「そうだ。今日からおまえの夫になる」
彼はエリナの肩へ手を伸ばした。セドリックがその手を払う。
「触れるな」
「伯爵様、あなたは私の娘を妻に迎えるんでしょう。ならば、私が誰と結婚するかに口を出す筋合いはない」
商会主は笑った。父も笑っている。エリナは二人の顔を見比べた。
「私はあなたと結婚しません」
「娘のくせに、ずいぶん偉そうだな」
「娘であることと、結婚を拒む権利は別です」
「権利だと?」
商会主は胸ポケットから紙を取り出した。そこには父の署名と商会の印章があった。
「おまえの父親は、家の借金を私に売った。借金の担保はおまえの婚姻だ。私と結婚すれば借金は帳消し。拒めば、父親は屋敷も土地も失う。おまえは家族を路頭に迷わせたいのか」
エリナは紙を受け取ろうとしたが、男は高く掲げて見せない。
「読ませてください」
「おまえに読む必要はない。父親が決めたことだ」
「私の人生のことです」
「女が契約を読んだところで何になる」
周囲から小さな笑いが漏れた。エリナは侮辱されたことより、その場の誰も不自然だと思わないことに怒りを覚えた。港の検疫所では、薬品の契約書を読まずに署名する者は一人もいない。命に関わる品を扱うからだ。なのに、結婚という人生を左右する約束では、当人が読むことさえ笑われる。
セドリックが低い声で言った。
「その契約は、僕とエリナの婚姻には関係しない。僕が同意していない」
「あなたの同意は必要ない。伯爵家はヴェスタ商会から融資を受けている。今朝、あなたの叔父上にも話を通した」
セドリックが顔を上げた。伯爵家の叔父は、彼が検疫官の職を選んだときから反対していた人物だ。商会主はそれを知っている。
「伯爵家の融資を止めれば、あなたの港湾事業は立ち行かなくなる。カロリーヌを妻にすれば、必要な資金はすべて出す」
セドリックは笑わなかった。
「僕の仕事を買うつもりなら、値段を間違えたな」
「強がりはよせ。港で何人働いていると思う。あなた一人の恋愛のために、全員を失業させるのか」
エリナはセドリックの腕を掴んだ。彼が何を守ろうとしているか知っている。検疫所で一緒に働いた人々の生活も、病人を運ぶ船の安全も、彼には捨てられない。だからこそ、この脅迫は効く。
「私のせいで仕事を失う人が出るなら」
「君のせいじゃない」
セドリックは言葉を遮った。
「人を人質にして商売する男が悪い。君が自分を差し出しても、彼は次の条件を出す。僕はそんな取引を受けない」
「でも」
「君と結婚したい。だから君を買うんじゃない。君が僕を選んでくれたことが嬉しいんだ」
広間の人々がこちらを見ている。セドリックは構わずエリナの手を取った。
「僕は君を愛している。三年前、君が薬箱を抱えて雨の港を走ってきた日から、君が誰かの命を自分の都合より先に考える人だと知っている。今度は僕にも、君を守る役をさせてくれ」
エリナは彼を見上げた。彼の言葉を聞いても、怖さは消えなかった。だが、ひとりで何もかも背負わなくていいのだと分かった。
父が二人の間へ割って入った。
「感傷に浸るな! エリナ、おまえは家の娘だ。家のために結婚する義務がある!」
「父上は、私が家のために働いたことを一度でも数えた?」
「何を」
「港の薬品代を誰が立て替えたか知っている? 検疫所が閉じかけた冬、私が母の形見を売って薬を買ったことを知っている?」
父は眉を寄せた。
「そんな話は聞いていない」
「聞かなかったのよ。私が何をしているか、興味がなかったから」
エリナは自分の声が震えているのを感じた。父に認められたくて働いたわけではない。それでも、家のために生きろと言われるたび、娘として何もしていないかのように扱われるのが苦しかった。
カロリーヌが立ち上がった。
「お涙頂戴はやめてくださる? 伯爵様は私の夫になるの。あなたは負けたのよ」
「私は勝負をしていないわ」
「負けた人はみんなそう言うのね」
カロリーヌは壇を降り、セドリックの腕を取ろうとした。彼は身を引いた。
「僕に触れないでくれ」
「お父様が全部整えてくださったのよ。あなたの叔父様も賛成したのに」
「僕が君を選んだことは一度もない」
「選ばなくてもいいの。結婚すれば、きっと私のよさが分かるわ」
「君は僕の話を聞いていない」
カロリーヌは顔を赤くした。
「その女の何がいいの? 地味で、港で働いて、手だって荒れてる!」
「君が馬鹿にしているその手に、僕は何度も助けられた」
セドリックはエリナの手を両手で包んだ。指先には、薬箱の留め具でつけた古い傷がある。
「僕はこの手を、誰よりも大切にしたい」
エリナは彼の指を握り返した。ここまで明確に愛情を伝えられたのは初めてではない。それでも、衆目の中で自分を選び続けてくれることが、胸の奥に染みた。
商会主は酒杯を卓へ叩きつけた。
「もういい! オルデン、約束が違うぞ。娘が言うことを聞かないなら、金は返してもらう!」
父が青ざめた。
「待ってくれ、ヴェスタ殿。話が違う」
「違わん。おまえが差し出したのは娘と、伯爵家への縁だ。両方手に入らないなら契約違反だ」
商会主は懐からもう一枚の紙を出した。父が急いで奪おうとしたが、男は腕を引く。
「これを見せれば娘も黙るだろう。おまえの父親は、借金の担保に屋敷だけでなく、港の共同倉庫の管理権まで差し出したんだ」
エリナは息をのんだ。共同倉庫は検疫所で使う薬品を保管している。所有者は港の労働組合と市の共同名義で、父個人の財産ではない。
「父上、それは売れないものよ」
「黙れ!」
「父上のものじゃない」
商会主が笑った。
「書類に署名がある。私が管理権を得れば、港の薬品は私の許可なしには動かせない。おまえの伯爵様も困るだろうな」
セドリックの表情が険しくなった。港の倉庫を握られれば、検疫所が使えなくなる。エリナは紙の端に押された印章を見た。父の男爵印だけではない。共同倉庫の管理印もある。
あの印は、港の三人の管理人が立ち会わなければ使えない。父は管理人ではない。
「その印、どこで手に入れたの」
商会主は一瞬、答えに詰まった。
「正当な手続きでだ」
「管理人三人の名前を言って」
「そんなもの、いちいち覚えているか!」
エリナはセドリックを見た。彼も気づいたらしい。父が売ったのは、もともと父に売る権利のないものだった。
しかし、それを指摘しただけでは商会主は引かない。印章が本物なら、港の管理人の誰かが協力した可能性がある。誰が、何のために。
広間の扉が開き、港の制服を着た若い女が入ってきた。エリナの同僚で、共同倉庫の記録係ミラだった。
「エリナ! 倉庫が閉鎖された! 薬品を取りに来た船が、港で待ってる!」
ミラはセドリックを見ると、続けた。
「検疫所から緊急の知らせです。熱病の患者を乗せた船が入港しました。倉庫の鍵を商会の人間が持ち去ったんです!」
エリナは父を見た。父は初めて娘の目を正面から見返したが、そこにあるのは後悔ではなかった。
「おまえが素直に結婚していれば、こんなことにはならなかった」
エリナはその言葉を聞き、もう父を説得するのはやめようと決めた。
「私が何を選んでも、人の命を止めていい理由にはならない」
セドリックは彼女の隣へ立った。
「港へ行こう。君が倉庫を開ける方法を知っているなら、僕は船を受け入れる」
商会主が叫んだ。
「一歩でも出れば、契約違反で伯爵家の資金を止めるぞ!」
セドリックは振り返らなかった。
「止めればいい。僕が失うのは金だ。あなたが失うものは、金で買い戻せない」
エリナは彼とともに広間を出た。背後で父が怒鳴り続けている。
彼女はまだ知らなかった。共同倉庫の鍵を取り戻すためには、母が生前に残した約束を、今度は自分の名で引き受けなければならないことを。




