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78 第4章:崩壊(帝国の終焉)

第4節:醜い擦り付け合い


ペントハウスの空間を満たしていた高濃度ペッパーガスと高周波の防犯ブザーの轟音が、特殊なハッキング解除コードによって徐々に鎮められていった。


白煙がうずまく大理石のフロア。防毒マスクを装着した機動隊の精鋭たちと検察特捜部の捜査員が、床に倒れ込んで悶絶する護衛の男を取り押さえ、次々と手錠をかけていく。


「確保! 対象者の抵抗能力なし!」

「周囲の安全よし、ドアのクリアリング完了!」


緊迫した無線交信の声が飛び交う中、ガスの刺激で涙と鼻水にまみれ、見るも無残に床を這いつくばっている二つの影があった。

黒木宗一郎と、愛華である。


政財界の暗黒のフィクサーとして数千億の帝国を牛耳り、あらゆる人間の運命を意のままに操ってきたはずの黒木宗一郎は、先ほど自らが設計させた防衛セキュリティの罠(ペッパーガス)をまともに浴びたことで、かつての威厳を完全に剥ぎ取られていた。仕立ての良いオーダーメイドのスーツは泥と涙で汚れ、白髪交じりの髪は乱れ、呼吸をするたびにゼーゼーと見苦しい喘ぎ声を漏らしている。


そしてその数メートル先。

頭部から血を流し、高級なドレスの裾をボロボロに引き裂かれた愛華は、過呼吸を起こしたように肩を激しく上下させながら、虚ろな目で宙を見つめていた。彼女が夢見たスイスのプライベートバンク、数百億円の富、そして世界を我が物顔で闊歩する「悪魔の女王」としての未来図は、すべて音を立てて木っ端微塵に砕け散っていた。


「……身柄を確保しろ。黒木宗一郎、および愛華。二人の逮捕状を執行する」


冷徹な特捜検察官の号令とともに、屈強な捜査員たちが二人に歩み寄り、それぞれの両腕を乱暴に引き絞った。

『ガチャン、ガチャン――』

冷たい金属の手錠が、二人の手首に容赦なく打ち付けられた。


その瞬間だった。

これまで「絶対的な共犯関係」で結ばれ、お互いの背中を預け合っていると錯害していたはずの二人の間に、泥沼のような凄まじい猜疑心と恐怖の炎がスパークした。


「ま、待って……! 待って待って、検察官さん……!」


最初に声を荒らげたのは、床に這いつくばったまま必死に顔を上げた愛華だった。

彼女は手錠をかけられた両手を引きつらせながら、突入してきた検察官の足元へとしがみつこうと身悶えした。その瞳に浮かんでいたのは、共犯者への情愛など一片たりともなく、ただ己一人が生き残るための、狂気的なまでの保身の炎だった。


「私は……私は騙されていたのです……! すべては、この男――黒木宗一郎に脅され、いいように操られていただけなのです……っ!」


「なっ……!?」

その愛華の絶叫に、黒木は血走った目をカッと見開き、彼女を振り返った。


だが、愛華はもはや黒木の威光を恐れることすらなかった。彼女はヒステリックに声を張り上げ、目の前にいる元・愛人を指差して泣き叫んだ。

「そうだわ……! 夫だった佐藤一真を毒殺しろと命じたのも、この男です! 毎日私に特殊な毒物を渡し、『これをあの男のスープに混ぜろ、逆らえばお前の人生を終わらせる』って、私を脅迫して無理やり実行させたのは、この黒木宗一郎なのです……!」


「てめぇ……何をほざいている……!」

黒木は低く唸るような怒声を浴びせたが、愛華の狂乱はもう誰にも止められなかった。


「私はただ、この男の強大な権力に逆らえなくて……怖くて従うしかなくて……! 特許の権利を奪い取る計画も、すべてこの男が描いた悪魔のシナリオです! 私はただの被害者ですわ! 警察の皆さん、私をあんな男と一緒にしないで……! 私を助けてください……っ!!」


愛華は床に額を擦り付け、見苦しいほどの涙と鼻水を垂らしながら、自分の罪のすべてを黒木に擦り付け続けた。自分がかつて「私の愛する黒木様」「私の運命のパートナー」と呼んで崇拝していた男を、一瞬にして最大の悪党として警察に売り渡すことで、自分の刑期を少しでも軽くしようとする毒婦の底知れぬ身勝手さが、そこには剥き出しになっていた。


あまりの醜態に、取り押さえていた捜査員たちも思わず眉をひそめた。


だが――。

その愛華の捨て身の擦り付けを聞いた黒木宗一郎の顔は、怒りで引き攣ったのち、突如として冷酷なまでの「嘲笑」へと歪んだ。


「……フッ。……ハハハハ……!」


黒木は、泥だらけの顔で低く、しかし狂気的な笑い声を漏らした。

彼は自分の手首にかかった手錠を冷ややかな目で一瞥すると、這いつくばる愛華のほうを振り返り、その底冷えのする声を叩きつけた。


「おい、愛華。よくもまぁ、そこまで平然と嘘の台詞を並べ立てられたものだな」


「う、嘘じゃない……! あなたが私に毒を……!」

「黙れ、薄汚い泥棒猫がっ!」


黒木の怒声が、リビングルームの空気を鋭く切り裂いた。その声音には、かつての一国の経済界を動かしたフィクサーとしての威厳の代わりに、追い詰められた野獣のような生々しい殺気が満ちていた。


「確かに、一真という男を排除し、その特許を利用するためのスキームを構築したのは私だ。だがな、愛華……あの男に毎日欠かさず毒を盛り、気付かれないように少しずつその命を削り取っていったのは、一体誰の腕だ!?」


「っ……それは……!」

「お前が自ら進んで私のところへやってきて、『あの男を殺して、すべての財産と保険金を私とあなたのものにしましょう』と甘い声を出し、喜んで毒を盛る実行役を買って出たのはこの私だったか!? いや、お前自身だろうがっ!」


黒木は愛華の胸倉を掴み上げようと身を乗り出したが、捜査員たちに両腕を押さえつけられて阻まれた。しかし、その口から吐き出される言葉の刃は、容赦なく愛華の急所を突き刺していった。


「私を利用したなどとよく言えたものだ。お前は自分の虚栄心を満たし、巨額の富を手に入れるために、自らの夫を毒殺することなど何とも思わない、正真正銘の血も涙もない毒婦だ! 私を脅迫された被害者面をするな。あの夜、私のスマホにスピーカーフォンをつなぎ、佐藤一真が苦しみもがく声を聴きながら、自分の勝利に酔いしれて下劣な笑い声を上げていたお前のその醜い顔を、私は一生忘れないぞ!」


「やめて……! やめてよ、そんなこと言ってない……っ!」

愛華は耳を塞ぎ、キャッチボールのように頭を抱えて絶叫した。


「お前たちが企てた完全犯罪の証拠は、すべてこの私一人のものではない! お前が隠し持っていた裏の録音データ、お前が私に送ってきた共謀のメール、そのすべてが検察のサーバーに残っているのだ! 私一人だけを悪者にして、お前だけが綺麗に逃げられるとでも思ったか……!? お前も一緒に、この地獄の底へ落ちるんだよ、愛華ッ!!」


「いやぁぁぁぁっ――!!」


ペントハウスの吹き抜けの空間に、二人の引き裂かれるような怒声と罵り合いが響き渡った。

お互いの保身のためだけに、これまで築き上げたはずの「甘い蜜月」も「狂愛の絆」も一瞬で投げ捨て、相手を共犯者ではなく「すべての元凶」として警察の前に突き出し合う――。


かつて世界を欺き、数百億円の富と権力を手に入れようと企んだ極悪人たちの末路が、これほどまでに醜く、これほどまでに救いようのない「泥沼の責任転嫁」であるとは、誰が想像できただろうか。


「見苦しいぞ、二人とも。取調室でたっぷりとその言い分を聞かせてもらう」


特捜部の検察官が冷ややかに言い放ち、抵抗する間もないほど衰弱しきった黒木と、過呼吸で泡を吹きかけている愛華の身体を、それぞれ容赦なく引き起こした。


護送の捜査員たちに連れられ、二人はお互いに「お前のせいだ」「人殺し!」と醜く罵り合いながら、大理石の玄関ホールへと引きずられていく。

かつて彼らが誇り、すべての欲望を貪り尽くしたその豪華絢爛なペントハウスの扉が、冷たい現実の前に閉ざされていくのだった。


そして――。

その惨たらしい擦り付け合いの光景のすべてを、リビングの片隅に置かれたベビーベッドの上から、一言一句聞き漏らさず、冷徹なまでの光をたたえた瞳で見下ろしている赤ん坊があった。


佐藤一真。

赤ん坊の小さな体に宿ったその魂は、かつて自分を裏切り、毒殺し、人生のすべてを踏みにじった元妻と仇敵が、警察の突入によって追い詰められた途端に互いの足を引っ張り合い、泥沼の底で共倒れになっていく様を、余すところなく脳裏に焼き付けていた。


(――せいぜい、その泥沼の底で一生かけて争うがいい。お前たちが支払うべき代償は、まだ始まったばかりなのだから)


赤ん坊の小さな唇が、静かに、そして冷酷に微笑んだ。

神条、陣内、陸斗の自滅に続き、黒木と愛華の醜態による完全崩壊。

すべての悪魔たちが、自らの罪の重さと欺瞞の網によって完全に裁かれゆく「帝国の終焉」は、こうして成就を迎えたのである。

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