17 第4章:候補3・パーソナルトレーナー(肉体派イケメン)
第2節:赤ん坊への冷血な視線
港区の高級タワーマンションの一室。弁護士・神条の失脚と、IT企業役員・陣内の狂乱という二つの嵐が通り過ぎた後のリビングルームに、若さと筋肉という別の狂気を纏った第三の男――パーソナルトレーナーの陸斗が足を踏み入れていた。
鍛え上げられた圧倒的な肉体美と、二十代半ば特有の野性的な躍動感。陸斗はこれまで登場したエリートたちとは違い、知性や法律、会社組織といった小賢しい建前を一切持ち合わせない。ただ剥き出しの本能と肉体の暴力性だけで生きる肉食獣。その男が愛華の肩を抱き寄せ、甘い香りと共にリビングのソファに腰掛けている。
ベビーベッドの特等席からその光景を見つめる俺――前世の記憶を持ったまま赤ん坊として転生した佐藤一真は、冷徹にその空気を味わっていた。
(神条は金と法律の共犯者であり、陣内は権力と情報の支配者だった。……では、この若き肉体派トレーナー・陸斗、お前の目的は一体何だ? ただの若い愛人遊びか、それともこの泥沼の最後にすべてを奪い取るための別の牙か)
愛華は陸斗の腕の中にすっぽりと包み込まれ、先ほどまでの陣内による恐怖の脅迫ですり減っていたはずの精神を、若さの熱量で癒やしてもらうかのようにうっとりと身を寄せていた。
「ねえ、陸斗さん……最近、私、本当に色々あって疲れちゃったの。あなただけが私の癒やしだわ」
愛華はか細く、甘ったるい声で陸斗の胸元に顔をすり寄せた。
陸斗は自信に満ちた笑みを浮かべ、愛華の髪を優しく、しかしどこか支配欲の色を帯びた手つきで撫でながら答えた。
「大丈夫だよ、愛華さん。あんなオッサンどもの相手なんてもうしなくていい。俺がついてるだろ? ……それに、あの旦那が遺した保険金や遺産の話も、そろそろハッキリカタがつくんだろ? そしたらさ、二人でパーッと海外でも行こうぜ」
その言葉を聞いた瞬間、ベビーベッドの奥底で俺の眉間がピクリと動いた。
(――今の発言、聞き逃さなかったぞ。陸斗、お前もだ……! 神条や陣内と同様に、お前も最初から愛華が手に入れようとしている「前世の俺の遺産と保険金」を狙って近づいていたというわけか!)
愛華は陸斗のその言葉にほんのわずかに表情を引き締めたが、すぐに甘えるような笑みに戻り、「そうね……すべてが片付いたらね」と答えた。
彼女は、自分がすべての男たちを手玉に取って利用しているつもりでいる。しかし現実には、寄ってくる男たち全員が、それぞれ異なる下心と毒牙を隠し持ちながら、愛華という毒婦の懐へ飛び込んできているにすぎない。
まさに、泥沼の中で互いの首を絞め合う共犯者たちのカルーセル。
「ちょっと……喉が渇いちゃったわね。冷たいお茶でも淹れてくるから、陸斗さん、そこに座って待っていてね」
愛華は甘い余韻に浸るように微笑みながら、陸斗の胸元からゆっくりと体を離した。
「ああ、いいよ。ゆっくりでいいさ」
陸斗が柔らかい笑みを返すと、愛華は「すぐ戻るからね」と小さく囁き、足音を軽く響かせながらキッチンの方へと歩いて行った。
――ガチャリ、とキッチンのパントリーの扉が閉まる音がした。
その瞬間だった。
リビングの中央に一人残された陸斗の顔から、先ほどまでの爽やかで人懐っこい「愛嬌のある若いトレーナー」の仮面が、まるでガラスが割れるかのように一瞬にして剥ぎ取られた。
彼の瞳から光が消え、代わりに底知れぬ冷酷さと、ドス黒い嫌悪感に満ちた野獣の眼光がむき出しになったのだ。
陸斗はふうっと息を吐き出すと、ソファの背もたれにもたれかかり、キッチンの方へとちらりと視線を走らせた。愛華が戻ってこないことを確認すると、彼の顔に浮かんだのは、冷ややかな嘲笑だった。
「れっきとした金づるのババアめ……。あのガキの面倒さえうまく押し付けられれば、あの巨額の保険金をごっそりいただくのも時間の問題か……」
陸斗は低い、毒を含んだ声で独り言を呟いた。
そして、その鋭い視線を、リビングの隅にひっそりと佇むベビーベッドへと向けた。
ベッドのすぐ傍らに立つ俺の小さな姿を捉えた陸斗の顔は、子どもに対する愛しさなど微塵もなく、むしろ目の上のたんこぶを見るかのような、剝き出しの殺意と嫌悪感に満ちていた。
彼は音を立てないようにゆっくりと立ち上がり、ベビーベッドの柵へと歩み寄ってきた。
(……来るか)
俺は赤ん坊なりの無垢な表情を装いながら、その瞳孔の動きを逃さず見据えた。
陸斗はベッドの柵に両手をかけ、中に寝かされている俺の顔をのぞき込んだ。その至近距離から発せられる空気は、冷たく凍り付くように重かった。
誰もいないリビング。愛華がキッチンで背中を向けているわずかな隙間。
そこで、肉体派トレーナー・陸斗は、ついに本性を完全に露わにした。
彼は俺の小さな顔を冷ややかに見下ろし、吐き捨てるようにこう呟いたのだ。
「――ちっ、邪魔なガキだ」
その声は、愛華には聞こえないほどの、しかし俺の鋭敏な赤ん坊の聴覚と頭脳には雷のようにハッキリと突き刺さる、低く濁った呟きだった。
「お前さえいなければ、あの女の財産も保険金も、すべて俺の思い通りになるってのに……。いつまでその無駄に生きたような顔してやがるんだ、クソガキが」
陸斗の指先が、ベビーベッドの柵を苛立たしそうに爪先でトントンと叩いた。
その仕草には、邪魔な障害物を一刻も早く排除したいという、隠しきれない暴力的な衝動が滲み出していた。
(――ふっ。ようやく本性を現したな、陸斗)
ベビーベッドの中で、俺は心の中で冷たく笑った。
神条は法律の網をくぐり、陣内は権力と情報で威圧し、そしてこの陸斗は、その圧倒的な若さと肉体の暴力、そして打算的な冷徹さで愛華のすべてを乗っ取ろうとしている。
誰もが愛華を利用し、そして誰もがこの赤ん坊である俺を「邪魔な障害物」として排除しようと狙っている。
だが、勘違いするなよ。
お前たちがどれほど冷酷な視線を向けようとも、どれほど陰湿な毒を吐こうとも、この無力な赤ん坊の皮をかぶった俺の頭脳と復讐心は、すでにあなたたちの喉元へと鋭い牙を突き立てているのだ。
「陸斗さん、お待たせ! 冷たい麦茶持ってきたわよー!」
キッチンのほうから、愛華の弾むような明るい声が響いてきた。
その声を聞いた瞬間、陸斗の顔から冷酷な野獣の表情が嘘のように消え去り、再びあの爽やかで人懐っこい「若いトレーナー」の仮面が完璧に装着された。
「おっ、ありがとう愛華さん! 喉カラカラだったんだよね」
陸斗は爽やかな笑みを浮かべながら愛華の方へと歩み寄り、何食わぬ顔で再び彼女の腰に手を回した。
その二人の背中を見つめながら、俺は小さな拳をベビーベッドの中でギュッと握りしめた。
赤ん坊への冷血な視線。「ちっ、邪魔なガキだ」という呟き。
そのすべてを鮮明に記憶に刻み込み、俺は泥沼の人狼ゲームを最終決戦へと導くための最期のトラップを、頭の中で静かに組み上げていった。




