79 第4章:崩壊(帝国の終焉)
第5節:連行と落日
港区の超高層タワーマンションのエントランスホール。その広大な空間は、深夜であるにもかかわらず、昼間のように強烈な白色光と、無数のフラッシュの爆発による異常な熱気に包まれていた。
外の世界から完全に遮断されていたペントハウスの扉が開かれ、検察特捜部の捜査員たちに両腕を引き絞られた二人の人物が、冷たい大理石の床を歩かされてロビーへと下りてきた。
黒木宗一郎。そして、愛華。
二人の手首には、冷たく重い金属の手錠がしっかりと嵌められていた。
かつて日本経済界の頂点に君臨し、政財界の黒幕、裏社会の絶対的フィクサーとして数千億の資本と無数の人間の運命を意のままに操ってきた黒木宗一郎の姿は、そこにはもう微塵も存在しなかった。
先ほどまで彼が誇り、整えられていたはずの白髪交じりのオールバックは乱れ、仕立ての良い特製のオーダーメイド・スーツは自らが仕掛けた防犯ペッパーガスの粉塵と泥で汚れ果てていた。幾重もの修羅場を潜り抜け、あらゆる権力者たちを恐怖で震え上がらせてきたはずのその切れ長の瞳には、いまや完全なる敗北と、国家権力という巨大な暴力の前に叩きのめされた老人の、生々しい空虚と絶望の色しか宿っていなかった。
そして、その隣。
かつて「純白のウェディングドレス」に身を包み、人々の羨望の眼差しを浴びながら、前世の一真を欺き、黒木との甘い蜜月に酔いしれていた毒婦・愛華の姿もまた、見る影もなく惨めに崩れ去っていた。
頭部から流れた血が乾燥して頬に黒ずんだシミを作り、涙とマスカラでグシャグシャに歪んだ顔は、かつての可憐で美しいモデルの面影を完全に失わせ、見る者に悍ましいほどの狂気と老け込みを感じさせた。高級なブランドドレスの裾は破れ、ボロボロになりながら、彼女は自分の足で立つこともできず、捜査員たちに両脇を抱えられるようにして引きずられていく。
エントランスの外――。
タワーマンションの敷地を埋め尽くしていた数百人におよぶ報道陣、テレビ局のカメラマン、そして数々のネットニュースや週刊誌の記者たちが、血に飢えた群れのようにその瞬間を待ち構えていた。
「おい、来たぞ……! 出てきた……ッ!」
「特捜部による身柄確保だ! カメラの焦点を合わせろ!」
「黒木宗一郎! 愛華容疑者だ……ッ!」
扉が完全に開き、夜の闇を切り裂く無数のフラッシュの光が、二人の顔面へと容赦なく浴びせられた。
『パシャッ、パシャッ、パシャッ、パシャッ――!!』
連続するフラッシュの嵐は、まるで彼らの罪の深さを世界中に暴き立てるかのような、残酷なまでに強烈な尋問の光線だった。
「黒木会長! 佐藤一真氏の毒殺について何と言釈明されるのですか!?」
「愛華容疑者! 夫を殺害し、数百億円の特許権を国外へ不正に持ち出そうとしたのは本当ですか!?」
「黒木グループの不正資金洗浄について、ご自身の口から説明してください!」
「あなた方の共謀による殺人教唆の音声データが全メディアに公開されていますが、反省の言葉はありますか!?」
マイクを突き出す記者たちの怒号と、シャッターを切る機械音が、エントランスの夜気を完全に支配した。
これまで、黒木宗一郎という名前は、メディアの世界においてすら「タブー」であり、いかなるスキャンダルもその圧倒的な権力と金によって一瞬で揉み消されてきた。彼の名前を報じること自体が、記者生命を絶たれるリスクを伴うほどの、絶対的な恐怖の象徴だった。
だが、今やその「絶対的タブー」は完全に破られていた。
日本中のすべての人々が、テレビ画面やネットの生配信を通じて、かつてこの国の最高峰に君臨していたフィクサーと、その愛人が手錠をかけられ、醜態を晒しながらパトカーへと連行されていく姿をリアルタイムで目撃していた。
「離せ……! 撮影するな……っ!」
黒木はフラッシュの光と浴びせかけられる罵声に耐えかね、血走った目でカメラマンのほうへ顔を向けようとしたが、両脇を固める捜査員たちにガッチリと押さえ込まれ、一歩一歩、強制的にパトカーのほうへと歩かされた。
彼の誇り高き威厳は粉砕され、かつて自分が作り上げたメディアや権力の仕組みそのものによって、今度は自分が全国民のさらし者にされているという現実が、彼の自尊心を底の底まで叩きのめしていた。
一方の愛華は、もはや自分の足で歩く気力すら残っていなかった。
彼女はカメラの放つ無数の閃光と、自分に向けられる無数の蔑みの視線に耐え切れず、両手で顔を覆い、甲高い泣き声を上げた。
「いやぁぁぁぁっ……! 撮らないで……! 私を見ないでよ……ッ!」
彼女が喉を枯らして叫んでも、フラッシュの嵐が止まることはなかった。
自分が「被害者」の仮面を被り、世間の同情を集めてスイスへ高飛びしようとしたはずの計画は、すべてが音を立てて崩れ去り、残されたのは「夫を毒殺した極悪人」「泥沼の愛憎劇の末に逮捕された毒婦」という、消すことのできない永遠の烙印だった。
捜査員たちに押し込まれるようにして、黒木と愛華の身体は次々と最高検察庁の護送車、および警視庁のパトカーの後部座席へと押し込まれ、重いドアが『ガチャン』と冷たく閉ざされた。
『ウーーーーッ……ピポパポ、ウーーーーッ……!』
夜の静けさを引き裂くパトカーのサイレンの音が鳴り響き、無数の赤色灯が周囲のアスファルトを血のように赤く染め上げながら、車列はゆっくりとタワーマンションの敷地を離れ、東京地検特捜部へと向けて走り去っていった。
政財界のフィクサーの圧倒的な威厳も、毒婦の狡猾な美貌も、そして彼らが築き上げた数千億の帝国も――すべての栄光が、わずか一晩の間に、惨めなまでの「落日」を迎えて完全に消え去ったのだった。
そして――。
その歴史的な「帝国の終焉」と、二人の罪人が泥沼の末路へと連行されていく光景のすべてを、タワーマンションの最上階、ペントハウスの窓辺から見下ろしている影があった。
高級なベビーベッドの木枠に小さな両手を添え、静かに立ち上がっている赤ん坊――佐藤一真の転生体。
その瞳に宿っていたのは、歓喜の涙などではない。冷徹なまでの静寂と、すべての復讐が成就した者だけが持つ、圧倒的なまでの「超越者の光」だった。
(――これで、終わったわけではない。これから始まるのは、法廷という名の最後の処刑台だ。お前たちが犯した罪の重さを、その身の髄までたっぷりと味わうがいい)
赤ん坊の小さな唇が、微かに、そして美しく微笑んだ。
外の世界では、パトカーのサイレンの音が遠ざかり、静かな夜の闇が再び街を包み込んでいく。しかし、その漆黒の闇の向こうには、彼らが逃れることのでえない「永遠の断罪」という名の新しい夜明けが、確実にその姿を現そうとしていた。




