85 第6章:決着(エピローグ)
第1節:天才幼児の日常
あの血塗られた絶望のペントハウスでの決戦、そして悪魔たちの自滅と連行劇から、早や数年の歳月が流れていた。
港区の超高層タワーマンションを包んでいた警察の赤色灯も、メディアを賑わせた巨大事件の報道も、今や過ぎ去りし過去の記憶となり、世間の記憶からは少しずつ薄れつつあった。前世の俺――佐藤一真を惨酷に死へと追いやった黒木宗一郎と愛華は、冷たく暗い鉄格子の奥で無期懲役の刑に服し、自らの犯した罪の重さと永遠の精神的苦悶の中に沈み続けている。
そして、その惨劇の渦中から救い出された俺は、今、地方の緑豊かな小高い丘の上に建つ、陽の光に満ちた平屋の住宅で穏やかな毎日を送っていた。
「宗真~! ご飯の準備ができたわよ! お手手を洗って食卓においで」
リビングから響くのは、俺を正式な養子として温かく引き取り、我が子以上に深い愛情を注いで育ててくれている養母の明るい声だった。
「はーい、お母さん。今行くよ」
俺は小さな木製の学習机の前に腰掛け、可愛らしい子供用のハサミと色紙を手に取りながら、ハキハキとした声で返事をした。
今の俺の姿は、どこからどう見ても、健やかにすくすくと育っている数歳の可愛らしい幼児そのものだった。小さく丸み帯びた頬、柔らかい髪、そして大きな瞳。しかし、その内側に宿っているのは、前世で日本最高峰の次世代AIインフラを一人で設計し上げた天才エンジニア・佐藤一真の大人の知性と、暗黒のフィクサーすらも自滅へと追い込んだ冷徹な謀略の記憶であった。
机の上には、子供向けの「知育ブロック」や「絵本」が並べられている。
一見すると、ただの幼児が楽しそうに遊んでいる光景に過ぎない。だが、そのブロックの組み上がり方は異常だった。幾何学的に計算された構造体、力学的な分散を考慮した耐震補強のような骨組み――。知育玩具の枠を遥かに超えたその造形美に、たまに自宅を訪れる近所の建築士や専門家たちが「……これは、本当にこの子が一人で作ったのか!?」と絶句することもしばしばだった。
(……やばいやばい。ちょっと集中しすぎて、大人の設計癖が出ちまったか)
俺は心の中で苦笑いしながら、小さな手で慌ててブロックの端を少し崩し、いかにも幼児が作ったような「アンバランスで可愛らしい形」へとカムフラージュした。
前世の俺は、自分の才能を鼻にかけることもなく、ただ純粋に技術を愛し、人に尽くす人間だった。だが、その才能と純粋さを悪魔たちに利用され、命まで奪われた。その教訓は、この新しい人生においても深く胸に刻まれていた。
目立ちすぎる天才性は、時に愚かな人間たちの嫉妬や強欲を引き寄せる毒となる。
だからこそ、今の俺は「少し発育が良く、頭の回転が速い元気で可愛い男の子」という仮面を被りながら、平穏で温かな日常を楽しんでいたのだった。
「まあ! 今日もブロックで素敵なお城を作ったのね。宗真は本当に手が器用で賢い子ねぇ」
食卓にスープとハンバーグを運んできた養母が、ブロックの城を見て目を細め、俺の頭を優しく撫でてくれた。その手は温かく、愛華が見せていたような嘘偽りや打算の冷たさは一切存在しなかった。
「ふふ、お母さんに見せたくて作ったんだよ!」
俺は幼い子供らしい無邪気な笑顔を浮かべながら、養母の膝に抱きついた。
養父もまた、地方で小さなIT関連企業と福祉施設を経営する誠実な人物で、夜帰宅すると「今日も宗真は良い子にしていたかい?」と俺を高く抱き上げてくれる。前世の俺が一度も味わうことの出来なかった「心から自分を愛し、守ってくれる温かい両親」との暮らし。それこそが、復讐を成し遂げた俺がこの新しい人生で手に入れた、何物にも代えがたい最高の財産であった。
昼食を終え、食後の自由時間になると、俺は自分の部屋へ戻り、学習机の引き出しの奥から「本物」を取り出した。
それは、養父が古くなって処分しようとしていた古いノートパソコンを、俺が秘密裏にパーツの組み換えとハンダ付けを行い、最高スペックの端末へと極秘カスタマイズした「専用ハッキングPC」だった。
小さな指先が、大人用のキーボードの上を滑らかな速度で叩き始めていく。
『カチャカチャカチャ、カタッ――』
画面に表示されたのは、前世の俺の遺志を継いで設立された『佐藤一真記念・次世代技術育成&社会福祉基金』のリアルタイム・ダッシュボードだった。
黒木や愛華から奪還し、社会へと還流させた数百億円の特許収入と運用資金は、今や世界中の若きエンジニアたちのスタートアップ支援や、不遇な環境に置かれた孤児・保護児童たちの教育支援事業として、透明かつ健全に運用されていた。
画面のログには、俺の基金によって救われた若き技術者たちからの感謝のメッセージや、新しく開発された人道的な医療AIツールのリリース情報が次々と流れていく。
(……よし。俺の遺した技術は、今度こそ正しい人々の手で、世界を良くするために機能している)
液晶画面の光を反射させながら、俺は静かに満足の息を吐いた。
前世の仇敵たちは地獄へ落ち、俺の命の結晶であった特許は救われ、そして俺自身は温かい両親のもとで「一人の子供」として平穏な幸せを享受している。
復讐劇は、完全に終わったのだ。
……だが。
プログラミング画面の片隅で、俺が前世から組み込んでいた自作の「グローバル・セキュリティ監視AI」が、不穏な異常アラートをかすかに点滅させているのを、俺の鋭い眼光は見逃さなかった。
画面の隅で点滅する、小さく赤い警告灯。
それは、黒木宗一郎の帝国が崩壊したことで生じた「闇の権力構造の空白」を狙い、世界中で暗躍し始めた「新たな悪魔たち」の存在を告げる、静かで、しかし確実な足音の始まりであった。
俺はキーボードから静かに手を離し、小さな自分の掌を見つめた。
「……平穏な日常は、何としても俺の手で守り抜く」
幼い少年の顔立ちの中に、かつて数千億の闇を一人で粉砕した天才エンジニアの冷徹な知性が宿る。
過去の因縁に決着をつけた俺の物語は、今、新たな平和な日々を守るための「未来の戦い」へと、静かにその一歩を踏み出そうとしていたのだった。




