80 第5章:因果(残された者たち)
第1節:奪還された特許
嵐のような警察の強制捜査と一斉検挙劇が過ぎ去り、港区の超高層タワーマンションの最上階ペントハウスには、久しぶりに深々とした静寂が訪れていた。
テレビのニュース番組やネット上の主要トピックスは、未だに連日「黒木グループ解体」「政財界のフィクサー逮捕」「天才エンジニア毒殺事件の真実」というショッキングなヘッドラインで埋め尽くされている。だが、その狂騒の外側で、国家規模の経済事件となったこの巨大な事案の後始末は、驚くべきスピードと緻密さをもって進行していた。
東京地検特捜部、金融庁、国税庁、そして国際金融警察(FATF)が連携して進めた財産保全手続きによって、黒木宗一郎および愛華が不正に海外へ送金しようとしていた数百億円規模のエスクロー口座は、差し押さえられ、不正資金の流入ルートは根底から塞がれていた。
そして何よりも、この事件の最大の核心であった「次世代AIインフラおよび分散型暗号処理に関する基幹特許」――前世の佐藤一真がその命を削り、深夜のオフィスで血の滲むような努力の末に書き上げたあの魂の結晶は、不正な権利譲渡契約の無効が法的に立証されたことで、黒木グループおよび不法ファンドの手から完全に奪還された。
「……これで、ようやくあるべき場所へ戻ったか」
ベビーベッドの冷たいシーツの上で、小さな体を横たえながら、赤ん坊(一真)は自分のハッキング端末にリアルタイムで表示される金融庁および法務局の公示データをじっと見つめていた。
画面上には、奪還された特許権と、黒木グループから押収された巨額の不正利潤の「新たな保護先および移管先」に関する決定事項が明確に刻み込まれている。
黒木や愛華、そして買収されていたかつての社内役員・陣内らは、この特許権を自らの私利私欲とスイス口座への高飛びのための「換金ツール」として利用しようとしていた。だが、前世の俺(一真)がこの技術を生み出した本当の目的は、そんな醜い欲望を満たすためでは断じてなかった。
この技術は、世界中のセキュリティシステムをより強固にし、無害な個人データやプライバシーが巨大資本や国家権力によって不当に搾取されるのを防ぐための、次世代の分散型安全インフラストラクチャだったのだ。
奪還された基幹特許および、それに付随する数百億円規模のライセンス収入・特許使用料は、法的な清算手続きを経て、新たに設立された正当な非営利法人――『佐藤一真記念・次世代技術育成&社会福祉基金』へと全額が正式に移管される運びとなった。
その基金の目的は明確だった。
一つは、前世の一真のように、優れた技術を持ちながらも巨大な企業権力や悪質な泥棒たちによって成果を掠め取られそうになっている若きITエンジニアやスタートアップ企業を、強力な法的・経済的防壁をもって保護・支援すること。
そしてもう一つは、毒婦や犯罪者によって家庭を壊され、虐待や不当な環境に晒されている幼い子供たちの未来を守るための、社会福祉および養護支援事業への多大な出資であった。
「……フッ、俺の遺した技術が、俺のような犠牲者を二度と出さないための盾になる……。悪くない結末だ」
赤ん坊の小さな唇から、かすかな満足の笑みが漏れた。
前世の俺は、愛華という女を信じ切り、彼女の喜ぶ顔が見たくて働き詰めになり、結果としてその命を毒殺という最悪の形で奪われた。
俺が遺したはずの財産や特許は、一時は毒婦と敵の手へと渡り、俺の存在そのものが彼らの栄華を飾るための「不都合な過去」として歴史の闇に葬り去られかけていた。
だが今、状況は逆転した。
黒木宗一郎が積み上げてきた数百億円の暗黒の資金は凍結され、彼らの不正な資産はすべて没収された。
そして、俺が遺した特許権は、世界中のエンジニアと子供たちを守るための「正義の盾」へと姿を変え、社会へと貢献し続ける社会資産として生まれ変わったのだ。
ハッキング端末のディスプレイ上で、特許の最終権利移移管を告げるステータスが「COMPLETED(完了)」と緑色に点灯する。
黒木も、愛華も、神条も、陣内も、陸斗も――誰も、この特許から一分たりとも不当な富を得ることはできなくなった。
彼らが命を奪ってまで手に入れようとした膨大な財産は、彼らの手元にはただの一円も残らず、彼ら自身を地獄へ送り込むための証拠書類と、社会へ還元される基金へと姿を変えたのだった。
「これで……前世の仕事に関する『未練』は、完全に片付いたな」
赤ん坊の小さな胸の中で、前世のエンジニアとしての佐藤一真の誇りが、静かに、しかし誇らしげに胸を張った。
前世で奪われたものはすべて取り戻した。
俺の技術は守られ、俺の尊厳は戻り、そして俺を死に追いやった悪魔たちは、自らの蒔いた種によって刈り取られた。
しかし、この奪還劇は、残された者たち(俺自身と、この新しく得た人生)にとっての「過去との決別」の第一歩に過ぎなかった。
特許権という社会的な未練を完全に精算した俺の視線は、いよいよ自分自身の「血の因縁」と、これから歩んでいくべき「新たな未来」へと向けられようとしていた。




