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83 第5章:因果(残された者たち)

第4節:赤ん坊の選択


事件の狂騒が嘘のように去り、世間を騒がせた「政財界のフィクサー失脚」と「天才エンジニア毒殺事件」は、関係者の逮捕と実刑判決という形で一応の破滅的決着を迎えた。


黒木宗一郎と愛華が連行され、無人となったあの港区の超高層タワーマンション・ペントハウス。警察による現場検証と証拠押収が完了した後、その静寂のただ中に残されたのは、ベビーベッドの上で静かに息をする一人の幼い赤ん坊――佐藤一真の魂を宿した「俺」だった。


実の母親である愛華は殺人罪および無期懲役の求刑によって親権を剥奪され、遺伝子上の実父である黒木宗一郎もまた終身の刑務所暮らしが確定している。血縁上の両親が揃って国家規模の凶悪犯として収監されたこの赤ん坊は、法的には「身寄りのない要保護児童」として、即座に都内の児童相談所および一時保護施設へと保護されることとなった。


静かな保護施設の個室。

清潔で陽の光が柔らかく差し込む部屋のベビーベッドの上で、俺は小さな自分の手を見つめていた。


視界に入るのは、まだ薄く柔らかい皮膚に包まれた赤ん坊の小さな拳。

この小さな指先一つで、俺は前世の命を奪った悪魔たち――黒木、愛華、神条、陣内、陸斗の全員を泥沼の自滅へと追い込み、数千億円規模の裏金と特許権をすべて無へと帰せさせた。復讐は完全に成就したのだ。


だが、すべての嵐が過ぎ去った今、俺の胸の奥には、冷たさと熱さが入り混じった一つの巨大な「問い」が残されていた。


(……俺のこの肉体は、一体何なのだ?)


それは、前世の佐藤一真としての記憶が蘇った時から、ずっと俺の魂の底に棘のように刺さり続けていた因果の呪縛だった。


前世の俺は、愛華という女を信じ抜き、彼女との間に生まれてくる子(俺)を自らの血を分けた愛しい我が子だと信じて疑わなかった。だが、その実体は、俺が命を削って働いている陰で、愛華が政財界のフィクサー・黒木宗一郎と密通して宿した「仇敵の血筋」だったのだ。


黒木宗一郎の遺伝子。

愛華という毒婦の遺伝子。


俺のこの肉体に流れている血液は、前世の俺を騙し、毒殺し、その成果を横取りした最悪の犯罪者たちの血に他ならない。

ハッキング端末のスクリーンに表示されていたDNA鑑定の数値、そして病室での恐ろしい告白の記憶が、今でも鮮明に脳裏をよぎる。


『この子はね……あなたの子じゃないのよ、一真。……私と、黒木様の「愛の結晶」なの』


その呪わしい言葉が、胸の奥で重く響く。

血縁だけで言えば、俺は自分を殺した男と女の血を100パーセント受け継いだ存在であり、「黒木と愛華の最高の後継者」としてこの世に産み落とされた肉体なのだ。


(黒木の血……愛華の血……。俺は、アイツらの呪われた因縁の証として、一生この肉体を抱えて生きていくのか?)


一瞬、暗い思考が脳裏をかすめた。

この肉体に流れる血が憎い。アイツらの遺伝子を持っているという事実だけで、自分自身の存在すらも汚されているような激しい嫌悪感が込み上げてくる。


その時だった。


「――よしよし、いい子ね。喉が渇いたのかな?」


優しく温かな声とともに、部屋の扉が静かに開き、一人の女性が歩み寄ってきた。

それは、児童相談所を通じて俺の臨時保護を担当している、ベテランの乳児院看護師だった。彼女は俺のオムツを慣れた手つきで確認し、温かいミルクの入った哺乳瓶を優しく口元へと添えてくれた。


彼女の瞳には、かつて愛華が見せていたような「自分の保身や道具として子供を見る狂気」など微塵も存在しなかった。

そこにあるのは、目の前にいる一人の小さな命を、ただ無条件に慈しみ、守ろうとする純粋な人間の温もりだった。


「大変な事件に巻き込まれて、かわいそうに……。でもね、もう大丈夫だからね。あなたには何の罪もないんだから」


看護師の女性は、俺の額を優しく撫でながら、心からの愛おしさを込めて呟いた。


「これからはね、温かいお家で、優しいお父さんとお母さんのもとで、たくさんの愛情を受けて大きくなるのよ。過去の嫌なことなんて、全部忘れていいんだからね」


その温かい手の感触と、飾りのない言葉が、俺の冷え切っていた魂の奥底へとじんわりと染み込んでいった。


(……何の罪もない、か)


俺は哺乳瓶の乳首を小さく含みながら、天井の柔らかな光を見つめた。


そうだ。

この肉体に流れている血液が誰のものであろうと、DNAの配列がどのように刻まれていようと関係ない。

この肉体を動かしている「魂」は、前世で泥をすするような苦労を重ね、エンジニアとしての誇りを貫き通し、自らの知性と信念で悪魔たちを裁き伏せた佐藤一真そのものなのだ。


親が誰であるかなど、俺の人生の価値に1ミリも関係がない。

黒木宗一郎がどれほど政財界のフィクサーとして君臨しようと、愛華がどれほど狡猾な毒婦として世間を狂わせようと、その遺伝子を受け継いだこの肉体が「どんな人間になるか」を決めるのは、血ではなく、俺自身の意志と選択だけだ。


アイツらは俺を「完全犯罪の証」や「自分たちの欲望の後継者」にしようとした。

ならば、俺がアイツらの思い通りになることこそが、最大の敗北ではないか。


俺は、アイツらの呪われた血の呪縛を、自分自身のこの手で完全に断ち切ってやる。

黒木の血を引いていようと、俺は黒木宗一郎にはならない。

愛華の血を引いていようと、俺は愛華のような醜い人間にはならない。


俺は、前世で果たせなかった「人間としての本当の幸せ」を、この新しい人生で、自分自身の足で掴み取ってみせる。


(……俺はもう、誰の道具でもない。誰の復讐の亡霊でもない。俺は……一人の人間として、新しく生きるんだ)


胸の中で、熱く清らかな決意が固まった。

前世の未練も、毒殺された怨念も、黒木や愛華という因縁の泥沼も、すべては終わった過去の遺物だ。

俺が遺した特許権は社会を支える基金となり、俺を死に追いやった悪魔たちは永遠の暗闇へ消えた。


そして今、俺の目の前には、白紙の未来という名の新しいキャンバスが広がっている。


翌週、児童相談所を通じて、俺の正式な養親(里親)となる候補の夫婦が施設を訪れた。

それは、子供に恵まれず、長年温かい家庭を築くことを望んでいた、地方で小さなIT関連企業と福祉事業を営む、心優しい誠実な夫婦だった。


彼らは事件の報道や俺の複雑な生い立ちを知った上で、それでも「この子を本当の家族として引き取り、全力で愛したい」と、強い決意を持って面会にやってきてくれたのだ。


面会室の抱っこひもの中で、新しく父親・母親となるその夫婦が、涙ぐみながら俺を優しく抱きしめた。


「初めまして……。私たちのところへ来てくれて、本当にありがとうね」

「これから一緒に、たくさん楽しい思い出を作っていこうね」


その夫婦の温かい胸の温もりを感じながら、俺は赤ん坊の小さな手で、夫婦の指をしっかりと握り返した。


言葉はまだ発せられない。

だが、その小さな握り返しには、俺の新しい人生への「決意の返答」が込められていた。


前世の佐藤一真としての知性と記憶を秘めたまま、俺は一人の人間として、この新しい温かな家庭の中で一から育ち、新しい時代を自らの力で切り拓いていく。


黒木と愛華の血という呪縛は、完全に打ち砕かれた。

「小さな復讐者」としての役割を終えた俺は、今度こそ自分自身の本当の人生を歩むため、柔らかな光が差し込む新しい未来へと、静かにその第一歩を踏み出すのだった。

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