10 第2章:候補1・タワマンの隣人(エリート弁護士)
第5節:第1の疑惑の反転
リビングの床一面に散乱した膨大な書類の山。
その最も象徴的な位置に、無惨に広げられた一枚の白い用紙――前世の自分自身の名前が記された「生命保険証券(写し)」のコピー。
その瞬間、この港区の高級タワーマンションの一室を支配していた優雅で冷徹な共犯関係は、音を立てて崩れ去った。
「……これ、は……」
愛華は、震える両手で自身の口元を覆い、血の気が完全に引いた青白い顔で床の上の証券を見つめていた。
彼女の瞳孔は恐怖と動揺で激しく開き、作り上げていた「悲劇の未亡人」の完璧な仮面は、すでに粉々に砕け散っている。夫である俺を病死に見せかけて謀殺し、その莫大な生命保険金を合法的に掠め取るという計画の核心が、あまりにもあっけない形で、目の前の我が子の「吐き戻し」という予測不能のアクシデントによって白日の下に晒されてしまったのだ。
そして、その隣に立ち尽くすエリート弁護士・神条の顔面もまた、紙のように真っ青だった。
「ち、違う……! これは単なる法的リスクのシミュレーションであって、実際に保険金を不正受給しようなどという意図は――!」
神条は慌てて弁解の言葉を口走ろうとしたが、その声は上ずり、かつての知的で冷静なエリート法律家の威厳は微塵も残っていなかった。彼の足元には、先ほど俺が盛大に吐き戻したミルクがべっとりと付着し、特注のロロ・ピアーナのスーツの裾を汚している。汚れを気にする余裕すらないほど、彼は目の前の危機に圧倒されていた。
ベビーベッドの特等席から、俺――前世の記憶を持つ赤ん坊・佐藤一真は、冷ややかな瞳でその滑稽な姿を見下ろしていた。
(どうした、エリート弁護士。法律の網をくぐり抜け、すべてを完璧にコントロールしていたはずではなかったのか? たった一枚の証言と、赤ん坊の生理現象ごときに足元をすくわれるとはな)
胸のすくような思いと同時に、俺の脳裏には、先ほどまでの推論を根底から覆すための「次なる疑問」が湧き上がっていた。
神条は愛華の共犯者であり、保険金詐欺のブレーンであることは確定した。
だが――肝心の「この赤ん坊の父親(種馬)」は、いったい誰なのだ?
神条自身は、先ほどの密談の中で「遺産の山分けとマネーロンダリングが目的であり、このガキの父親になるつもりはない」とハッキリと言い放っていた。つまり、神条は愛華の「愛人」ではあっても、この肉体の遺伝子上の父親ではないということになる。
その疑念を代弁するかのように、精神的に追い詰められた愛華が、ヒステリックな声を上げて神条に詰め寄った。
「ちょっと、神条さん……! どういうことよこれ! あなたがすべて完璧に処理して、誰も気づかないように隠してくれているって言ったじゃない! なんでこんな証券があなたの鞄から出てくるのよ……! もしかして、あなた、私を裏切る気だったの……!?」
愛華の目は、かつて神条に向けられていたうっとりとした甘い光を完全に失い、狂気を孕んだ猜疑心の色に染まっていた。彼女にとって最も恐ろしいのは、計画の露呈以上に「自分が男に裏切られ、すべてを奪われること」なのだ。
しかし、神条もまた、愛華のその詰問に激昂したように顔を歪めた。
「ふざけるな、愛華! 私がいつお前を裏切った!? この書類が必要だと言い出したのはお前の方だろうが! まったく……これだから女の浅知恵は厄介なんだ」
神条は吐き捨てるようにそう言うと、乱暴に自分の髪をかきむしり、荒い息を吐き出した。そして、床に散らばった書類を拾い集めることもせず、冷ややかな視線を愛華――そして、ベビーベッドの中にいる俺へと向けた。
「……もういい。この計画はここまでだ。こんなところで証拠をバラ撒かれたのでは、私の弁護士としてのキャリアもすべておしまいだ。これ以上お前に関わっていたら、私の身が持たない」
「なっ……! ちょっと待ってよ、神条さん! 私たち、共犯同士じゃないの……!」
「共犯? ふざけるな。私はお前の保身や遺産作りのために、人生を棒に振るつもりはない。そもそもだ……」
神条は冷笑を浮かべ、まるで目の前にあるすべての状況を嘲笑するかのように、決定的な言葉を叩きつけた。
「私はね、愛華。君の愛人としてその肉体を抱き、法律の裏技でこの計画に協力してはいたが――このガキの『父親』などではない」
その瞬間、リビングの空気がピタリと凍り付いた。
愛華の表情が驚愕に歪む。「え……?」と、かすれた声が彼女の喉から漏れた。
ベビーベッドの中の俺もまた、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
――神条は妻の愛人だが、「子供の父親(種馬)」ではない。
神条は愛華の顔を冷たく見据え、さらに追撃するように、残酷な真実を口にした。
「驚いたか? 君は私がこの子の父親だと信じ込ませて私を繋ぎ止めようとしていたが、残念ながら私の遺伝子は、このガキのそれとは一切一致しない。……いや、そもそも、君自身が一番よく分かっているはずだ。この子が誰の種から生まれたのかをね」
「そ、そんな……! 嘘よ、だってあなたは私に――」
「私はただの協力者にすぎない。いや、もっと正確に言うならば……」
神条はジャケットの裾を乱暴にはたき、散乱したアッシュケースの中に無造作に書類を放り込むと、玄関の方へと背を向けた。その去り際に、彼は振り返ることもなく、まるで呪いの言葉のように冷ややかな一言を呟いた。
「――俺は、真の種馬の『代用品』に過ぎなかったのさ」
――神条「俺は種馬の代用品に過ぎない」という謎の言葉。
その言葉を残して、神条は振り返ることなく重厚な玄関のドアを勢いよく開き、タワーマンションの廊下へと姿を消した。
ガチャリ、とオートロックのドアが閉まる音が、静まり返ったリビングに空しく響き渡った。
第1の候補男――エリート弁護士・神条の完全な失脚、そして脱落。
彼が残していったものは、散乱した保険証券のコピーと、あまりにも不可解で、そして絶望的に不気味な「代用品」という謎の言葉だけだった。
「代用品……? どういうこと……? じゃあ、この子の本当の父親は……一体誰なのよ……ッ!」
愛華は頭を抱え、床の上に崩れ落ちるようにして絶叫した。
その顔には、自分が完璧にコントロールしていたはずの人生が、足元から音を立てて崩れ去っていくことへの恐怖と狂気が滲み出していた。
ベビーベッドの中から、俺は遠ざかっていく神条の足音の気配を感じ取りながら、深く息を吸い込んだ。
神条は種馬ではなかった。
彼はあくまで愛華の共犯者であり、遺産の山分けを狙うビジネス上のパートナー、そして愛華が周囲を欺くために利用した「カモフラージュ(代用品)」にすぎなかったのだ。
ならば、本当の父親は誰なのだ?
IT企業の元上司・陣内か。それともパーソナルトレーナーの陸斗か。あるいは、まだその姿すら表していない「第4の黒幕」なのか――。
神条の脱落によって、人狼ゲームの第1幕は終わりを告げたのではなく、より深く、よりおぞましい泥沼の第2幕へと突入しようとしていた。
(逃がさないぞ、神条。お前が撒いた種も、隠そうとした罪も、すべて法と世間の裁きを受けさせてやる。そして、残る野郎どもも……一人残らず、この地獄の底へ引きずり下ろしてやるからな……!)
赤ん坊の小さな拳は、怒りと闘志の炎を宿し、ガタガタと震えながらも、しっかりと未来を睨みつけていた。




