07 第2章:候補1・タワマンの隣人(エリート弁護士)
第2節:スマート家電の罠
エリート弁護士である神条が、黒い影を纏わせた優越感の笑みを残してタワーマンションの部屋を去ってから数日が経過した。
ベビーベッドの上で天井を眺める日々の中で、俺の脳裏にあったのは、神条と愛華が交わした会話の断片と、この部屋を取り巻く「環境」の分析だった。
前世の俺はIT企業でシステム開発やデータ解析に携わっていた男だ。最新のテクノロジーやネットワーク家電の仕組みについては、人一倍明るい自信があった。
(このタワマンのリビングを見渡してみろ……。壁に埋め込まれたスマートスピーカー、家中をネットワークで繋ぐスマートリモコン、自動調光の照明、そして音声認識型のAIアシスタント「アレクサ」……。これらはすべて、今の俺にとって最強にして唯一の武器になり得る)
大人の知能を持ちながら、肉体は首すわりすらおぼつかない赤ん坊。物理的な暴力や直接的な証拠集めなど、今の俺には到底不可能だ。しかし、現代の高度にデジタル化されたスマートホームのシステムであれば、人間の「うっかりミス」や「偶然の誤作動」を演出することで、敵の油断を誘い、決定的な秘密を暴くことができる。
俺は虎視眈々とその機会を伺っていた。そして、そのチャンスは意外と早くやってきた。
ある日の午後、再び神条がこの部屋を訪れたのだ。
「いやぁ、例の相続手続きの書類に少し不備があってね。君の署名と捺印をもう一度確認したくてさ」
神条はそう言って、表向きは法的な事務手続きを口実に、堂々とリビングに入り込んできた。愛華も「まあ、神条さん、わざわざありがとうございます」と、嬉しそうに彼を迎え入れ、ワイングラスを傾けながらソファに並んで腰掛けていた。
二人は、赤ん坊である俺がベッドですやすやと眠っている(あるいは何も理解していない)と思い込んでいる。だからこそ、会話のトーンに油断が生じていた。
(今だ……! あの二人の密談を録音してやる)
俺はベビーベッドの中で目をパッチリと開き、周囲の状況を細かく観察した。
リビングの中央に置かれたガラステーブルの上には、神条が持ってきたビジネスバッグと、愛華のスマートフォン、そしてリビング全体の家電を統括するスマートリモコンの端末が転がっている。
問題は、どうやってアレクサの録音機能やスマートリモコンを「偶然の誤作動」として起動させるか、だ。
俺は意識を集中させた。自分の意思とは異なる小さな手足を、わずかにバタバタと痙攣させるように動かす。赤ん坊特有の「手足を不規則に振り回す反射運動」を利用するのだ。
幸いなことに、ベビーベッドのすぐ脇には、リビングのサイドボードへと繋がる配線や、音声を拾いやすい位置に配置されたスマートスピーカー(Echo端末)の延長コードが垂れ下がっていた。
(いける……!)
俺は全身の力を振り絞り、わざと大きな声で「うぇーっ! ぐえっ、あーっ!」と、苦しそうに、かつ甲高い泣き声を上げた。
「あら、どうしたのかしら? おむつが気持ち悪いのかしらね」
愛華が眉をひそめ、ソファから立ち上がろうとした。
しかし、それを神条が手で制した。
「いいよ、愛華さん。今は大事な書類の話をしているんだ。少しぐらい泣かせておきなさい。どうせ赤ん坊なんて、すぐに泣き止むさ」
「でも……」
「いいから。それより、あの事故の件の処理について、警察や検察の裏付けは完全に塞いでおいたから安心しなさい」
その瞬間だった。
俺はまさにその言葉を待っていた。
ベッドの端に引っ掛けていた小さな足を勢いよく蹴り上げ、サイドボードの上に置かれていたおもちゃのガラガラを、計算された軌道で床へと落とした。
ガシャン! と乾いた音がリビングに響き渡る。
「っ、なんだ!?」
驚いた神条が反射的に立ち上がった際、彼の肘がガラステーブルの上に置かれていたスマートリモコンの物理ボタンに強く接触した。
それは、俺が数日前から赤ん坊の腕や足の反射を利用して仕込んでおいた「罠」の連鎖だった。
おもちゃの落下音に驚いた神条の動き、そして俺が発した特定の周波数の泣き声。それらが複雑に重なり合い、リビングの壁際に設置されていたスマートスピーカーのアレクサが、偶然のシステムエラーと音声誤認を起こしたのだ。
『――システム録音およびクラウド同期を開始します』
無機質な電子音が、リビングの静寂の中にハッキリと響き渡った。
「なっ……!? なんだこの音は!」
神条の顔色が一瞬で青ざめた。
愛華もハッとして立ち上がり、スピーカーのほうへ視線を走らせた。
「おい、これ……! 電源を切れ! 何が始まったんだ!?」
「わ、わからないわよ! いつもはこんな機能……!」
パニックに陥った二人は、それがまさか赤ん坊である俺が意図的に引き起こした「偶然の誤作動」の演出だとは夢にも思っていなかった。彼らは慌ててスマートスピーカーのコンセントを引き抜こうと飛びつき、そのドタバタ劇の中で、まさに喉から手が出るほど欲しかった言葉を、自らの口でハッキリと喋ってしまったのだ。
「落ち着いて神条さん! スピーカーの電源は切ったわよ、ねえ、大丈夫よね……!?」
「くそっ、焦るな! 大丈夫だ、誰も聞いてやしない! そもそも……あの事故の件は、すべて俺が完璧に裏で手を回してうまく処理したんだからな!」
――ガチャリ。
その瞬間、スマートスピーカーの内部メモリ、そしてクラウド上の安全なストレージサーバーへ向けて、決定的な音声データが転送・保存された。
神条と妻の密談の一部――「あの事故の件はうまく処理した」という自白の音声の録音に、見事に成功したのだ。
ベビーベッドの片隅で、俺は小さく息を潜め、冷酷な笑みを浮かべた。
録音データはすでに外部の安全なクラウドに暗号化されてアップロードされている。あの二人がどれほど慌てて現場を隠滅しようとも、一度デジタル化された真実は、もう二度と消すことができない。
神条と愛華は冷や汗を拭いながら「ふう、驚かせやがって……まったく、最近の家電は厄介だな」と胸をなでおろしていたが、その頭上には、すでに自分たちを破滅へと導く鋭い断頭台の刃が静かに振り下ろされていることなど、知る由もなかった。
泥沼の人狼ゲームにおいて、最初の「決定的な証拠」は、無力な赤ん坊の小さな知略によって、確実にその手中に収められたのだった。




