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12 第3章:候補2・会社の元上司(IT企業役員)

第2節:香水の匂いと抱擁


タワーマンションのリビングルームに立ち込める空気は、冷え切ったガラス細工のように張り詰めていた。


IT企業の取締役である陣内健一が放つプレッシャーは、先ほどまでここにいた弁護士・神条のそれとはまた質が異なっていた。神条が「法律と遺産」という知的な武器で相手を絡め取る蜘蛛だとすれば、陣内は会社組織の権力と情報の圧倒的な暴力をもって、標的を逃がさない巨大な肉食獣そのものだった。


前世の俺――佐藤一真が命を削って働いていたIT企業の本社。その頂点に君臨する男が、いま、妻である愛華を精神的に追い詰め、前世の俺が残した知的財産や機密データの権利譲渡を迫っている。


ベビーベッドの特等席からそのやり取りを見つめながら、俺の頭脳は冷徹に状況を分析し続けていた。


「どうだ、愛華さん。私の提案を断る理由はないはずだがね」

陣内は高級ソファにゆったりと体を預け、冷ややかな笑みを浮かべながら愛華を見据えた。彼のその態度は、相手が自分の要求を飲むこと以外に選択肢を持ち合わせていないことを確信している者のそれだった。


愛華は青ざめた顔で唇を噛み締め、震える声で絞り出した。

「……少し、時間をください。私一人では、すぐに返事は……」

「時間? 君にそんな贅沢な時間が残されていると思っているのかね?」


陣内は鼻で笑い、立ち上がった。

その長身の体が放つ威圧感に、愛華はたまらず一歩後じさった。しかし、陣内はその場からすぐに玄関へ向かうわけではなく、なぜかリビングの隅、ベビーベッドへとゆっくりと足音を忍ばせるようにして歩み寄ってきた。


(……なんだ? こいつ、何を考えている)


俺は赤ん坊の小さな体をこわばらせ、じっと陣内の動きを目で追った。


陣内はベッドの柵に手をかけ、中に寝かされている俺を見下ろした。その瞳には、子供に対する慈愛や、かつての部下の遺児に対する哀悼の情など一片もなかった。そこにあるのは、自らの支配欲と、すべてを掌握しているという傲慢な満足感だけだった。


「……ふっ。こうして間近で見ると、やはり不思議なものだな」

陣内は低く呟きながら、ジャケットのボタンを外し、無造作に両手をベビーベッドの底へと伸ばしてきた。


「え、ちょっと待って……何を――」


愛華の口から、思わず制止するような焦った声が漏れた。彼女の顔面には、先ほどまでの怯えとは違う、別の意味での強い動揺と恐怖の色が浮かんでいた。


しかし、陣内は愛華の制止を無視し、有無を言わせぬ手つきで俺の体をひょいと両手で抱き上げた。


「なに、親を亡くした可哀想な赤ん坊を、元上司として少しあやしてやろうというだけさ。心配するな、落としたりはしないよ」


陣内は不敵な笑みを浮かべ、俺を高い位置へと持ち上げた。


(くっ……! またこの男に触られた……!)


赤ん坊の未熟な肉体を持ち上げられ、俺の精神は激しい怒りと不快感で泡立ちそうになった。大人の知能を持つ俺にとって、この男に抱き上げられること自体が耐えがたい屈辱だった。今すぐその顔面に泥でも吐きかけてやりたい衝動に駆られる。


だが、その直後だった。

俺の全身の神経を、文字通り稲妻のように貫く「ある異常な感覚」が走った。


(……これは……!?)


赤ん坊特有の、まだ完全に発達しきっていないはずの鋭敏な嗅覚。

大人の何倍もの敏感さを持つその鼻腔を、陣内のスーツの胸元から漂ってきた香りが強烈に突き刺した。


それは先ほどリビングに入ってきた時に感じた、あの刺激的で金属的な高級ブランドの香水の匂いだけではなかった。

その微かな香りの奥底から、信じられないほど鮮明に、そしてあまりにも生々しく漂ってきたのは――。


(この匂いは……っ!)


俺の脳裏に、前世の記憶が強烈なフラッシュバックとなって蘇った。

毎朝、愛華が身支度を整え、出かける前の俺を見送る時に纏っていた、あの特徴的なローズとホワイトムスクを掛け合わせたような、甘く、それでいて少し官能的な柔軟剤と香水のブレンドされた匂い。

愛華が自宅の寝室やクローゼット、そしてお気に入りのリネンに好んで使い続けていた、あの「唯一無二の匂い」だった。


陣内が抱き上げてきた際、妻が普段つけている香水と同じ匂いが、陣内の体躯、そして特製オーダースーツの繊維の奥底からハッキリと香ってきたのだ。


「……っ!」


心臓が、麻痺したかのように一瞬で止まった。


偶然の一致などではない。

どれほど高級な香水をまとっていおうとも、人が日常的に使い慣れ、肌に染み込ませているお気に入りの匂いは、簡単に隠せるものではない。陣内が纏うその香りは、まさに愛華がこの家で毎日纏っている匂そのものだった。


前世の記憶が、怒涛の勢いで繋がり始める。


俺が会社で連日の残業や過酷なプロジェクトに追われ、深夜遅くに帰宅していたあの頃。

愛華が「あなた、お疲れ様」と出迎えてくれた時、彼女の体に染みついていた微かな男物の高級香水の匂い。当時の俺はそれを「取引先や、付き合いの長い友人から貰ったものだろう」と、何の疑いもなくスルーしていた。

いや、疑うことすらしなかった。愛華を信じ切っていたからだ。


だが、違った。

あの時、愛華を抱いていた男は――神条でも、陸斗でもなく、ほかならぬこの男、IT企業役員の陣内だったのだ。


(そうか……! そういうことだったのか……ッ!)


赤ん坊の小さな胸の中で、すべてのピースが狂気的なまでの精度で噛み合った。


神条は「自分は種馬の代用品に過ぎない」と言った。

それはつまり、神条が後から愛華の共犯者として引き込まれた「ビジネス上のカモフラージュ」にすぎなかったのに対し、この陣内こそが、もっと古くから、前世の俺が生きている頃から愛華と深く結びついていた「本当の愛人」だったということだ。


赤ん坊の鋭い嗅覚が捉えたその決定的な証拠は、二人が以前から深い関係にあったことを、疑いようのない事実として俺の脳裏に叩き込んだ。


「どうした? そんなにつぶらな瞳で見つめて……私を恐れているのかな?」

陣内は自分の腕の中で小さな体をこわばらせている俺を見て、満足げに低い声で笑った。


その顔を、俺は赤ん坊の視界の限界まで見据えた。

この男こそが、俺の妻を寝取り、我が家を裏から蝕み、そして俺を死へと追い込んだ真の共犯者の一人。

そして――この色素の薄い、ハーフのような顔立ちをした赤ん坊である俺自身の「本当の遺伝子の持ち主(種馬)」である可能性が、極めて高い男。


「……陣内さん、その子を、そろそろ降ろしてください」


少し離れた場所から、愛華がかすれた、恐怖に満ちた声でそう言った。彼女の顔には、陣内が俺を抱いていることに対する単なる気まずさだけでなく、自分たちの最も隠しておきたかった「過去の秘密」を赤ん坊に嗅ぎ取られているのではないかという、底知れぬ動揺が浮かんでいた。


「ほう、そんなに慌てなくてもいいだろう。可愛いものじゃないか……一真くんの、ね」

陣内は皮肉な笑みを浮かべながら、ゆっくりと俺をベビーベッドへと戻した。


ベッドに寝かされた瞬間、俺は小さく息を吐き出し、隠しきれない殺意の炎をその瞳の奥に宿した。


(わかったぞ、陣内。お前がどんなに役員の権力を振りかざし、会社を牛耳っていようとも、お前が愛華と交わしてきた淫らな過去も、俺を殺した共犯者としての罪も、すべてこの手で暴いてやる……!)


香水の匂いという、あまりにも身近で、しかし決してごまかしきれない決定的な証拠を掴んだ俺は、冷徹に次の反撃のシナリオを描き始めていた。

泥沼の人狼ゲームは、いまや最高潮の熱量を帯びて、さらなる修羅場へと突入しようとしていた。


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