私の名で鳴らす鐘
市庁舎の議場は、港から運び込まれた濡れた靴の跡で汚れていた。労働組合の代表、市の書記、検疫所の職員が次々に集まり、傍聴席には倉庫の前にいた荷運び人たちが座っている。エリナは入り口で足を止めた。父はすでに議長席の前に立ち、娘を指さしていた。
「この者は私の許可なく共同倉庫を破壊し、商会の財産を持ち出した。薬品取扱資格を取り消していただきたい」
議長は老齢の女性だった。彼女は父の言葉を遮らずに聞き、エリナへ向き直った。
「申し立ての内容は分かりましたか」
「分かりました。ただし、倉庫は破壊していません。設立規約に従って緊急開錠し、薬品を搬出しました」
「資格札を示してください」
エリナは首から銀札を外し、机へ置いた。隣にはトマスが立ち、同じ札を差し出した。
「わしらは二人とも登録者です。検疫旗を掲げた船が入港し、管理人が不在だったため、緊急開錠を行いました」
父が叫んだ。
「娘の話を信じるな! 私に恨みを持っている!」
議長は静かに言った。
「男爵、あなたの申し立ては資格の取り消しです。親子関係の話ではありません」
父は口を閉じた。エリナは議長に一礼し、ミラから受け取った帳簿を開いた。
「搬出した薬品は全量を記録しています。検疫所の受領印もあります。倉庫の扉に付けられた商会の錠は壊していません。緊急装置を使いました」
議長が記録を読み、検疫所の職員に確認した。職員は立ち上がり、薬が届いた時刻と患者の受け入れ状況を報告した。船の患者は、順に隔離病棟へ移されている。
「規約上、問題は見当たりません」
議長はそう言った。
父は机を叩いた。
「では管理権の問題はどうなる! 私は正式に商会へ売ったのだ!」
「そこを確かめましょう」
エリナは父を見た。
「父上。あなたが売ったという管理権は、どこで手に入れたのですか」
「代々、オルデン家が港を支えてきた。その功績による権利だ」
「では、共同倉庫の設立者を言えますか」
父は眉を寄せた。
「そんな昔のことを覚えている必要はない」
「設立者は市と労働組合です。オルデン家は土地を貸しただけ。土地の使用料は毎年支払われているから、父上はそのことを知っているはずです」
エリナは帳簿の別の頁を開いた。共同倉庫の使用料は、男爵家の収入として毎年記載されている。母が生きていたころ、エリナはその計算を手伝ったことがある。
「土地の貸し主と、倉庫の管理者は違います。父上は貸し主として使用料を受け取っていました。でも、管理権を持っていたことはありません」
議長は書記へ命じ、設立規約の原本を持ってこさせた。エリナは原本が届くのを待たずに続けた。
「私が知りたいのは、管理権がないと知りながら、なぜ商会に売ったのかということです」
「家の借金を返すためだ!」
父が叫んだ。議場がざわめく。エリナはその言葉を聞いても、驚かなかった。父はいつも、家のためという言葉で自分の行為を正当化してきた。
「借金は何に使ったのですか」
「おまえには関係ない」
「私の婚姻を担保にしたのでしょう。関係があります」
「親が娘の嫁ぎ先を決めて何が悪い!」
議長が口を開こうとしたが、エリナは父から目を離さなかった。
「私が拒んでも?」
「拒む権利などない!」
「セドリックが拒んでも?」
「伯爵家の叔父が認めた。あの若造は従えばいい!」
父の言葉が議場に響いた。エリナは一度、深く息を吸った。
「では、父上が売ったのは私の結婚ではありません。私とセドリックが自分で決める権利です」
父は嘲るように笑った。
「言葉遊びをするな。契約は契約だ」
「そうですね。だから、契約を読ませてください」
エリナは議長へ向き直った。
「ヴェスタ商会との契約書を、ここで読み上げていただきたいのです。父は私に読ませませんでした」
議長は商会主を呼び入れた。男は私兵を二人連れていたが、議場へ入れることは許されなかった。彼は不満げに契約書を差し出す。
「こんな娘の言うことを聞く必要があるのか」
「あなたが市の共同財産を担保に取ったと主張している以上、契約内容を確かめます」
議長はそう答えた。
書記が読み上げ始めた。男爵家の借金の額、返済期限、担保として記載された屋敷と土地、共同倉庫の管理権。さらに、カロリーヌとセドリックの婚姻が成立した場合には、伯爵家の港湾事業に優先融資を行うこと。エリナが商会主の後妻になる場合には、男爵家の残債を免除すること。
傍聴席から怒りの声が上がった。商会主は顔をしかめた。
「商売上の条件だ。何も違法ではない」
「共同倉庫の管理権は男爵にありません」
議長がそう告げた。
「印章がある!」
「印章は権利そのものではありません」
エリナはミラを見た。ミラは立ち上がり、前日に市庁舎の保管庫が開かれたことを証言した。受付簿が運び込まれると、そこには父の署名があった。同行した市の書記も呼ばれ、印章の点検を名目に保管庫を開けたと認めた。
「男爵様に頼まれました。共同倉庫の印章を確かめたいと。持ち出すとは思いませんでした」
父は声を荒らげた。
「おまえまで私を裏切るのか!」
「私は見たことを話しているだけです」
書記は俯いた。エリナはその姿を見て、父の周囲にいた人々がどれほど恐れていたかを思った。だが、恐れていたからといって、行ったことが消えるわけではない。
商会主が突然、契約書を掴んだ。
「もういい! 共同倉庫が担保にならないなら、屋敷と土地を取り立てる。オルデン、今日中に出ていけ!」
父は商会主にすがった。
「待ってくれ。娘を説得する。カロリーヌ嬢の婚礼も、まだ」
「そんなものは要らん! 伯爵が言うことを聞かない以上、役に立たない!」
カロリーヌは父親を見上げた。広間で見せていた勝ち誇った笑みはない。
「お父様、私の結婚は?」
「黙っていろ。今は金の話をしている!」
彼女は後ずさった。エリナは同情しなかった。母の髪飾りを踏んだことも、自分の人生を奪おうとしたことも、なかったことにはできない。ただ、父親にとって娘が何であるかを、カロリーヌもようやく知ったのだろうと思った。
セドリックがエリナの隣へ来た。
「大丈夫か」
「大丈夫、と言いたいけれど、怖いわ」
「僕もだ。君の父上が、まだ何をするか分からない」
「それでも、ここで終わらせたい」
「君が望むなら、最後まで隣にいる」
彼はエリナの手を握った。誰にも見えないように隠すのではなく、議場の中央で堂々と。
「僕は君と結婚したい。家のためでも、金のためでもない。君と同じ食卓で喧嘩をして、同じ港で働いて、君が帰ってきたらおかえりと言いたい」
「そんな毎日でいいの?」
「そんな毎日が欲しいんだ」
エリナは彼を見て笑った。
「私もよ」
議長が木槌を打った。共同倉庫の管理権譲渡は、譲渡権限のない者による契約として無効と確認された。商会が取り付けた錠の撤去と、倉庫から持ち去った鍵の返還が命じられる。エリナとトマスの緊急開錠については、資格取り消しの申し立てを棄却。父が持ち出した印章は市へ返還され、関与した書記は職務から外された。
だが、エリナはそれだけでは足りないと知っていた。
「議長、もう一つあります」
父が顔を上げた。
「何だ、まだあるのか!」
「私とセドリックの婚礼です。父は別の花嫁を用意して、鐘楼の誓約帳に偽の署名をさせました」
神官が前へ出た。彼は封じた誓約帳を示し、署名が本人の意思確認を経ていないことを証言した。職人も、鐘を別の場所から鳴らす仕掛けを依頼されたと話した。
議長は婚礼の登録担当者に確認し、偽の記録を無効とする手続きをその場で行わせた。神官は帳面の該当頁に無効の印を押した。エリナはその印が押されるところを、最後まで見届けた。
「これで、誰かが私たちの代わりに結婚したことにはならないのですね」
「なりません」
神官はそう答えた。
「婚姻は当人二人の誓いによって成立します」
父は椅子へ崩れ落ちた。
「何もかも、おまえのせいだ」
エリナは父の前に立った。
「いいえ。父上が決めたことの結果です。私が決めたのは、結婚相手を自分で選ぶことだけ」
商会主はなおも怒鳴っていたが、市の商業監督官が到着すると声を失った。共同財産の管理権を偽って取得し、緊急時の薬品搬出を妨害した行為について、監督官は提出済みの記録と本人の発言を確認した。商会主は反論の機会を与えられたが、薬品の搬出を婚姻の条件にしたことを否定できなかった。
監督官は、市の港湾取引許可の取消決定を読み上げた。商会は港の共同倉庫を利用できず、検疫所との取引資格も失う。これは暫定的な停止ではなく、市の許可に関する最終決定だった。商会主が最も欲しがっていた港の独占権は、もう手に入らない。
「こんなことが許されるか!」
商会主は書類を破こうとした。監督官は同じ決定書をもう一部取り出し、市の記録として保管することを告げた。破ったところで結果は変わらない。
父にも決着が待っていた。借金のうち正当に担保となっていた屋敷と土地について、商会主は返済を要求した。父には支払える金がなく、屋敷の明け渡しに同意するしかなかった。父が娘の婚姻と引き換えに守ろうとした家は、父自身の契約によって失われた。
「エリナ、おまえが伯爵に頼めば」
父は初めて、命令ではなく頼み事をした。エリナは首を横に振った。
「セドリックのお金で、父上のしたことをなかったことにはしません」
「私はおまえの父親だぞ!」
「知っています。だからこそ、こんなことをしてほしくなかった」
それ以上は言わなかった。父が何を失ったかを、エリナが説明してやる必要はない。父は椅子に座ったまま、屋敷の鍵を商会の代理人へ渡した。かつて娘の部屋へ鍵を掛けた男が、今度は自分の家の鍵を手放していた。
議場を出ると、夕暮れの港に鐘の音が響いた。検疫所から患者の受け入れが終わった知らせだった。エリナは立ち止まり、海のほうを見た。
「婚礼の日だったのに、ずいぶん遠くまで来たわね」
「君が嫌なら、式は別の日にしよう」
セドリックは彼女の手を離さなかった。
「今日、君は働き通しだった。疲れているだろう」
「疲れたわ。でも、今なら鐘楼まで歩ける」
「本当に?」
「私たちの式を、誰かのものにしたくないの」
セドリックは少し考えてから、微笑んだ。
「では、花嫁衣装のない婚礼になるな」
「あなたの上着を借りているもの」
「それは返してもらえそうにない」
「返さないわ。今日のことを忘れないために」
彼は笑い、エリナの額へ口づけた。
「なら、僕はその上着を着た君を妻に迎える」
鐘楼には神官と、港から駆けつけたミラとトマスが待っていた。御者もいた。昼間、馬車の幌を落としたことをエリナが謝ると、男は首を振った。
「幌なら直せます。お二人が無事でよかった」
神官は新しい誓約帳を開いた。古い帳面は偽造の記録を残すため、封じて保管されている。
「エリナ・オルデン。あなたは自分の意思で、セドリック・アルヴェインを夫としますか」
エリナはセドリックを見た。三年前、雨の港で出会った青年が、いまも同じように真剣な顔をしている。
「はい。私が選びました」
「セドリック・アルヴェイン。あなたは自分の意思で、エリナ・オルデンを妻としますか」
「はい。何度でも、彼女を選びます」
神官が二人へ羽根ペンを渡した。エリナは自分の名前を書いた。父の娘としてではなく、誰かに売られる花嫁としてでもなく、自分の意思で誓う一人の人間として。
セドリックも署名し、二人は鐘楼の綱を握った。母が磨いた真鍮の金具は、いまも滑らかに動く。エリナは掌に残した真珠の欠片を思い出した。髪飾りは壊れてしまったが、母が教えてくれたことは何も失われていない。
一度目の鐘が鳴った。港から人々の歓声が上がる。
二度目の鐘で、セドリックがエリナを見た。
「愛している」
「私も。あなたと生きていきたい」
三度目の鐘を、二人は一緒に鳴らした。
鐘楼を降りると、ミラが花束を差し出した。港の人々が急いで集めてくれた小さな白い花だ。トマスは目を赤くして、二人の肩を叩いた。
「さあ、祝いの食事だ。検疫所の食堂を借りた。今日くらいは、仕事の話を抜きにしろ」
「無理かもしれません」
セドリックが言った。
「この二人は港の話を始めると止まらないからね」
ミラが笑った。
エリナは花束を抱え、セドリックと並んで歩いた。明日になれば、屋敷を失った父のことも、商会が残した問題も、片づけなければならない仕事がある。それでも、今夜は自分の結婚を祝っていい。
食堂の入口でセドリックが立ち止まった。
「ひとつ、頼みがある」
「何?」
「僕の上着を、いつか返してくれないか。君に似合う新しい服を一緒に選びたい」
エリナは彼の上着の袖を引き、笑った。
「返すわ。でも、私の服は私が選ぶ。あなたは隣で意見を言って」
「もちろん。君が嫌なら、何も押しつけない」
「それなら、まずは食事を選びましょう。今日は何が食べたい?」
「君と同じもの」
「それじゃ選んだことにならないわ」
セドリックは少し困った顔をしたあと、焼いた魚と温かいスープを注文した。エリナはパンを一つ追加した。二人は窓際の席に座り、互いの皿から少しずつ分け合った。
食事の途中、エリナは上着の内側から母の布袋を取り出した。縫い目は不揃いで、角の一つが少し曲がっている。セドリックは食器を置き、彼女が封を開けるのを待った。
手紙には、長い祝福の言葉はなかった。『困ったら鐘楼へおいで。あそこでは、どんなに偉い人でも自分の手で綱を引くのよ。誰かに代わってもらえないことが、人生にはあるから』。最後に、母らしい少し傾いた文字で『あなたが選んだ人を、私は喜んで迎えます』と書かれていた。
エリナは手紙をセドリックへ渡した。彼は一文字ずつ読んでから、丁寧に折り直した。
「お義母さんに、ようやく挨拶ができた気がする」
「きっとあなたを気に入ったわ。鐘の修理を頼んだら、文句を言いながら最後まで手伝ってくれそうだもの」
「それは君のことだろう」
「そうね。似ているのかもしれない」
二人は笑った。エリナは手紙を布袋へ戻し、壊れた真珠と一緒にしまった。直せるものと、直らないものがある。直らないからといって、捨てなければならないわけではない。
港の向こうで、夜の鐘が鳴る。エリナはセドリックの肩に寄りかかった。誰かが用意した席ではない。二人で選んだ席だった。
お読みいただきありがとうございました!
面白かったらぜひ【ブックマーク】とページ下の【★★★★★評価】で応援よろしくお願いします。




