15 第3章:候補2・会社の元上司(IT企業役員)
第5節:暴かれた買収
ノートPCの画面が冷たく暗転し、スリープモードへと移行したその瞬間も、リビングルームに漂う重苦しい空気は少しも和らぐことはなかった。むしろ、隠されていた秘密の蓋がほんの少し持ち上がったことで、その隙間から吹き出す毒気はより一層濃厚に、そして禍々しく部屋全体を汚染していくようだった。
ベビーベッドの特等席からその一部始終を見つめていた俺――前世の記憶を宿したまま赤ん坊として転生した佐藤一真は、静かに息を潜めながら、脳内でこれまでのパズルを猛烈な勢いで組み直していた。
(陣内健一……IT企業を牛耳る取締役であり、冷徹なまでの合理性と権力で周囲を支配してきた男。あいつがここまで焦り、海外の極秘DNA鑑定機関にまでアクセスして執拗に結果を確かめようとしていた理由が、これで完全に繋がった)
思い返せば、前世の俺が妻である愛華と暮らしていた頃、愛華は密かに「子どもが欲しい」という切実な悩みを抱えていた。なかなか子宝に恵まれない焦りと、周囲からのプレッシャーに精神をすり減らしていた愛華の姿を、俺は夫として何とか支えたいと奔走していた記憶がある。
しかし、その「不妊に悩む妻」の弱みにつけ込んだのが、他ならぬこの男――陣内だった。
陣内は、会社の権力と巨額の資金力を背景に、一般には出回らない最先端の医療支援や、信頼のおける高度な生殖医療のコネクションを愛華に差し出した。表向きは「部下の妻に対する会社ぐるみの福利厚生、あるいは温情あるサポート」という美しい大義名分を掲げながら、その実態は、絶望の淵にいた愛華を精神的・肉体的に自らの支配下へと絡め取る、極めて悪質な「買収」そのものだったのだ。
「私の力で君を救い、子どもを授けてやろう」――そう囁くことで、陣内は愛華を愛人関係へと引きずり込み、肉体を弄び、そして心までも完全に掌握したつもりでいた。
だからこそ、陣内は確信していたのだ。
愛華の腹に宿り、今こうしてこのタワーマンションのベビーベッドですやすやと(あるいは冷徹な殺意を宿して)眠っているこの赤ん坊こそが、紛れもない自分の「血統」であり、自らの支配の証であると。
だが――先ほど、ノートPCの画面に叩き出されていた残酷な真実は、そのすべての野望と妄執を木っ端微塵に粉砕した。
被検者A:陣内健一、被検者B:佐藤愛華、被検者C:未命名・赤ん坊。
海外の極秘DNA鑑定機関が弾き出した父子確率は、無慈悲にも「0.0%(不一致)」という絶対的な数字を示していた。
(陣内は不妊に悩む妻に医療支援を行い、自らの愛人として抱き込むことで完全に従属させていたが、海外の極秘機関で行われたDNA鑑定の結果は「不一致」だったと判明したのだ……!)
すべては陣内の独り相撲だった。
金を払い、権力を振るい、愛華を自らの所有物のように扱い、完璧なシナリオを描いていたつもりになっていながら、肝心の遺伝子の真実という一点において、彼は完全に裏切られていたのだ。愛華は陣内の経済力と医療支援を利用してはいたが、その裏で、さらに別の男の種を宿してこの世に生み落とした。
その絶望的な事実を自らの目で確認してしまったからこそ、陣内はあんなにも顔色を失い、逃げるようにノートPCを閉じてこの部屋を去っていったのだ。
しかし、プライドの塊のような男が、そのままおとなしく引き下がるはずがなかった。
ガチャリ、と重厚な玄関のドアが再び乱暴に開く音がリビングに響き渡った。
「……っ!?」
キッチンの片隅で冷や汗を拭っていた愛華が、ビクリと肩を震わせ、恐怖に満ちた目で玄関の方を振り返った。
一度は部屋を出ていったはずの陣内が、怒りと狂気に歪んだ表情を隠そうともせず、再びリビングへと土足で踏み込んできたのだ。
彼の手に握られていた特製のジュラルミンケースは床に激しく叩きつけられ、その中から数枚の書類がパラパラと散らばった。
「陣内さん……? あなた、どうして……忘れ物でも……?」
愛華は震える声を絞り出しながら、一歩、また一歩と後じさった。
だが、陣内の瞳に宿っていたのは、先ほどまでの「冷静なエリート役員」の仮面などではなかった。そこにあるのは、自尊心をズタズタに引き裂かれた男の、獣のような剥き出しの狂気だった。
陣内はゆっくりと愛華に近づき、その細い腕を容赦なく掴み上げた。
「痛っ……! 離して、陣内さん、痛い……!」
「ふざけるな……! 愛華、お前……私を愚弄する気か……!」
陣内の低い声が、リビングルームの壁を激しく震わせた。
「あの鑑定結果はなんだ……! 私がどれだけの金をかけ、どれだけの医療支援を施し、お前のすべてを救ってやったと思っているんだ……! それなのに……私の子供じゃないだと……!?」
その怒号は、あまりにも激しく、そして絶望に満ちていた。
愛華は恐怖のあまり涙を流し、「ち、違うの……聞いて、陣内さん……!」と必死に弁解しようとしたが、もはや陣内の耳には届かない。
「俺の子じゃないだと……!? じゃあ誰の不義の子だ……ッ!!」
陣内の絶叫が、タワーマンションの最上階にこだました。
――陣内「俺の子じゃないだと……!? じゃあ誰の不義の子だ!」と激昂。
その叫び声を聞いた瞬間、ベビーベッドの特等席からすべてを見守っていた俺の胸の内で、冷徹な歓喜の炎が燃え盛った。
崩壊だ。
弁護士の神条が去り、今度は会社の元上司である陣内が、愛華との間で決定的な破滅の泥沼へと足を踏み入れた。自分が手塩にかけて(つもりになって)囲い込んできた女に裏切られ、自分の子どもですらない「誰かの不義の子」を育てさせられていたかもしれないという事実は、エリートとしての陣内のプライドを完全に粉砕したのだ。
「い、いや……! あなたの子じゃないかもしれないけれど、でも、私にも事情が……!」
「ふざけるな! 許さない……お前も、その不義の子も、すべて私の手で地獄に落としてやる……!」
愛華の悲鳴と、陣内の狂気に満ちた怒声が混ざり合い、リビングルームはまさに地獄の様相を呈していた。
弁護士も、上司も、そしてトレーナーの陸斗も――すべての男たちが、愛華という毒婦の蜘蛛の巣に絡め取られ、そして自らの欲望と猜疑心によって互いの喉を食い破り合っている。
(いいぞ、もっと争え。お前たちが築き上げてきた欺瞞と殺意の城は、こうして内側からの自壊によって完全に崩れ去る。……そして、そのすべての裏で糸を引いている「真の黒幕」の影を、俺が必ずこの手で引きずり出してやる……!)
赤ん坊の小さな体の中で、復讐の炎は最高潮に達し、泥沼の人狼ゲームは、いよいよクライマックスへと向けて猛烈なスピードで加速していくのだった。




