11 第3章:候補2・会社の元上司(IT企業役員)
第1節:前世の職場からの訪問者
弁護士・神条が「自分は種馬の代用品に過ぎない」という謎めいた、そして背筋が凍るような言葉を残してタワーマンションの部屋を去ってから、数日が変わらぬ冷たい沈黙を伴って過ぎ去っていった。
リビングの床に散乱していた生命保険証券のコピーや法的書類の数々は、愛華の手によって慌ててかき集められ、書斎の奥深くにある金庫へと再び押し込まれた。しかし、一度亀裂が入った共犯関係の信頼関係は、二度と元には戻らない。神条という強力な法的な盾を失った愛華は、かつての余裕と冷徹な美貌の裏に、底知れぬ恐怖と孤独という名の影を色濃く纏わせるようになっていた。
ベビーベッドの上で天井を見上げる俺――前世の記憶を持ったまま赤ん坊として転生した佐藤一真は、その母の変貌を冷ややかな瞳で見据えていた。
(神条は脱落した。あいつは愛華の愛人ではなく、あくまで遺産強奪のための法的ブレーンにすぎなかった。だが、それによって謎はより深く、よりおぞましいものになった。神条が「代用品」だとほのめかしたということは、この俺の肉体を形作った真の「種馬」――真犯人は、他にいるということだ)
神条が去った今、疑いの矢は必然的に、残されたもう一人の男たちへと向けられる。
その筆頭格が、前世の俺が生死を共にするほど働き詰めだったIT企業の本社で、絶対的な権力と冷徹な手腕を振るっていた取締役――「陣内」その人だった。
陣内は、表向きは部下思いの優秀で人格者な役員として社内外から厚い信頼を得ていた。だが、前世の俺が過労と病魔の足音に怯えながら毎日のように終電まで働かされていたあの地獄のようなプロジェクトの裏で、冷酷にリソースを搾取し続けていたのは他ならぬその陣内だった。そして、俺が病に倒れ、息を引き取る直前の数ヶ月間、陣内はわざわざ我が家にまで足を運び、「一真くん、無理をするな。君の奥さんのことは私がしっかり気にかけておくからね」と、薄ら寒い善人の笑みを貼り付けていたのだ。
(あの男が……この家にやってくる。それも、そう遠くない未来に)
予感は、驚くほど正確なタイミングで現実のものとなった。
――ピンポーン……♪
上品でどこか威圧感のあるチャイムの音が、洗練されたリビングルームに響き渡った。
その音を聞いた瞬間、キッチンで冷たい水を飲んでいた愛華の背中が、ビクリと激しく跳ね上がった。彼女の顔には、神条が去った時とはまた異なる、より直接的な恐怖と、どこか逆らえないプレッシャーの色が浮かんでいた。
(ほう……。神条が消え、パニックに陥っている愛華の元に、絶妙のタイミングで第2の男がやってくるというわけか)
愛華は慌てて乱れた髪を直し、深呼吸を一つしてから、足早に玄関へと向かった。
ガチャリ、と重厚なロックが解除され、ドアがゆっくりと開き、外の冷たい空気と共に、その男が姿を現した。
そこに立っていたのは、ダークグレーの特製オーダースーツを隙なく着こなし、引き締まった体躯と知的な中年特有の貫禄を漂わせた男――IT企業役員・陣内健一その人だった。
「やあ、愛華さん。しばらくぶりだね」
陣内の声は、低く、よく通り、そしてどこか底知れぬ圧力を感じさせるものだった。
彼は手に、高級洋菓子店のシックな手提げ袋を提げている。その仕草一つをとっても、ただの「部下の妻を労う元上司」という枠組みを遥かに超越した、支配者の余裕が満ち溢れていた。
「陣内さん……。よくいらっしゃいました」
愛華の声は、ほんのわずかに震えていた。彼女は陣内に怯えているのか、それとも別の理由で緊張しているのか。どちらにせよ、神条の前で見せていたような対等な共犯者の余裕はそこにはなかった。
「入り口で少し嫌な顔ぶれの弁護士を見かけた気がしたがね……まあいい。上がらせてもらうよ」
陣内は愛華の返事を待つこともなく、当然のように靴を脱ぎ、リビングへと足を踏み入れた。
その際、すれ違いざまに陣内の手が一瞬だけ愛華の腰のあたりに触れ、愛華がビクッと体を硬直させたのを、ベビーベッドの特等席から見ていた俺の瞳は見逃さなかった。
(……間違いない。こいつと愛華の間にも、ただの上司と部下の妻という関係では説明がつかない、ドロドロとした力関係と肉体的な繋がりが存在している)
陣内は悠然とリビングの中央へと歩を進め、イタリア製の高級ソファに腰掛けた。そして、鷹のような鋭い眼光を部屋の隅々に走らせた後、その視線をふと、リビングの一角にあるベビーベッドへと向けた。
「ほう……これが、その……一真くんの忘れ形見、か」
陣内の口元に、薄気味悪い笑みが浮かんだ。
彼は立ち上がり、足音を忍ばせるようにしてベビーベッドへとゆっくりと歩み寄ってきた。
ベッドのすぐ傍らに立った陣内を見上げた瞬間、俺の鼻腔を、かつて会社の役員室や出張先のホテルで嗅いだ覚えのある、強烈で刺激的な香水の匂いがかすめた。それは、神条のそれとも、前世の俺が使っていたものとも違う、どこか金属的で冷徹な、大人の男のフェロモンを誇示するような高級ブランドの香りだった。
「……可愛いものだな。目は……母親似か。それとも、別の誰かに似たのかな?」
陣内はそう呟きながら、すらりとした指先を伸ばし、俺の頬にそっと触れようとした。
その指先が触れる直前、俺は反射的に顔を背け、赤ん坊なりの不機嫌な泣き声を上げてやった。
「うぇーっ! ぶふっ、あーっ!」
「おや、嫌われてしまったらしいな。まあいい、赤ん坊というのは正直な生き物だ」
陣内は苦笑いを浮かべながら手を引っ込め、それ以上無理に触れようとはしなかった。その瞳の奥には、子どもに対する慈愛など一片もなく、まるで実験室のモルモットを観察するような冷徹な興味だけが宿っていた。
ソファに戻った陣内は、愛華が淹れたコーヒーを受け取ると、ゆっくりとカップを傾け、静かに口を開いた。
「でだ、愛華さん。そろそろ本題に入ろうか。……君も知っている通り、我が社の次期取締役改選や、株主総会への影響を考えると、一真くんの突然の『病死』に関する噂や、変な憶測が社内外に流れるのは非常に困るんだよ」
その声のトーンは、優しく未亡人を労うものなどではなかった。それは完全に、弱みを握った人間が相手を心理的に追い詰める時の「ビジネスの交渉」そのものだった。
「わ、わかっています……。警察の診断書も、保険会社の審査も、今のところは問題なく進んでいますから……」
愛華は冷や汗を拭いながら、か細い声で答えた。
「問題なく、ねぇ」
陣内は冷ややかに笑い、カップをテーブルに置いた。そして、前世の部下であった俺を悼むかのように、しかし演技であることを隠そうともしない芝居がかった口調でこう続けた。
「一真くんは優秀な部下だったよ。私の言うことをよく聞き、身を粉にして働いてくれた。彼の死は、会社にとっても、私にとっても本当に痛手だ……。まさか、あんな若さで突然心臓を患って死んでしまうなんてね。本当に……惜しい男を亡くしたものだ」
――惜しい男を亡くしたものだ。
その言葉を聞いた瞬間、ベビーベッドの奥底で、俺の魂が激しい怒りで沸騰した。
お前が言うか、そのセリフを。
俺を極限までこき使い、過労とストレスの泥沼に沈め、その上で愛華と裏で結託して俺の人生と命を奪い去っておきながら、どの面を下して「惜しい男を亡くした」などと抜かせるのか。悲劇の上司を演じるその薄汚い仮面を、今すぐその手で引き剥がしてやりたい。
愛華は陣内のその言葉に怯えたようにうつむき、「はい……本当に、一真も不憫でした……」と、か細い声で同調する演技を見せた。
だが、陣内の目的は、単なる追悼や世間話などではなかった。
彼はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を操作しながら、愛華に向かってさらに踏み込んだ、決定的な要求を突きつけたのだ。
「でだ、愛華さん。一真くんが残したあの特許の技術データや、社外秘のプロジェクト資料の件だが……君、例の『自宅のPC』からデータをクラウドにバックアップしていたはずだな? あれのアクセス権限を、今すぐ私に譲渡してもらおうか」
その瞬間、愛華の顔色がさらに真っ青に変わった。
「え……? そんな、あれは一真の個人的な研究資料で……会社とは関係のない――」
「関係ない? 彼は我が社の社員として、会社の機材を使ってそれを作成していたんだ。それに……君が今、生活に困窮せず、その高級タワマンで優雅に暮らせているのは、我が社から裏で流している特別手当と、私のサポートがあればこそだろう?」
陣内の声から優しさの仮面が完全に剥ぎ取られ、そこには冷酷な搾取者の本性が露わになっていた。
(なるほど……そういうことか)
ベビーベッドの陰で、俺は冷徹に状況を分析した。
陣内は、単なる愛人や共犯者ではない。彼はIT企業の役員という絶大な権力を利用して、前世の俺が残した知的財産や機密データを強奪し、さらには愛華を自らの支配下に置くことで、会社の資金と権益を完全に自分のものにしようとしているのだ。
神条が「法律と遺産」の男なら、陣内は「会社と情報の権力」の男だった。
神条が去り、崩壊しかけている愛華の要塞に、さらに巨大で凶悪な第2の影が、完全にその牙を剥き出しにして覆いかぶさろうとしていた。
(いいぞ、陣内。もっとその醜い欲望を剥き出しにしろ。お前が隠そうとしているその悪事の数々を、この赤ん坊の小さな手ですべて暴き、お前を会社ごと社会的失脚の泥沼に叩き落してやるからな……!)
前世の元上司の来訪は、泥沼の人狼ゲームをさらに過激で残酷なステージへと引き上げる、最高にして最悪の狼煙となっていた。




