13 第3章:候補2・会社の元上司(IT企業役員)
第3節:知育玩具のトラップ
IT企業役員・陣内健一が放つ圧倒的な威圧感と、愛華の纏う恐怖の色。そして、陣内のスーツから漂ってきた、妻・愛華が愛用する香水と同じ匂い――
二人が以前から深い肉体関係にあったという決定的な真実を掴んだ俺は、ベビーベッドの柵を小さな手で握りしめ、冷徹に次の機会を窺っていた。
(陣内……。お前が愛華の真の愛人であり、この俺の肉体を形作った「種馬」の最有力候補だということがよく分かった。だが、それだけではまだ足りない。奴らが交わした裏の取引、そして何より「DNAの真実」に関する決定的かつ具体的な証拠を、この耳でしっかりと捉えてやる……!)
陣内は、ベビーベッドから離れ、再びリビングのソファへと腰を下ろした。
彼の隣に座る愛華は、先ほどから冷や汗を拭い続け、明らかに精神的に追い詰められている。陣内が持ち出した知的財産や機密データの譲渡、そして会社組織の権力を背景にした強圧的な要求に、彼女は完全に呑み込まれつつあった。
「どうだ、愛華さん。私の要求を飲む気になったか?」
陣内は低く響く声でそう問いかけながら、持参していた高級革製のアッシューケースのジッパーをゆっくりと開けた。
愛華は震える声で、「……そんな急に言われても、私には……」と言葉を濁す。
その時、陣内はアッシューケースの中から、ずっしりと重そうな分厚い封筒を取り出した。
(――ふむ、あれは……!)
ベビーベッドの上で、俺は視線を鋭く光らせた。
陣内が取り出したその茶封筒は、明らかに通常の書類が入っているものとは厚みが違っていた。フチから覗き見えるのは、日本銀行券特有の、帯封が巻かれた大量の札束の色だった。
「これだけのものを用意したんだ。君の生活の面倒は私が責任を持って見る。だからこそ、余計なリスクは排除したい。……わかるね?」
陣内は不敵な笑みを浮かべ、その札束の入った封筒をガラステーブルの上に滑らせるようにして愛華の前に置いた。
愛華は目の前に置かれた札束の山を、恐怖と欲望が入り混じった複雑な眼差しで見つめた。その手は微かに震え、お金への執着が彼女の理性を少しずつ蝕んでいくのが痛いほどによくわかる。
だが、このままでは二人は声をひそめて秘密裏に話を終わらせてしまうかもしれない。奴らの口から「決定的な言葉」を引き出すためには、もっと注意をこちらに向けさせ、かつ油断を誘う必要があった。
(よし……ここで一手、仕掛けさせてもらうか)
俺は狙いを定め、ベビーベッドの足元に転がされていた「あるもの」に目をつけた。
それは、数日前に愛華が知育玩具として買い与えた、大きな電子式のピアノマット――叩いたり踏んだりすると派手なメロディや動物の鳴き声が鳴り響く、音の出る知育玩具だった。そのスイッチが、偶然にもベッドの端に触れる位置に放置されていたのだ。
俺はわざと体を激しく反らせ、赤ん坊特有の「激しいぐずり」を演出した。
「うぇーっ! ぐえっ、うわぁぁぁん……!」
突然の大きな泣き声に、リビングの空気がピリッと張り詰めた。
「っ、うるさいな……! また泣き出したぞ」
陣内が不機嫌そうに眉をひそめ、舌打ちをした。
愛華も慌てて立ち上がり、「ご、ごめんなさい、すぐに静かにさせるから……!」と焦った様子でベビーベッドへと駆け寄ろうとした。
「いい、そのまま座っていなさい。私があやしてやろう」
陣内は愛華を手で制し、自分でベッドのほうへと歩み寄ってきた。
(計画通りだ……。お前が近づいてくれば、それだけ音のトラップが仕掛けやすくなる)
俺はさらに泣き声をエスカレートさせ、全身をジタバタと暴れさせた。
小さな手足を不規則に振り回し、わざとベビーベッドの柵や床に設置されていた「音の出る知育玩具」をガタガタと叩き続けた。
ジャン、ピンポン、ニャー、ワン――!
知育玩具のセンサーが反応し、賑やかで電子的なメロディや動物の鳴き声が、リビングルームにこれでもかと大音量で鳴り響いた。
「まったく、騒がしいおもちゃだ……! 早くその音を止めろ!」
陣内は苛立ったように声を荒げ、自分で知育玩具の電源を切ろうと、ベッドの足元へと手を伸ばした。
その賑やかな騒音と、赤ん坊の激しい泣き声に紛れることで、陣内と愛華の間には「これだけの音が出ていれば、多少大きな声で話しても周囲(あるいは外部)には聞こえない」という強力な油断が生まれた。
おもちゃの音が鳴り響く中、陣内は愛華に向かって、低い声で鋭く言い放ったのだ。
「おい、愛華。しっかりしろ。……あの弁護士(神条)が抜けた今、頼れるのは私だけだ。例の海外の医療機関で行ったDNA鑑定の件だが、結果はどうだった?」
その言葉に、愛華の顔色が一層青ざめた。
「そ、それは……」
「ごまかすな。あの弁護士は『俺の子供ではない』と途中ですり抜けたがね……私のほうで裏から調べたところ、あのガキの遺伝子は、どうやら私のものでも、あの弁護士のものでも、あのトレーナーのものでもない可能性すら浮上している。……一体、どういうことだ?」
陣内の声には、単なる疑惑を超えた、底知れぬ猜疑心と冷徹な脅迫の色が混じっていた。
愛華は恐怖に震えながら、ガラステーブルの上に置かれた札束の封筒をきつく握り締め、かすれた声で答えた。
「ち、違うのよ陣内さん……! あなたの子じゃないなんて、そんな……! だから、お願いだから……!」
「だからこそだ。この札束を受け取ったら、余計な詮索はすべてやめろ。……これでDNAの件は黙っておけ。いいな?」
陣内が愛華に手渡した札束と、「これでDNAの件は黙っておけ」というその決定的な会話のすべてを、ベビーベッドの特等席から、俺の鋭敏な聴覚と頭脳は見事に察知し、記憶の深くに刻み込んだ。
(なるほど……! 陣内ですら、この赤ん坊が自分の子どもかどうか確信を持てていない。いや、それどころか、愛華が隠している「本当の父親(第4の存在)」の影に気づき始めている……!)
おもちゃの賑やかなメロディが鳴り響く中、俺は冷酷な笑みを心の中で浮かべた。
陣内が愛華に渡した札束。そして、DNA鑑定の真実を巡る醜い擦り付け合い。
奴らがどれほど札束と脅迫で口を封じようとも、泥沼の中で互いを疑い始めたその亀裂こそが、俺が奴らを共倒れさせるための最強の武器となる。
知育玩具のトラップは見事に成功し、敵の急所を抉る最高の手がかりは、すでにこの小さな赤ん坊の手の中に握られていたのだった。




