81 第5章:因果(残された者たち)
第2節:鉄格子の過ち
東京拘置所――。
巨大なコンクリートの壁と強固な鉄格子によって外の世界から完全に隔離されたその施設は、昼なお暗く、湿った冷気が廊下に漂っていた。
政財界の暗黒のフィクサーとして数百億の帝国を築き、国家の裏舞台を意のままに操ってきた黒木宗一郎。そして、己の美貌と狡猾さで前世の夫を死に追いやり、栄華を貪ろうとした毒婦・愛華。
かつて洗練された高級タワーマンションのペントハウスで優雅にワインを傾けていた二人は今、それぞれ別々の独居房で、灰色の壁と鉄格子に囲まれた絶望の刻を過ごしていた。
事件の社会的影響の大きさと、露呈した犯罪の悪質性・計画性から、勾留の執行は極めて異例の厳重さで行われていた。接見の機会は厳しく制限され、外部との通信は一切遮断されている。
そして、検察庁による徹底的な捜査と公判準備が進む中、彼らに突きつけられた求刑の提示は、あまりにも残酷で、逃れようのない現実であった。
――求刑・無期懲役。
死刑こそ免れたものの、それは「一生を暗く冷たい鉄格子の内側で過ごし、二度と莫大な富を手にすることもない」という、死よりも惨めな終身の不自由を意味していた。
面会室の厚いアクリル板を隔てた向こう側に、黒木宗一郎の姿があった。
かつてオールバックに整えられていた白髪交じりの髪はボサボサに伸び放題となり、肌は土色に痩せこけていた。囚人服の肩は落ち、あれほどまでに圧倒的な威圧感を放っていた「帝国の王」の面影は、どこにも残っていない。
彼の両手は細かく震え、血走った目は焦点を結ぶことなく、虚空を彷徨っていた。
「……あり得ん……こんなことが……あってたまるか……」
黒木は掠れた声で、うわ言のように同じ言葉を繰り返し呟いていた。
弁護団が提出した保釈請求はすべて即座に却下された。彼が長年かけて政財界に張り巡らせていた隠れ人脈や買収した要人たちも、一斉暴露によって自分たちに火の粉が降りかかるのを恐れ、蜘蛛の子を散らすように黒木から手を引き、今や誰一人として彼を救おうとする者など存在しなかった。
だが、黒木の精神を最も深く、致命的に叩き割っていたのは、社会的地位の失墜や財産の没収そのものではなかった。
彼の脳裏を昼夜問わず苛み続けていたのは、あの「絶望のペントハウス」で目撃した、あまりにも常軌を逸した恐ろしい真実だった。
「あの赤ん坊……。あの赤ん坊は……奴だったのだ……」
黒木は両手で顔を覆い、爪が肉に食い込むほど強く皮膚をかきむしった。
佐藤一真。
自分が病死に見せかけて毒殺し、その知的財産をすべて掠め取ったはずの天才エンジニア。
あの冷たい病室で息絶えたはずの男の魂が、自分が愛華との間に作ったはずの「我が子の肉体」へと宿り、自分たちの目の前に舞い戻っていたのだ。
自分たちが「完全犯罪の証拠」であり「最高の後継者」だと信じて疑わなかった赤ん坊。
その小さな手によって、自慢のセキュリティシステムは逆手に取られ、数百億の決済システムは瞬時に凍結され、隠し続けてきた汚職と殺人の全データが日本中にバラ撒かれた。
「最初から……すべて奴の手の上だったのだ……!」
黒木は突如としてがたがたと激しく震え出し、アクリル板に自分の額をガンガンと叩きつけ始めた。
「私が作り上げた最高峰のセキュリティも、スイスのプライベートバンクの口座も、我が子の誕生という歓喜すらも……! すべて奴が私を地獄へ叩き落とすために仕掛けた罠だった……! 私は……政財界のフィクサーと呼ばれたこの私が……生まれたばかりの赤ん坊に……佐藤一真という亡霊に、躍らされていたのだ……っ!!」
「面会人、静かにしなさい! 暴れると保護房に入れますよ!」
監視の刑務官が即座に怒号を飛ばし、黒木の肩を強く押さえつけた。
かつて一言発するだけで大臣や大企業の社長を青ざめさせた絶対的権力者が、いまや一人の刑務官に腕を捻り上げられ、大声で泣き叫びながら床に這いつくばっている。
「許さん……許さんぞ佐藤一真ぁぁぁっ! 私は負けていない……! 私は王だ……! 私の帝国を返せぇぇぇっ!!」
狂乱の叫び声が、冷たい面会室の廊下に虚しくこだました。
だが、その叫びに応える者は誰もいない。彼の言葉はただの精神に異常をきたした囚人の譫言として処理され、黒木は暗い独居房へと引きずられていった。
王のプライドも、絶対的な知性も、すべては「前世の男」という亡霊の復讐によって完膚なきまでに破壊され、彼は一生涯、己の敗北と恐怖の記憶に苛まれ続ける「狂気の囚人」へと成り果てたのだった。
一方、隣接する女子拘置区画の独居房――。
そこには、大理石の床の上で泣き崩れていた時の面影すら失った愛華の姿があった。
かつて数々の男たちを魅了し、自分の欲望のために夫を殺害した「美しき毒婦」。
その美貌は、連日の取り調べによる疲労と、精神的ショックによって完全に崩壊していた。肌は荒れ果ててカサつき、目は落胆と恐怖で窪み、かつてあれほど誇りにしていた艶やかな髪はボサボサに乱れていた。
愛華は狭い部屋の隅に丸まり、膝を抱えながら、血の出た指先でコンクリートの壁をカリカリと爪で引っかき続けていた。
「嘘よ……嘘よ……。私が何をしたっていうの……?」
彼女の口から漏れるのは、見苦しい自己弁護と絶望のつぶやきだけだった。
「私はただ……幸せになりたかっただけなの……。一真みたいな冴えない男と一生暮らすなんて嫌だったの……。だから黒木様を選んだのに……。どうして……どうして私がこんなところに入らなきゃいけないの……?」
彼女の脳裏には、取調室で検察官から冷酷に突きつけられた「現実」が何度もリフレインしていた。
神条は自分の保身のために愛華との密会記録を証拠として警察に提出し、陣内は社内裏金工作の全責任を愛華となすりつけ合い、陸斗は自供とともに愛華の指示があったと証言した。そして何より、命を捧げるほど心服していた黒木宗一郎自身が、「この女はただの使い捨ての小道具だ」と言い放ち、検察の前で愛華の罪をすべて暴露したのだ。
「みんな私を裏切った……。神条も、陣内も、陸斗も……黒木様まで……!」
愛華は壁に頭を打ち付け、むせび泣いた。
だが、彼女を真の狂気へと追い詰めたのは、男たちの裏切りだけではなかった。
あの「赤ん坊の声」――IoTスピーカーを通じて流れてきた、死んだはずの夫・佐藤一真の冷徹な声だった。
『愛華。お前が俺の食事に神経毒を混ぜていた時の言葉、一言一句たりとも忘れていないぞ』
『お前たちが「我が最高の後継者」だと信じて疑わなかったこの赤ん坊の肉体――それこそが、お前たち自身の手で築き上げた、処刑台なのだ』
その言葉が、愛華の脳内で何度も、何度も、耳障りな不協和音となってリフレインする。
「あああぁぁぁっ!! やめて……! 声を出さないで……っ!!」
愛華は両手で自分の耳を強く塞ぎ、部屋の床をのたうち回った。
自分のお腹を痛めて産んだはずの子。
前世の夫を死に追いやり、新しい栄華の象徴として抱きしめていたあの愛くるしい赤ん坊。
その赤ん坊の瞳の中に宿っていたのは、最初から自分を地獄へ引きずり下ろすために冷たく観察していた「殺された夫の魂」だったのだ。
自分が愛おしそうに撫でていたあの頬も、おむつを替え、ミルクを与えていたあの瞬間も、すべては前世の夫が自分たちの悪事を暴き、人生を完膚なきまでに破壊するための「準備期間」に過ぎなかった。
「あの子は……あの子は私の子供じゃない……! 悪魔よ……! 佐藤一真の亡霊よ……っ!!」
愛華は泡を吹きながら叫び、自分の爪で自分の首筋をかきむしった。
自分が犯した毒殺の罪。その罪の証拠であり、最高の後継者だと思っていた存在こそが、自分を絞首台へと誘う真犯人だったというあまりにも惨酷で、あまりにも醜悪な因果応報。
彼女が夢見た贅沢な暮らしも、数千億の富も、世界中の羨望を集める美貌も、すべてはただの幻影となって消え去った。
残されたのは、無期懲役という果てしない暗闇の年月と、一生涯消えることのない「手にかけて殺した夫の亡霊」への恐怖だけであった。
鉄格子の奥で、愛華の正気は完全に途切れ、彼女は二度と戻ることのない過去の栄光を叫びながら、暗闇の中でただひたすらに震え続けるのだった。




