84 第5章:因果(残された者たち)
第5節:過去との決別
秋の澄み渡る空から、柔らかで心地よい木漏れ日が差し込んでいた。
都心から少し離れた、静かな小高い丘の上に位置する霊園。風が吹き抜けるたびに、周囲の木々の葉がさらさらと耳に心地よい音を立てて揺れていた。
狂騒に満ちていたテレビのニュースや世間の喧騒は、この静寂に包まれた墓地までは届かない。かつて日本中を激震させた「政財界のフィクサー崩壊」と「天才エンジニア毒殺事件」の過熱した報道も、月日の経過とともに少しずつ沈静化に向かい、司法の場での淡々とした手続きへと移行していた。
その墓地の一角。整然と並ぶ墓石の中に、真新しい一基の石碑が佇んでいた。
墓石の表面には、簡潔かつ気品のある文字で、こう刻まれている。
『故 佐藤一真 之墓』
それは、前世の俺――愛華に毒を盛られ、冷たい病室の床の上で絶望とともに息絶え、その存在と成果を闇に葬り去られかけた、惨めな天才エンジニアの眠る場所だった。
「――ここね」
穏やかで温かみのある女性の声が、静寂の中に響いた。
声の主は、俺の新しい母となった女性――児童相談所での手続きを経て、俺を正式な養子として温かく迎え入れてくれた養母だった。彼女は落ち着いた色合いの服を着て、腕の中にしっかりと俺を抱きかかえながら、ゆっくりと墓前へと歩み寄ってきた。
隣には、優しく温かな眼差しを向けた養父の姿もある。
黒木宗一郎と愛華が逮捕され、両親としての権利を完全に失った後、俺は彼らのもとへ引き取られた。彼らは地方で誠実にIT事業と地域福祉を営んでおり、事件の凄惨な背景や俺の複雑な生い立ちを知った上で、「この子に、どこよりも温かい家庭と未来をあげたい」と心から俺を受け入れてくれたのだ。
養父が丁寧にバケツの水と柄杓を使い、前世の俺の墓石を綺麗に洗い流していく。養母は墓前に色鮮やかな季節の花を供え、線香に火を灯した。
白く細い線香の煙が、秋の柔らかな風に乗って、真っ直ぐに空へと立ち上っていく。
「一真さん……でしたね。あなたの残された遺産や技術は、基金となって多くの素晴らしい人たちのために役立てられているそうですよ。あなたの無念は、きっと多くの方々の手で報われたはずです」
養母は線香の香りを胸に吸い込みながら、墓石に向かって静かに手を合わせ、優しく語りかけた。
「あなたの想いがあったからこそ、私たちはこの子と巡り合うことができました。この子は、私たちが責任を持って、たくさんの愛情を注いで大切に育てていきます。どうか天国から、この子の成長を見守っていてくださいね」
養母の言葉には、何一つ偽りのない、純粋な祈りと優しさが込められていた。
養母の温かな腕の中で、抱っこ紐に包まれている赤ん坊――佐藤一真としての記憶と魂を秘めた俺は、静かに墓石を見つめていた。
(……前世の俺か)
墓石に刻まれた自分の名前を見つめながら、胸の奥から湧き上がってくるのは、どこか遠い昔の出来事を思い返すような、静かで澄み切った感情だった。
前世の俺は、真面目だけが取り柄の冴えないエンジニアだった。
愛華という女を運命の相手だと信じ込み、不自由のない生活をさせたくて自分の服すら買わず、趣味も諦め、連日終電まで残業をして体を壊すまで働いた。だが、その結末はあまりにも残酷だった。
毎日のスープに少しずつ毒を混ぜられ、病死に見せかけられて命を奪われ、息絶える間際に「愛していなかった。黒木様の富が目的だった」と冷笑された。そして、命をかけて開発したAI特許も、自分と愛華の子だと信じていた我が子(俺の肉体)も、すべてが仇敵・黒木宗一郎の手の中に落ちていた。
あの死に際、俺の胸の中に渦巻いていたのは、血を吐くような無念と、底知れぬ憎悪と殺意だった。
だが――。
今、俺の視線の先にある現実は、前世の俺が夢見たものよりも遥かに完全な形で、悪魔たちへの制裁を完遂していた。
黒木宗一郎と愛華は、無期懲役という逃れられない地獄の底で、お互いに醜く罪を擦り付け合いながら、一生涯を暗く冷たい鉄格子の内側で過ごすことになった。彼らが誇っていた数千億の帝国も、奪い取ろうとした特許利権もすべて破滅し、彼らが手に入れようとした富は一分たりとも残らなかった。
彼らが「完全犯罪の証拠」であり「最高の後継者」だと信じて疑わなかった赤ん坊(俺)の手によって、彼ら自身の防衛システムが牙を剥き、自らの手で築いた要塞の中で身動きひとつできずに崩壊していったのだ。
そして、神条、陣内、陸斗という使い捨てのハイエナたちもまた、自らの強欲と泥沼の猜疑心によって破滅し、全員が実刑と社会的抹殺という因果応報を受けた。
悪魔たちは一人残らず、自らの蒔いた種によって刈り取られた。
(……見ているか、前世の俺よ)
俺は赤ん坊の小さな瞳で、真っ直ぐに墓石を見つめた。
もう、お前を嘲笑う者は誰もいない。
お前が命を削って遺したあの基幹特許は、誇り高き正義の基金となり、これから世界中の若きエンジニアたちや、不当な環境に苦しむ子供たちを守るための強固な「盾」として生き続けていく。
お前が踏みにじられた尊厳は、奪還されたのだ。
「う……ぁ……」
俺の小さな口から、言葉にならない赤ん坊の声が漏れた。
養母が「どうしたの? 寒くなった?」と優しく頬を寄せて抱き直してくれる。その胸の温もりを感じながら、俺は心の中で、前世の自分に向かって最後の言葉を告げた。
(安らかに眠れ、佐藤一真。……俺たちの復讐は、これで完結した)
前世の激しい怨念の炎が、秋の静かな風に溶け込んでいくように、すーっと消えていくのを感じた。
俺の胸の中に残っていた「仇敵への殺意」や「前世の無念」という最後の残滓が、完全に精算された瞬間だった。
俺はもう、誰かを恨むための「復讐者」ではない。前世の怨念に縛られた亡霊でもない。
俺のこの肉体には、黒木と愛華という呪われた血が流れているかもしれない。だが、そんな因縁は、俺の手で完全に断ち切った。
俺を真の家族として愛してくれる新しい父母のもとで、俺は一人の人間として、自分の人生を堂々と生きていくのだ。
「さあ、そろそろ行きましょうか。お家で温かいミルクにしましょうね」
養父が優しく養母の肩を抱き、二人で微笑み合いながら、俺を抱えて墓前の階段をゆっくりと下り始めた。
霊園の丘を吹き抜ける秋風が、線香の白い煙を空の彼方へと優しく運び去っていく。
振り返ると、陽の光を浴びた真新しい墓石が、まるで俺の新しい旅立ちを静かに祝福しているかのように、どこまでも清らかに輝いていた。
過酷で醜悪な泥沼の連鎖は終わりを告げた。
「転生した妻の子」として始まった壮絶な復讐劇は、因果応報と、過去との決別をもって、ここに堂々の完結を迎えたのだった。
俺は養母の温かな胸に小さく頭を預け、どこまでも高く青く澄み渡る秋の空を見上げながら、新しく始まる未来に向かって、静かにその目を細めた。




