06 第2章:候補1・タワマンの隣人(エリート弁護士)
第1節:訪ねてきた「親切な隣人」
前世の記憶を持ったまま、愛する妻――いや、いまや俺を毒殺したかもしれない冷酷な毒婦・愛華の腹から生まれ落ちた赤ん坊として生きるようになってから、どれだけの時間が経っただろうか。
リビングのベビーベッドに寝かされたまま、俺の頭脳は常に高速で回転し続けていた。
前夜に脳裏をよぎった3人の男たちの影――弁護士の神条、IT役員の陣内、そしてトレーナーの陸斗。彼らはそれぞれ異なる武器と欲望を携えて、この港区の高級タワーマンションという密室の周りをハイエナのように嗅ぎ回っている。
(来るなら来い……。どいつが俺を殺した真犯人であれ、どいつがこの赤ん坊の本当の父親であれ、俺がすべての化けの皮を剥ぎ取って地獄の底へ引きずり下ろしてやる……)
小さな拳を固く握りしめ、歯ぎしりをしたい衝動に駆られながらも、外見はただの無力な乳児である俺は、ふんすふんまと鼻を鳴らして天井を見上げていた。
その時だった。
――ピンポーン……♪
上品で静かな電子チャイムの音が、洗練されたリビングルームに響き渡った。
その音を聞いた瞬間、キッチンで哺乳瓶の消毒をしていた愛華の動きが、ぴたりと止まった。
彼女の背中がわずかに硬直し、次の瞬間、まるで待ち焦がれていた恋人の訪れを告げるかのように、その表情がふわりと柔らかく、艶やかな色気を帯びた笑みに変わった。
(このタイミング、この来客の気配……。表向きの「アポなしの隣人」を装っているが、裏ではしっかりと密談の約束が交わされていたわけだ)
愛華は慌てて手を拭き、鏡の前で軽く髪と服装を整えると、玄関の方へと軽やかな足取りで歩いて行った。
俺はベビーベッドの隙間から、リビングを挟んで見える玄関の方向へと必死に視線を凝らした。
ガチャリ、と重厚なドアのロックが解除される音がして、外の空気がふわりと流れ込む。
「あら、神条さん。お疲れ様です」
愛華の声には、普段の演技じみた「か弱く哀れな未亡人」のトーンとは違う、どこか頼り切った、それでいて男を骨抜きにするような甘い響きが混じっていた。
「やあ、愛華さん。今日もいい天気だね。下のコンシェルジュに寄ったら、君宛ての荷物があったついでにね、ちょっと顔を出させてもらったよ」
低く、よく通る、知的で洗練された男の声が返ってきた。
そこに立っていたのは、このマンションの同じ高層階、数軒隣の部屋に住むエリート弁護士・神条だった。
隙のないダークネイビースーツ、シャツの第一ボタンを外した首元に光る高級ネクタイ、そして手にはデパ地下の高級な紙袋。四十代前半とは思えないほど引き締まった体躯と、知的さを演出するフチなしの眼鏡。その奥にある鋭い眼光は、表向きの「親切な隣人」という仮面の裏に隠された、冷徹な法曹としての計算高さを雄弁に物語っていた。
「まあ、わざわざすみません……。どうぞ、上がってくださいな」
「お邪魔するよ。……おや、今日の君は一段と綺麗だね」
神条はごく自然に、まるでこの家の主であるかのように慣れた足取りで玄関を上がり、リビングへと足を踏み入れた。その際、愛華の腰のあたりにふわりと伸びた手が、ごく自然に彼女の体に触れる。愛華もそれを拒絶するどころか、嬉しそうに微かに身を揺らせて受け入れていた。
(ふざけやがって……! 堂々と他人の家でイチャつきやがって……!)
ベビーベッドの中からその光景を目の当たりにした俺は、赤ん坊の小さな胸の内で激しい怒りの炎を燃え上がらせた。
前世の俺が汗水たらして働き、ローンを組んで手に入れたこのタワマンのリビングで、隣の部屋の弁護士が妻を抱き寄せている。これ以上の屈辱が他にあるだろうか。
神条は手土産の紙袋をローテーブルに置き、ジャケットのボタンを外しながら、リビングの隅にあるベビーベッドへと視線を向けた。
「おっ、今日のジュニアはご機嫌いかがかな?」
神条は微笑みながら、すらりとした長い足をベビーベッドへと歩み寄らせた。
その足取りには、子どもに対する純粋な慈愛というよりも、どこか自分の所有物を検分するかのような、冷めた優越感が混じっているように俺の目には映った。
「ちょうど今、ミルクを飲ませて寝かしつけるところだったんです。抱っこしてみます?」
「ほう、いいのかい? じゃあ、少し失礼して……っと」
神条は慣れた手つきで、俺の体の下にすっと両手を差し入れた。
首の据わっていない赤ん坊の頭と背中を支えるその手つきは、子育ての経験がないはずの独身のエリート弁護士のものとしては、あまりにもスムーズすぎた。まるで、これまでにも何度も別の赤ん坊を抱いたことがあるかのような、淀みのない所作。
(なんだこの手慣れた感じは……? こいつ、まさか他の場所でも――)
持ち上げられた瞬間、神条のスーツの袖口から、ほのかな高級タバコと、愛華が使っているのとは違う刺激的な香水の匂いが鼻腔をかすめた。
「ほら、いい子だねぇ。泣かないのかい? なかなかの大物になりそうな目をしてるじゃないか」
神条は俺をひょいと高い位置に抱き上げ、面白そうに顔を覗き込んできた。
その至近距離で見た神条の瞳の色、鼻筋の形、そして薄い唇のライン。
前世の俺の顔とは似ても似つかない、しかしどこか見覚えのあるような、冷ややかなエリート特有の顔立ちが目の前にある。
(こいつが……俺の妻をたぶらかし、もしかしたら俺の死にも一枚噛んでいるかもしれない男の一人……神条……!)
神条に抱き上げられた瞬間、愛華がふうっと息を吐き出しながら、神条の肩にそっと寄りかかるようにして体全体を微かに揺らした。
その「体揺れ」は、男に甘える時の女性特有の仕草そのものだった。夫を亡くした悲劇の未亡人などという設定は完全に脱ぎ捨てられ、そこにはただ欲望で結ばれた共犯者同士の馴れ合いがあった。
「ねえ、神条さん……あの件、どうなったかしら?」
愛華が神条の胸元に顔を近づけ、小声で囁いた。
「あの件」――その言葉の裏に隠された意味を、俺の頭脳は瞬時に察知した。
前世の俺の死に伴う生命保険金の受け取り、遺産相続、そしてこのタワマンの名義変更に関する法的な手続きのことに違いなかった。
「フッ、心配いらないよ、愛華さん。君の希望通り、すべては完璧に法的な網の目をくぐらせて処理している。あの男の親族がいくら疑ったところで、証拠は一切残さない。すべては『病死』という診断書の通りにね」
神条は不敵な笑みを浮かべ、愛華の髪を優しく撫でながら答えた。
その言葉を聞いた瞬間、俺の全身の血液が一気に逆流した。
(――いま何て言った……!? すべては計画通りだと……!? 証拠は残さない、病死という診断書の通りにだと……っ!)
神条の口から漏れ出たのは、俺の死が偶然の病気などではなく、完全に仕組まれた殺人であり、それをこの弁護士が裏で隠蔽し、合法的に偽装したという動かぬ「自白」そのものだった。
怒りで頭が真っ白になりそうだった。
声を上げて飛びかかりたい。このクソ野郎の首を絞めて、今すぐその薄汚い笑みを引き剥がしたい。
だが、俺にあるのは生後間もない赤ん坊の小さな肉体と、頼りない産声だけだ。
「さすがですね、神条さん……。あなたがいなければ、私、どうなっていいかわからなかったわ」
愛華はうっとりとした表情で神条の首筋に腕を回し、その唇に自分のそれを重ねようとした。
まさにその時、俺は神条に抱かれた小さな腕を精一杯振り上げ、ありったけの力を込めて彼の高級なオーダーメイドスーツの胸元――ちょうど心臓のあたりを、ぐっと掴んで引き裂くように引っ掻いた。
「っ……!? な、なんだい、いきなり……!」
神条が顔をしかめ、慌てて俺の体を少し離した。
愛華も驚いたように目を丸くし、「どうしたのかしら、急にぐずり出しちゃって……」と慌てて俺を神条の腕から引き剥がし、自分の胸に抱き戻した。
「ふん、元気なガキだな。まるで、私に何かを訴えかけているような目つきじゃないか」
神条は自分のスーツの胸元についた小さな引っかき傷を苦笑いしながら払い、フチなし眼鏡の位置を直した。
その瞳の奥には、赤ん坊に対する無邪気な微笑みの裏で、わずかに警戒の色がかすめたのを俺は見逃さなかった。
(気づけ、神条……。お前がどんなに法を盾に隠れようとも、お前が犯した罪の証拠は、今まさにこの腕の中にあるこの赤ん坊が――前世の俺自身が、すべて暴いてやる……!)
タワマンの高層階に吹き抜ける風が、窓ガラスをガタガタと揺らした。
エリート弁護士・神条の来訪は、泥沼の人狼ゲームの第1幕を音を立てて切り開く、あまりにも危険で、しかし確実な復讐の狼煙となっていた。




