09 第2章:候補1・タワマンの隣人(エリート弁護士)
第4節:ミルク吐き散らし作戦
スマートスピーカーを介した音声データのクラウド保存や、高級腕時計の裏蓋に刻まれた密約の文字によって、弁護士・神条と妻・愛華の結託が「遺産の強奪」を目的としたビジネス上の共犯関係にすぎないという真実を暴いてから数日。
リビングのベビーベッドという名の特等席から、俺――前世の記憶を宿したまま赤ん坊として転生した佐藤一真は、次の一手を静かに、しかし確実に研ぎ澄ませていた。
音声データや状況証拠だけでは、まだ法的な決定打としては弱い。奴らが仕掛けた「病死」という完璧な偽装工作を完全に粉砕し、社会的な死だけでなく、刑事責任の泥沼へと引きずり込むためには、物理的かつ動かぬ「物証」を奴らの手元から直接引きずり出す必要がある。
(口裏を合わせ、どれほど巧妙に法律の網をくぐり抜けようとも、奴らが交わした裏の契約書や、保険金詐欺の具体的なスキームを示す書類がこのタワマンのどこかに必ず存在するはずだ……。それを、どうやって俺の目の前に引きずり出すか)
大人の知能を持ちながら、未発達な赤ん坊の肉体に閉じ込められている俺にとって、自ら立ち上がって書斎の金庫を開けることなど物理的に不可能だった。だからこそ、敵の油断を誘い、偶然を装ったアクシデントを利用して、向こうからその証拠を暴かせる必要があった。
そして、そのチャンスは、意外なほどあっさりと、そして劇的な形で訪れた。
その日、神条は再びこのタワーマンションのリビングを訪れていた。
「いやあ、愛華さん。先日の保険金の審査状況だがね、松井生命の方から最終の確認が入ったよ。これで書類上の不備が完全にクリアされれば、来月には君の口座に全額が振り込まれる手はずになっている」
神条はワインレッドの革製アタッシュケースをリビングの床、ちょうど俺が寝かされているベビーベッドの足元あたりに無造作に置き、ソファに腰掛けながら満足げな笑みを浮かべていた。
愛華は「まあ……本当にありがとうございます、神条さん。これで、やっと私のこれからの生活も安心だわ」と、華やかな微笑みを浮かべながら、神条のグラスにペリエを注いでいる。
二人の間には、完全に勝者としての余裕が漂っていた。自分たちを疑う人間はもうこの世にはいない、そう確信しきっているからこその油断だ。
(ふん、勝った気でいやがれ……。お前たちが札束の数に目をくらませているその隙に、俺がすべてをぶち壊してやる)
ちょうどその時だった。
俺の小さな胃の腑が、グゥッと不規則な音を立てて収縮した。
生物学的な赤ん坊の身体は、大人の意志とは無関係に、一定時間ごとにミルクを要求し、そして満腹になれば容赦なくそれを吐き戻すという生理現象を抱えている。
(……待てよ。この生理現象、そのまま利用できるんじゃないか?)
俺の頭脳が、一瞬で最善の戦術を導き出した。
ただ泣き叫ぶだけではない。あえて授乳直後のタイミングを狙い、神条の目の前で、彼の身体と足元に向かってすべてをぶちまけるのだ。
「あらあら、どうしたのかしら? もうお腹が空いちゃったのかな」
愛華は神条との優雅な歓談を中断し、ふうっとため息をつきながら哺乳瓶の準備を始めた。
手際よく作られたミルクが、温かな温度を保ったまま俺の口元へと運ばれてくる。
拒絶したいところだが、作戦のためには飲まなければならない。俺は観念し、与えられるままにそのミルクをゴクゴクと一気に飲み干した。胃の容量を限界まで超えるほどの量を無理やり流し込み、あえて消化不良を起こしやすい状態を作り出す。
「はい、いい子ねー。いっぱい飲みなさい」
愛華は満足そうに微笑みながら、俺をひょいと抱き上げ、軽く背中をトントンと叩いてゲップを促した。
(よし……タイミングはここだ)
俺はわざと体を痙攣させるように大きく反らせ、まだ完全に消化されていない大量のミルクを、喉の奥から一気に逆流させた。
「えっ……ちょ、ちょっと待って……!?」
愛華が慌てて顔を背けようとしたが、時すでに遅かった。
俺の小さな口から噴き出した大量の白い液体は、見事にリビングの床を通り越し、ソファの近くに立っていた神条の足元――正確には、彼が愛用する高級オーダースーツの裾と、その足元に置かれていた革製アタッシュケースの直撃コースへと放物線を描いて飛び散った。
「うわっ……!? な、なんだこれっ……!?」
神条は反射的に飛び退いたが、彼の足元に直撃したドロドロのミルクは、特製のネイビーの高級スーツの裾、そしてピカピカに磨き上げられたイタリア製の革靴を容赦なく汚し、さらにはその足元に置かれていたアタッシュケースの表面をべっとりと濡らした。
「きゃあ! 神条さん、ごめんなさい! この子、急にすごい勢いで吐き戻しちゃって……!」
愛華は青ざめながらウェットティッシュの束を掴み取り、慌てて神条のスーツを拭おうと駆け寄った。
「くっ……! ば、馬鹿な! このスーツ、特注のロロ・ピアーナの生地なんだぞ……! なんでよりによって私の足元に……!」
普段の冷静沈着なエリート弁護士の仮面が完全に剥がれ落ち、神条は顔を真っ赤に引きつらせながら怒声を上げた。
だが、パニックに陥った神条の足の動きが、さらなる悲劇(彼らにとっての破滅)を引き起こした。
慌てて後ずさろうとした神条の革靴の踵が、床に置かれていたアタッシュケースの留め金部分に激しく引っかかったのだ。
ガチャン! と硬質な金属音がリビングに響き渡った。
バランスを完全に崩した神条は、「うわっ!」と情けない声を上げながらソファのひじ掛けに手を突いて転倒を免れたが、その勢いで、足元にあったアタッシュケースの蓋がパカリと勢いよく全開になった。
そして――。
そのケースの中にしっかりと詰め込まれていた膨大な書類の束が、重力に従うようにしてリビングのフローリングの上へと、盛大に、かつ無惨にぶちまけられた。
「あっ……!」
愛華が息を呑んだ。
神条も、自分の足元に散乱した書類の山を見て、血の気が一気に引いていくのを感じ取った。
散らばった書類の数々。契約書のコピー、銀行口座の残高証明書、そして法的アドバイスを記したメモ用紙の山。
その無数の紙片の中に、ひらりと舞い落ちるようにして、一枚の白い用紙が一番上に覆いかぶさるように広がった。
そこに印刷されていた文字を、ベビーベッドの上から見下ろしていた俺の瞳が、鋭く捉えた。
――『生命保険証券(写し)』
――被保険者:佐藤 一真
――受取人:佐藤 愛華
――死亡保険金受取額:一億円金円
紛うことなき、前世の自分自身の名前が記された生命保険証券のコピーだった。
しかも、その余白の部分には、神条の直筆と思われる赤字で「病死としての死因偽装完了」「保険会社への提出用(要厳重保管)」という恐ろしい指示書きまでが鮮明に書き加えられていた。
リビングの空気が、一瞬にして完全に凍り付いた。
「……これ……は……」
愛華は震える手で口を押さえ、目の前に広がる証拠の山と、呆然と立ち尽くす神条の顔を交互に見つめた。
神条もまた、顔面蒼白になりながら「ち、違うんだ愛華さん、これは……!」と弁解しようとしたが、もはや言葉の意味をなさなかった。
お互いが隠し続けていたはずの、そして一番他人に知られてはならなかった決定的な裏の証拠が、赤ん坊の意図的な(しかし周囲には単なる偶然の事故に見える)ミルクの吐き戻しとそれに伴う転倒劇によって、完璧な形で白日の下に晒されてしまったのだ。
ベビーベッドの中で、俺は汚れた口元を愛華のハンカチで拭われながら、二人の絶望に満ちた顔を見据え、心の中で冷酷な笑みを浮かべた。
(神条のスーツに意図的にミルクを吐き散らし、鞄の中身を散乱させる……。狙い通り、そこから出てきたのは「前世の自分の生命保険証券」のコピーだったな)
証拠は揃った。
弁護士である神条の法的な盾は、この瞬間から音を立てて崩れ去り、泥沼の同士討ちと破滅へのカウントダウンが、ついに本格的な火蓋を切ったのだった。




