77 第4章:崩壊(帝国の終焉)
第3節:悪あがきの醜態
『ガシャァァン!!』
地鳴りのような凄まじい破砕音とともに、ペントハウスの重厚な金属製玄関ドアが外側から完全にこじ開けられた。
眩いばかりの捜査用ライトの光が、血のような赤色に染め上げられていた広大なリビングルームへと一気に雪崩れ込み、武装した検察特捜部の捜査員たちと機動隊の精鋭たちが、防弾シールドを掲げながら次々と突入してきた。
「動くな! 検察特捜部だ! 黒木宗一郎、および愛華! 二人の身柄を確保する!」
冷徹な警告の叫び声が、ペントハウスの吹き抜けの空間にこだました。
逃げ場など最初から存在しない。地上百メートルの天空に君臨していたはずの暗黒の王国は、国家権力の圧倒的な暴力の前に、今や完全に包囲されていた。
床に這いつくばり、頭部から血を流したまま半狂乱になっていた愛華は、突入してきた捜査員たちの姿を見るや否や、まるですがりつくかのように這い寄ろうとした。
「い、いやよ……! 私は騙されていたの……! あの男に利用された被害者なのよ……! 警察の皆さん、私を助けて……!」
だが、その愛華の情けない叫び声に耳を貸す捜査員など一人もいなかった。冷徹な手錠の金属音が響き、愛華の両手は容赦なく後ろへと引き絞られ、冷たい手錠の輪へと繋がれた。彼女の誇りだった美貌も、数千億円の富への執着も、一瞬にしてただの「容疑者の姿」へと成り下がった瞬間だった。
そして、その惨たらしい光景の真ん中で、黒木宗一郎の巨体は凍りついたように立ち尽くしていた。
彼の顔から、かつての「政財界のフィクサー」としての威厳は一切消え失せ、残されていたのは、すべての帝国を失った老いさらばえた捕食者の醜い絶望だけだった。
「……黒木宗一郎。貴様を、国家機密級の経済犯罪、インサイダー取引、組織的詐欺、および殺人教唆の容疑で逮捕する。令状の執行だ」
特捜部の検察官が冷徹な声で告げ、黒木の腕めがけて歩み寄ってきた。
屈強な捜査員たちが黒木の屈強な両腕を掴み、手錠をかけようと身構えたその瞬間――。
黒木の目に、狂気的なまでのギラギラとした光が戻った。
彼は自らの腕を掴んだ捜査員の力を力任せに振り払い、血走った目を血眼になってリビングルームの隅へと走らせた。
「……待てッ……!」
黒木の喉の底から絞り出されたその叫び声は、尋常ではない殺気と狂気を孕んでいた。
彼の視線の先――そこにあったのは、高級な木枠で作られたシーツ張りのベビーベッドだった。
黒木の脳裏によぎったのは、最後の悪あがきであり、この絶望的な状況を覆すための唯一にして最大の「切り札」だった。
――あの赤ん坊。
愛華の胎内に宿り、自分と愛華の「血の結びつき」であり、未来のすべてを受け継ぐはずの我が子。
警察も検察も、まさかこの国家権力の突入の最中に、目の前にいる国家犯罪の首謀者が赤ん坊を人質に取り上げるなどとは夢にも思わないはずだ。あの赤ん坊を盾に取れば、特捜部であっても迂闊に手出しはできまい。下手をすれば、そのまま屋上のヘリポートや脱出ルートへと交渉を持ち込むための「絶対の人質」として機能するはずだ。
「おい……!」
黒木は傍らに控えていた、まだ身柄を完全に押さえられていない一人の私設護衛の男へ、狂気に満ちた眼光を向けて怒鳴りつけた。
「何をぼさっとしている……! あのベビーベッドに行け! あの赤ん坊を抱き上げ、人質に取るんだ……! 奴らが動けないように盾にしろ! さもなければ、貴様らを今すぐこの場でクビにしてやる……!」
黒木の突然の命令に、護衛の男は一瞬たじろいだ。
だが、長年、黒木の裏社会における絶対的な恐怖支配に服従してきた男は、その命令に逆らうことよりも、目の前の「ボス」の狂気に引きずられるように、血走った目でリビングの隅にあるベビーベッドへと突進した。
「くっ……! 動くな! 近づくな!」
護衛の男が懐から冷たい銃身を取り出し、突入してきた特捜部の捜査員たちに向けて威嚇しながら、ベビーベッドの木枠へと手をかけた。
捜査員たちが「銃器だ! 伏せろ!」と叫び、一斉に身構えて銃口を黒木たちに向ける。一触即発の極限の緊張感が、ペントハウスの空気を鋭く切り裂いた。
護衛の男が、シーツに包まれた赤ん坊――佐藤一真の転生体の小さな体を荒々しく掴み上げようと、その両手を伸ばした。
――その瞬間。
ベビーベッドの中で、静かに横たわっていた赤ん坊の小さな目が、信じられないほどの冷徹な光を放って見開かれた。
(……来ると思ったぞ、愚か者どもが)
赤ん坊の小さな心臓の内で、佐藤一真の魂は冷笑を浮かべていた。
黒木がこの絶望の淵において、我が身可愛さに自分の血肉であるはずの赤ん坊すらも「人質」として躊躇なく利用しようとするその醜悪な本性――それは、あらかじめ予測されていたものだった。
一真の小さな指先が、シーツの奥に隠されていた極小のタッチパネル端末のコマンドキーを、一瞬の迷いもなく強く押し込んだ。
瞬間――!
ペントハウスの天井付近に埋め込まれていた数百個のスマートホーム用多目的センサーと、防犯・セキュリティ用のアクチュエータが一斉に起動した。
『プシューーーーーッ!!』
すさまじい高圧の噴射音とともに、リビングルームの天井および壁面の通気口から、目も開けられないほどの濃密な「高濃度ペッパーガス(催涙防犯ガス)」と、数秒で神経を麻痺させる特殊麻薬性の催涙スモークが、一斉に噴き出した。
「ぐはっ……!? なんだこれ……っ! 目が……目が焼けるように痛い……ッ!」
ベビーベッドに突進していた護衛の男は、至近距離からまともにそのガスを浴び、絶叫しながらその場で崩れ落ちた。彼は自分の顔を両手で激しく掻きむしり、呼吸困難に陥って白目を剥きながら大理石の床を転げ回った。
それだけではない。
同時に、ペントハウスの全域に設置されていた超高出力の「防犯警報ブザー」が、人間の聴覚の限界を遥かに超える130デシベル以上の超高周波音を一斉に鳴り響かせた。
『ピーーーーッ!!!! ピーーーーーーッ!!!!』
「ぎゃあああああっ……!! 耳が……! 鼓膜が破れる……ッ!!」
突入してきた捜査員たちも、あまりの突然の激しい高周波音と催涙ガスの襲撃に、思わず銃を取り落とし、両手で耳を塞ぎながらその場にしゃがみ込んだ。
部屋中が白煙と耐え難い耳鳴りのような爆音に包まれ、地獄のような大混乱に陥った。
その凄まじい混乱の只中で、最も激しい苦悶の表情を浮かべていたのは、他でもない――黒木宗一郎その人だった。
「がはっ……! はぁっ……、息が……! 目が……開けられない……っ!」
黒木は両手で顔を覆い、床に膝をつきながら荒い息を吐き出した。催涙ガスの直撃を受けた彼の巨体は、先ほどまでの威厳が嘘のように、ただの老いた肉体としての衰えを露わにしていた。
だが、彼を襲った苦痛は、単なる物理的なガスや騒音によるものだけではなかった。
その精神を最も深く、致命的に打ち砕いていたのは、この瞬間、彼の脳裏を駆け巡った「あまりにも皮肉で、残酷な真実」だった。
このペントハウスに設置されている最先端の防犯ガスシステム、侵入者撃退用の高周波警報ブザー、そして気密性とセキュリティを誇る自動防衛ネットワーク――。
それは他でもない、数年前に「この世のいかなる侵入者も絶対に寄せ付けない、我が王国の絶対の要塞」として、黒木宗一郎自身の厳格な監修と莫大な投資のもとに、自らの手で設計・導入させたものそのものだったのだ。
外部からの侵入を防ぎ、万が一の際には家主である自分たちを守るための「絶対の盾」として、黒木が誇らしげに作り上げたはずのその自慢のセキュリティシステム。
それが今、ハッキングされ、制御を乗っ取られた結果――警察の突入から身を守ろうとする自分たちを容赦なく攻撃し、脱出の道を完全に塞ぐ「自分自身の首を絞める最大の処刑刃」として牙を剥いていた。
「自分が……自分が作ったシステムに……殺されるだと……っ!?」
黒木は床に這いつくばり、泥水をすするような醜態を晒しながら、信じられないという思いで血走った目をしばたたかせた。
自分が愛用し、誇りとしていた技術の要塞が、そのまま自分を地獄へ引きずり込むための鉄の檻へと変貌する。
これこそが、他人の技術を奪い、命を弄んできた冷酷なフィクサーに対する、最も美しく、最も容赦のない「因果応報の鉄槌」であった。
白煙の立ち込めるリビングルームの隅。
催涙ガスや高周波の爆音の影響を特殊なハッキング制御によって完全にシャットアウトされていたベビーベッドの中で、赤ん坊の姿をした佐藤一真は、その小さな体をシーツにもたたせながら、冷徹なまでの光をたたえた瞳で、床に這いつくばる黒木の醜態をじっと見下ろしていた。
(――どうだ、黒木。お前が自慢げに築き上げたその鉄の要塞の居心地は)
赤ん坊の小さな唇が、静かに、そして勝ち誇るように歪んだ。
悪あがきは完全に粉砕され、自らが作った檻の中で息絶え絶えになる悪魔たちの姿を前に、復讐の炎はついに最高潮の輝きを放ち、帝国の終焉を完全に完遂しつつあった。




