16 第4章:候補3・パーソナルトレーナー(肉体派イケメン)
第1節:ジムのインストラクター来訪
弁護士である神条が「自分は代用品に過ぎない」と冷笑を残して去り、IT企業の取締役である陣内が「俺の子じゃないだと……!? じゃあ誰の不義の子だ!」と狂乱の絶叫を上げて去っていった後、港区の高級タワーマンションの一室には、まるで嵐の後のような重苦しい沈黙と、底知れぬ生臭い余韻だけが残されていた。
リビングの床に散乱していた証拠の数々は片付けられたものの、愛華の精神状態はすでに限界を迎えていた。夫を病死に見せかけて謀殺し、莫大な生命保険金と資産を奪い取るという彼女の完全犯罪のシナリオは、次々と暴かれる真実と、男たちの泥沼の疑心暗鬼によって音を立てて崩れ去りつつあった。
ベビーベッドの特等席からその一部始終を見つめていた俺――前世の記憶を持ったまま赤ん坊として転生した佐藤一真は、冷ややかな瞳でその荒廃したリビングを見渡していた。
(神条という名の法的ブレーンが落ち、陣内という名の権力と情報の柱が崩れ去った。……残るは、最後の一人だ)
弁護士でもなく、IT役員でもない。
若さと本能のままに愛華の日常を浸食し、肉体的な魅力で彼女を狂わせている、第3の男。
その予感は、傷ついた野獣のようにピリピリと張り詰めた空気の中、思いのほか早く現実のものとなった。
――ピンポーン……♪
上品で穏やかなチャイムの音が響いた瞬間、キッチンで冷水を飲みながら震えていた愛華の背中が、ビクリと激しく跳ね上がった。
先ほどまでの陣内による狂気の怒号と脅迫で、心身ともにすり減っていたはずの愛華の顔に、しかし、これまでに見せたことのない異質な変化が訪れた。怯えの色がサーッと引き、代わりに頬が微かに上気し、その瞳に妖艶な光が灯ったのだ。
(……ほう。このタイミングでやってくる来客は、一体どこのどいつだ?)
愛華は慌てて乱れた髪をかき上げ、鏡の前でリップを塗り直し、まるで今から最愛の恋人に迎えに行くかのような、弾むような足取りで玄関へと向かった。
ガチャリ、と重厚なロックが解除され、ドアが大きく開く。
そこに立っていたのは、これまでの二人の男たちとはまったく異なる、圧倒的な若さと躍動感をまとった男だった。
「やあ、愛華さん。こんにちは! 産後ケアの出張トレーニング、今日予約してたよね?」
爽やかで、それでいてどこか野性味を含んだ低くよく通る声。
そこに立っていたのは、愛華が産後太りの解消やリフレッシュの名目で通い詰めている高級プライベートジムの専属トレーナー・陸斗だった。
年齢は二十代半ば。長身で、タイトなトレーニングウェアの上からでもハッキリとわかるほどに鍛え上げられた圧倒的な肉体美。日焼けした浅黒い肌に、整った顔立ち、そして人懐っこくも油断ならない野生の獣のような瞳。
愛華が通うジムのトレーナー・陸斗が、産後ケアの名目で自宅にやってきたのだ。
「陸斗さん……! よく来てくれたわね。どうぞ、上がって……」
愛華の声は、先ほどまで陣内に対して怯えて震えていたものとはまるで違っていた。甘えを含んだ、トロけるような、まさに「女の顔」そのものだった。
彼女は陸斗の腕に自然に手を触れ、まるですべての悩みを包み込んでくれる救世主を迎えるかのように、彼を室内に招き入れた。
(ふん……。弁護士の知性と、役員の権力に怯えていた毒婦が、今度は若さと筋肉に溺れようというわけか)
ベビーベッドの隙間からその光景を眺めながら、俺の胸の内で冷徹な嘲笑が渦巻いた。
陸斗はごく自然に玄関を上がり、鍛え抜かれた分厚い胸板を揺らしながらリビングへと足を踏み入れた。その全身から漂ってきたのは、汗とムスクの香りが混じり合った、強烈な若い男のフェロモンだった。
陸斗はリビングの中央に立つと、余裕の笑みを浮かべながらストレッチをするように両腕を大きく伸ばした。
その圧倒的な肉体美と若さは、四十代半ばのエリートたちとは比較にならないほどの生々しい生命力を放っていた。
「いやあ、相変わらずいい部屋だな、このタワマン。……で、肝心のジュニアは元気にしてるのかい?」
陸斗はそう言いながら、愛華の腰を軽く引き寄せ、その体に自分の腕を回した。
愛華はその接触を嫌がるどころか、むしろ嬉しそうに身を預け、陸斗の胸元に顔をすり寄せるようにして微かに体を揺らした。妻も陸斗に対して、明らかに女の顔を見せていた。
(目の前で堂々とイチャつきやがって……! 神条が去り、陣内が狂乱したというのに、この男だけは別の次元で愛華を骨抜きにしているというわけか)
弁護士の知略、IT役員の権力、そしてパーソナルトレーナーの肉体。
愛華という女は、それぞれの男から自分の欲望を満たすためのピースを巧みに引き出しながら、その実、誰一人として心からは信用せず、利用し尽くそうとしていた。
だが、この若き肉体派トレーナー・陸斗は、これまでの二人とは決定的に異なる「危険な匂い」を纏っていた。
知性や法律、会社組織といった建前を一切持たず、ただ本能と野性の赴くままに動く肉食獣。
陸斗は愛華の肩を優しく抱いたまま、ふと視線をリビングの隅、ベビーベッドのほうへと向けた。
その瞳に宿っていたのは、子供に対する慈愛などでは断じてなかった。
そこにあったのは、愛華の注意を自分から奪う「邪魔な存在」に対する、剥き出しの冷徹な敵意と、底意地の悪い蔑みの光だった。
泥沼の人狼ゲームの第3幕。
若さと肉体の暴力性を武器にする最後の男の登場によって、タワーマンションの密室は、さらなる狂気と破滅の螺旋へと突入しようとしていた。




