08 第2章:候補1・タワマンの隣人(エリート弁護士)
第3節:高級時計の刻印
スマートスピーカーの予期せぬ誤作動により、神条と愛華の密談――「あの事故の件はうまく処理した」という決定的かつ致命的な自白の音声を、暗号化されたクラウドストレージへ送り込むことに成功してから数日。
リビングのベビーベッドという名の特等席から、俺――前世の記憶を持つ赤ん坊・佐藤一真は、静かに次の手を模索していた。
スマート家電を利用したトラップによって、弁護士である神条の法的な隠蔽工作の一端を暴くことはできた。しかし、それだけではまだ足りない。奴らが張り巡らせた虚偽の網の目を完全に引き裂き、社会的に葬り去るためには、さらなる動かぬ証拠、そして彼らの本当の目的と関係性を完全に暴く必要があった。
(神条……。あのエリート弁護士は、表向きは愛華の良き相談相手であり、合法的に俺の死を処理した共犯者だ。だが、あいつと愛華の間には、単なる不倫や利害の一致を超えた、もっと生々しい結びつきがあるはずだ。果たして、あの男こそが、この俺の肉体を形作った「実の父親(種馬)」なのだろうか……?)
疑問と疑念が頭の中で渦巻く中、再びその男がこのタワーマンションのリビングに姿を現した。
「いやあ、先日はちょっとしたハプニングがあったね。あのスマートスピーカーとやら、最近の家電は勝手に音声を拾うから油断ならないよ」
神条は相変わらず隙のないネイビースーツを身に纏い、余裕の笑みを浮かべながらリビングのソファに腰掛けていた。その手には、高級なイタリア製の革製アタッシュケースが握られている。
愛華は「本当に、びっくりしちゃいましたよ」と上品に微笑みながら、神条のために淹れた淹れたてのハーブティーをテーブルに置いた。二人の間には、以前よりもさらに距離感が縮まった、気心の知れた共犯者特有の空気が漂っている。
(ほう、今日も今日とて密談というわけか。いいだろう、今日はどんな裏の顔を見せてくれる?)
俺はベビーベッドの中で小さく息を潜め、じっと二人の様子を観察した。
しばらくの間、二人は相続税の控除枠や、前世の俺が残した預金口座の解約手続きに関する専門的な会話を交わしていた。神条が流暢な法律用語で愛華をリードし、愛華がそれにうっとりとした瞳で相槌を打つ。ここまではいつもの光景だった。
だが、その均衡が破られたのは、神条がジャケットのボタンを外し、ふうっと小さく息をついた時だった。
「ふう……それにしても、室内の暖房が少し効きすぎているな。少し上着を脱がせてもらうよ」
神条はそう言ってテーラードジャケットを脱ぎ、ソファの背もたれに綺麗に掛けた。そして、ワイシャツの袖口のボタンを外し、カフスを直そうと両腕まくりをした。
その瞬間だった。
神条の左手首に巻きつけられていた、重厚な光を放つ高級腕時計が、照明の光を反射してキラリと強い輝きを放った。
スイス製の最高級ブランド、複雑な機構を覗かせるスケルトン文字盤、そして極上のクロコダイルレザーのベルト。前世の俺が汗水垂らして働いても、一生かかって買えるかどうかというほどの代物だ。
神条は「やれやれ」といった様子でその腕時計を外し、ガラステーブルの上にポンと無造作に置いた。
その時――。
テーブルのすぐ脇、ベビーベッドから見下ろす絶妙な角度に、その腕時計の「裏蓋」が転がり向いた。
(……んっ?)
俺は視線を鋭く研ぎ澄まし、その裏蓋に刻まれた微細な金属の刻印に焦点を合わせた。
そこには、熟練の職人によって彫り込まれたような、流麗な筆記体の文字が刻まれていた。
――『 Aika 』
――さらにその下に、小さな日付とともに「Always with you」という甘いメッセージが添えられている。
心臓が、ドクンと激しく脈打った。
(『 Aika 』……愛華への記念刻印……だと……!?)
見間違いようはずもなかった。それは、神条が身につけている高級腕時計の裏蓋に、愛華の名前が刻まれているという動かぬ証拠だった。
これを見た瞬間、俺の脳裏を強烈な電撃が走り抜けた。
(間違いない……! この高級時計は、愛華が神条に贈ったものだ! いや、あるいは二人が深い関係になった記念に、互いに贈り合った特製品か何か……! つまり、神条は単なる近所の弁護士なんかじゃない。愛華の愛人であり、この家に出入りする『真の男』の一人だ!)
頭の中で、パズルのピースが音を立てて噛み合った。
やっぱりそうだ。あのスマートな弁護士こそが、この赤ん坊である俺の「本当の父親(種馬)」に違いなかったのだ。愛華の冷酷な言葉、洗面所の鏡の前で見せた表情、そして神条の慣れた手つき。すべてがこの腕時計の刻印によって一本の線で結ばれた。
(ついに見つけたぞ……! お前が俺の妻を寝取り、俺を裏切り、この体を創り出した「種馬」だな、神条……っ!)
激しい怒りと、ぞっとするような納得感が入り交じり、俺はベビーベッドの中で小さな拳をわなわなと震わせた。
しかし――その直後だった。
二人の口から零れ落ちた会話の内容が、俺のその「確信」を根底からひっくり返した。
腕時計をテーブルに置いた神条は、冷ややかな笑みを浮かべながら、愛華に向かってこう言ったのだ。
「それにしても愛華さん、君の計画もなかなか大胆だよな。まさか、あの真面目だけが取り柄の冴えない夫を完全に信じ込ませたまま、ここまでスムーズに遺産の権利をこちらに引き寄せられるとはね」
「ふふ、神条さんが裏で完璧な法律の網を敷いてくださるからよ。あの人が残した生命保険金と、このタワマンの売却益、そして会社の退職金などを合わせれば……総額で優に一億円を超えるわ」
愛華はグラスのハーブティーを一口含み、うっとりとした表情で天井を見上げた。
その言葉を聞いた瞬間、俺の思考は一瞬で凍り付いた。
(……は……? いま、何と言った……?)
「種馬」としての誇りや、愛人関係の甘い言葉など、そこには微塵も存在しなかった。
神条は、愛華を見つめながら、冷徹なビジネスマンの顔でこう続けたのだ。
「ああ。すべては計画通りだ。君が夫に毎日飲ませていた『特製のサプリメント』のおかげで、病死としての診断書も完璧に通り、保険金の審査も何一つ引っかからずに下りることになった。……で、契約通り、その保険金の三割は私の法律事務所の口座に振り込んでもらう。文句ないね?」
「ええ、もちろんよ。神条さんのおかげで、私は自由と巨額の富を手に入れられるんだもの。その代わり……この子供の父親としての面倒は、一切見ないでちょうだいね? あくまであなたは『頼れる隣人の弁護士』なのだから」
「わかっているさ。私はね、愛華さん、君の肉体に惚れているわけでも、ましてやそのガキの父親になりたいわけでもない。私にとっての目的は、あくまであの男の遺産――その莫大なマネーロンダリングと合法的な搾取、それだけだ」
ガラステーブルの上で鈍い光を放つ高級腕時計。
その裏蓋に刻まれた『Aika』の文字は、愛の証などではなかった。それは、莫大な遺産を山分けするための密約を結んだ共犯者同士が、互いの利益を確認するために交わした「ビジネスの刻印」にすぎなかったのだ。
(なんだと……!? 神条は……この男は、愛華の愛人ですらない……!? いや、愛人ぶっていただけで、本当の狙いは愛の成就でも子供の父親でもなく――「前世の夫の遺産(生命保険金)」そのものだったのか……ッ!!)
雷に打たれたような衝撃が、俺の全身を駆け巡った。
俺は、神条こそが「この赤ん坊の本当の父親(種馬)」であり、愛華と結託して俺を殺した張本人だとばかり思い込んでいた。
だが、現実はさらに醜悪で、さらにねじ曲がっていた。
神条は「種馬」などではなかった。彼は、愛華が企んだ遺産奪取計画の「法律上の共犯者・ブレーン」にすぎなかったのだ。
腕時計の刻印は、愛の証ではなく、巨額の保険金山分けの契約書代わりのようなものだった。
(じゃあ……一体誰なんだ……?)
頭の中で、激しい混乱と新たな疑問が沸き起こる。
神条が父親ではない。では、この色素の薄いハーフのような顔立ちをした赤ん坊――俺の本当の遺伝子の持ち主は、いったい誰なのだ?
IT企業の元上司・陣内か。それともパーソナルトレーナーの陸斗か。あるいは、まだ姿を現していない「第4の影」なのか……。
ベビーベッドの中で、俺は息を潜めたまま、冷徹に微笑み合う二人の姿を見据えた。
種馬確定かと思いきや、見せつけられたのは、人間の底知れぬ欲深さと、遺産をめぐる泥沼の金銭亡者たちの醜い結託だった。
だが、これで一つだけハッキリしたことがある。
神条であれ、愛華であれ、奴らの最大の目的は「前世の夫の遺産(保険金)」の完全強奪にある。ならば、その金脈を断ち切り、奴らが築き上げようとしている共犯の城を内側から崩壊させればいい。
(せいぜい今のうちに札束の計算でもしていやがれ。お前たちが奪おうとしているその金はすべて、お前たちを地獄へ突き落すための最高の絞首刑のロープに変えてやるからな……!)
高級時計の冷たい輝きの裏で、赤ん坊の小さな瞳は、さらなる復讐の炎をメラメラと燃え上がらせていた。




