14 第3章:候補2・会社の元上司(IT企業役員)
第4節:PC画面の盗み見
リビングルームを支配していた張り詰めた空気は、知育玩具の電子音と赤ん坊の泣き声という偽りの混乱によって一時的に霧散したかのように見えた。しかし、その裏で交わされた陣内と愛華の会話――「これでDNAの件は黙っておけ」という脅迫と札束の授受は、二人の間に取り返しのつかない深い亀裂と猜疑心を刻み込んでいた。
ベビーベッドの中で、俺――前世の記憶を持ったまま赤ん坊として転生した佐藤一真は、荒い息を整えながら、冷ややかな瞳で二人の動向を観察していた。
(ふん……。札束で口を封じたつもりでいるが、あんな紙切れ一枚でこの泥沼の隠蔽工作が完ぺきに終わるとでも思っているのか。陣内、お前も内心では怯えているんだ。このガキの遺伝子が本当に自分のものなのか、それとも別の誰かのものなのか確証が持てず、夜も眠れないほどに焦っている)
IT企業の取締役という高い地位にあり、組織の権力と情報力を背景にすべてを思い通りにしてきた男であっても、「人間の遺伝子」という絶対的な真実の前では、ただの疑心暗鬼に囚われた臆病な獣に成り下がる。
その証拠に、陣内は愛華に札束の封筒を押し付けた後も、どこか落ち着かない様子でリビングのソファに深く腰掛け直した。彼は愛華に向かって「少し頭を冷やせ。私も仕事の続きがある」と吐き捨てると、足元に置いていた特製のジュラルミン製ビジネスバッグから、一台のハイエンドなノートPCを取り出した。
マットブラックの洗練されたボディ、キーボードの隙間から妖しく光るバックライト。それは、前世の俺がIT企業でシステム開発の現場で使い慣れていたものと同等、あるいはそれ以上の、高度なセキュリティが施された社外秘端末だった。
陣内は慣れた手つきで電源を入れ、指紋認証を瞬時にクリアすると、リビングのガラステーブルの上にそれを広げた。
(ほう……? この緊迫した状況で、わざわざ自宅のリビングでノートPCを開くとはな。しかも、愛華の目を盗むようにして、極秘裏に確認しなければならないデータがあるということか)
俺の頭脳が、瞬時に戦闘モードへと切り替わる。
今、この瞬間に陣内が何を見ようとしているのか。その画面の向こう側に、この泥沼の謎を解き明かす最大のヒントが隠されているに違いなかった。
だが、問題はどうやってその画面を覗き見るかだ。
今の俺は、未だに首の据わりきらない、はいはいすらままならない赤ん坊の肉体に閉じ込められている。ベビーベッドの中からガラステーブルの上に置かれたノートPCの画面を見ることは、物理的な角度的にどうあがいても不可能だった。
(……自ら近づくしかない。あの男に、再び抱き上げられるという屈辱を味わってでもな)
覚悟を決めた俺は、再び声を張り上げて激しく泣き真似を始めた。
「うぇーっ! ぐえっ、うあぁぁん……!」
「またか……! まったく、手のかかるガキだな!」
陣内は眉間手皺を寄せ、舌打ちをしながらイライラとした足取りでベビーベッドのほうへと歩み寄ってきた。
「泣き止まないなら、少し外の空気でも吸わせて……いや、違うな。おとなしくしていろ」
陣内は愛華がキッチンで水を飲んでいる隙を突き、面倒くさそうに両手を伸ばして、俺の体をひょいと雑に抱き上げた。
(よし……! 狙い通りだ、陣内!)
俺は赤ん坊なりの不機嫌な声を上げつつも、その体勢を計算し尽くされた角度へと巧妙に誘導した。
陣内は俺を片手でひょいと抱え上げ、もう片方の手でスマートフォンをいじろうとしたが、思い直したようにリビングの中央、ノートPCが広げられたガラステーブルのすぐ傍らへと歩み寄った。
「ほら、おとなしくしろ。これ以上泣くとうるさいぞ」
陣内はソファに腰掛け、俺を自分の右腕の間にしっかりと抱え込んだまま、目の前に広げられたノートPCの画面へと視線を落とした。
その瞬間――。
ベビーベッドの高さからでは絶対に視認できなかったノートPCのディスプレイの全体像が、俺の眼前に完璧に広がりを見せた。
(見えた……!)
暗い画面の中に浮かび上がっていたのは、一般的な国内のウェブブラウザの画面などではなかった。
暗号化されたVPN接続を介し、厳重な二段階認証を突破した先にある、見覚えのない英語のデータベース画面。
画面の最上部には、冷徹なフォントでこう記されていた。
――【 GLOBAL GENOME & FORENSIC LABS 】
――(国際ゲノム・法医学研究所 / 海外極秘DNA鑑定機関)
心臓が、激しく跳ね上がった。
(海外の極秘DNA鑑定機関へのアクセス履歴……だと……!?)
画面には、数件の鑑定依頼データがリスト形式で表示されていた。
それぞれのデータには、固有の検体コード(ID番号)と、採取された日付、そして「Status: COMPLETED(完了)」というステータスが刻まれている。
陣内の太い指先がタッチパッドを滑らせ、そのうちの一つのファイルをクリックして大きく開いた。
そこに映し出された詳細データを見て、俺の思考は一瞬で氷のように凍り付いた。
被検者A:JINNAI KENICHI(陣内 健一)
被検者B:SATOU AIKA(佐藤 愛華)
被検者C:INFANT-M(未命名・赤ん坊 / ――つまり、俺自身だ)
そして、その下部に叩き出されていた「父子確率(Paternity Probability)」の数値。
――【 父子確率:0.0% (不一致 / EXCLUDED) 】
「……っ!」
思わず、赤ん坊の喉から微かな息が漏れそうになった。
俺は必死に唇を噛み締め、声を押し殺した。
――陣内健一のDNAと、この赤ん坊(俺)のDNAは、完全に「不一致」。
つまり、陣内は、この赤ん坊の父親ではなかったのだ。
神条に続き、この陣内ですらも「種馬」ではなかったという衝撃の事実。
神条が「自分は代用品に過ぎない」と言い放ち、陣内がこれほどまでに焦燥と猜疑心に駆られて海外の極秘機関にまで多額の金を払ってまでDNA鑑定を急かしていた理由が、この瞬間、完全に氷解した。
陣内自身も、自分がこの子供の父親ではないという結果をすでにこの画面で突きつけられており、だからこそ愛華に対して「DNAの件は黙っておけ」と札束で口封じを図っていたのだ。
(じゃあ……一体誰なんだ……? 神条でもなく、陣内でもない。そして、まだ姿を現していないあのトレーナーの陸斗を含めても、この赤ん坊の遺伝子のパズルがどうしても噛み合わない……!)
冷や汗が、赤ん坊の小さな背中を伝い落ちた。
画面をスクロールしようとしたその時、陣内は不快そうに舌打ちを鳴らした。
「くそっ……何度見ても結果は同じか。俺の子ではないとなれば、あの女は一体どこの誰の種を宿したというんだ……?」
陣内が独り言のように呟いたその言葉は、俺の耳にハッキリと届いた。
彼は愛華が自分以外の別の男と裏でつながっており、しかもその男の正体を愛華自身も必死に隠していることに気づいていたのだ。
「陣内さん、何をしているの?」
キッチンのほうから、冷たい水を飲み終えた愛華が足音を忍ばせて戻ってきた。
その気配を察知した瞬間、陣内は素早い手つきでノートPCの画面をパタンと勢いよく閉じ、スリープモードへと移行させた。
「……なんでもない。仕事のメールを処理していただけだ。そんなことより、愛華、もう一度言うが、余計な波風を立てるなよ。私の足元に火がつくような真似をしてみろ……その時は、どうなるかわかっているな?」
陣内は冷酷な脅しの笑みを浮かべ、抱いていた俺を乱暴にベビーベッドへと放り戻すようにして寝かせた。
「っ……!」
ベッドのマットレスに体が強く打ち付けられ、鈍い痛みが走ったが、俺は声を押し殺し、何も見ていないかのように無垢な赤ん坊のふりをして天井を見つめ続けた。
陣内は愛華の返事を待つこともなく、自分の特製ジュラルミンケースを掴み、乱暴に玄関へと歩き出し、そのまま重厚なドアを荒々しく閉めて部屋を去っていった。
ガチャリ、と鍵が閉まる音が響き渡り、リビングには再び重苦しい静寂が戻ってきた。
ベビーベッドの中で、俺は小さな拳を固く握りしめ、冷徹に頭を働かせた。
(海外の極秘DNA鑑定機関へのアクセス履歴。陣内すらも不一致という絶対的な現実。――となると、残る候補はパーソナルトレーナーの陸斗、あるいは、まだ誰も知らない『第4の影』だけだ……)
泥沼の人狼ゲームは、いよいよ核心へと近づいていた。
奴らが隠し通そうとしている最大の秘密を暴き、すべての偽りを粉砕するためのカウントダウンは、確実に進んでいたのだった。




