73 第3章:開戦(絶望のペントハウス)
第3節:赤ん坊の「声」
血のような不気味な赤色に染め上げられた壁面のディスプレイが、不気味な電子音を細かに刻み続けていた。
超高級タワーマンションの最上階、ペントハウスの広大なリビングルームは、外の夜空がもたらす漆黒の闇と、室内の壁面から放たれるエラー警告の赤光とが混ざり合い、まるで地獄の底のような異様な光景に包まれていた。
脱出口であるはずの頑丈な金属製玄関ドアは、内部の油圧シリンダーによって完全にロックされ、護衛たちのいかなる物理的攻撃も受け付けずに冷たくそびえ立っている。プライベート・エレベーターはシャフトの途中で緊急停止させられ、外部との通信回線もすべてルーティングを書き換えられて遮断されていた。
外の世界から完全に切り離されたこの地上百メートルの完全密室の中で、政財界の暗黒のフィクサーである黒木宗一郎は、己の帝国が音を立てて崩れ去る現実の前に、呆然と立ち尽くしていた。
そして、その足元――床に這いつくばり、頭部から血を流した愛華は、先ほど黒木に蹴り飛ばされた衝撃と、数百億円のエスクロー口座が「永久凍結」された絶望のあまり、もはやまともに声を出すこともできず、ただ湿った嗚咽を漏らしながら震えることしかできなかった。
「……くそっ……! 一体、誰が……! 誰がこのシステムに侵入し、すべての機密データを引き抜いた……!」
黒木は自らの髪を乱暴にかきむしり、血走った目を部屋中に走らせた。
ハッカーの仕業か。あるいは、内通者の裏切りか。だが、このペントハウスのセキュリティは、世界最高峰の暗号技術と独自のファイアウォールで固められていた。それを内部の根底から、まるで初めから用意されていたかのようなバックドアを使って攻略し、すべての権限を奪い去るなど、通常の人間には絶対に不可能な業だった。
その時だった。
広大なリビングルームの天井付近、そして壁面に埋め込まれ、普段は心地よい音楽や天気予報を流すために静かに佇んでいたスマートホームの統合IoTスピーカー――そのインジケーターが、不気味な赤色から、一際冷徹な「白く鋭い光」へとパッと切り替わった。
『ピピッ――』
室内の静寂を切り裂くような、短い電子音が響く。
黒木と、床に伏せていた愛華は、びくっと肩を震わせてそのスピーカーのほうへと視線を向けた。
まさか、外部からの通信が復旧したのか? いや、外部との回線は遮断されているはずだ。では、何が起きようとしているのか。
二人の背筋に、得体の知れない恐怖の冷汗が伝い落ちた。
――その瞬間。
室内に配置されたすべてのスピーカーから、重厚な低音を伴った音声合成システムが起動する稼働音が響き渡り、続いて、この空間の空気を凍りつかせる「生きた人間の声」が、はっきりと再生された。
それは、機械的なデジタル音声などではなかった。
紛れもなく、かつてこの世に生きていた人間の、誇り高く、冷徹で、そして底知れぬ知性を宿した「成人男性の声」であった。
『――久しぶりだな、黒木。そして……愛華』
その声がリビングルームの空間に響き渡った瞬間、黒木の顔から血の気が引いた。
そして、床に這いつくばっていた愛華は、自分の耳を疑うかのように目を見開き、信じられないものを見る目で天井のスピーカーを凝視した。
「なっ……! 今の……の声は……!?」
愛華の喉から、か細く、怯えに満ちた悲鳴が漏れた。
その声の主が誰であるのか、彼女の脳裏には一瞬にして鮮烈な記憶として蘇っていた。しかし、理性がそれを激しく否定しようとする。そんなはずがない。そんなことが起こるはずがない。あの男は冷たい病室で、自分の手で毒殺し、この手で息の根を止めたはずなのだから。
『驚いたか? それとも、俺が死んだものと安心しきっていたか』
スピーカーから流れる声は、さらに温度を下げ、氷のように冷たく響き渡った。
『お前たちがこの部屋で語り合っていた密談の数々、そして俺の命を奪い、すべての特許を掠め取ろうとしたあの醜悪な企みのすべてを、俺はこの耳で、この目で、最初から最後までしっかりと見届けていたぞ』
「ば、馬鹿な……っ……!」
黒木は激昂し、声の出所である壁面のスピーカーに向かって怒鳴り声を上げた。
「何者のいたずらだ……! 外部からハッキングして、音声ファイルで我々を脅すつもりか……!? 姿を見せろ! どこに隠れている!」
黒木の怒声は、広大なペントハウスの壁に虚しく反射するだけであった。
隠れている者など誰もいない。この部屋には、黒木と、瀕死の愛華と、そしてリビングの片隅にあるベビーベッドの中に寝かされている「赤ん坊」以外に、人間の姿などどこにも存在しないのだから。
だが――。
その「赤ん坊」のほうへと、黒木の視線がゆっくりと引き寄せられていった。
リビングの隅。高級な木枠で作られたベビーベッド。
そのシーツの上に横たわっているはずの赤ん坊――生まれて間もないはずの佐藤一真の肉体が、いつの間にか静かに上半身を起こし、その小さな両手をベッドの木枠にしっかりと添えていた。
赤ん坊は、泣いていない。怯えてもいない。
その幼い顔立ちからは似ても似つかないほど冷徹で、容赦なき「処刑者」の光を宿した瞳が、黒木と愛華の姿をまっすぐに見据えていた。
『黒木宗一郎。お前は自分が、この国の頂点に君臨する政財界のフィクサーであり、あらゆる人間の命と運命を意のままに操る絶対的な勝者だと思い込んでいたな』
スピーカーから発せられる佐藤一真の声は、まるで目の前に一真本人立っているかのようなリアルな存在感を伴って、黒木の鼓膜を直接叩いた。
『だが、お前のやっていることは、所財や権力を笠に着た卑劣なコソ泥の所業に過ぎない。他人が血の滲むような努力で積み上げた知性の結晶を、暴力と毒殺で奪い取り、自分の帝国の一片にしようとした。その報いがどうなるか、今、お前の目の前で繰り広げられているその崩壊の現実が、何よりも雄弁に物語っているはずだ』
「お前は……! お前は一体、何者なのだ……!」
黒木は全身を震わせ、目の前にいる赤ん坊――いや、その赤ん坊の身体に宿る「何か」に向かって、恐怖に歪んだ声を絞り出した。
政財界の修羅場を潜り抜けてきた彼が、初めて「得体の知れない超越的な存在」の前にひざまずかされるような、抗いがたい圧倒的なプレッシャーがその小さな体を包み込んでいた。
『俺が何者か、だと?』
スピーカーから、かすかな冷笑の響きが混じった声が漏れた。
『忘れたとは言わせないぞ、黒木。そして、愛華……お前もだ』
その瞬間、赤ん坊の小さな唇が、大人のそれと同じように不気味に、そして優雅に歪んだ。
ベビーベッドの中から、赤ん坊――佐藤一真の肉体から発せられたその視線は、床に這う愛華の姿を冷酷に捉えていた。
『愛華。お前は俺の前で、健気で優しい妻を演じながら、毎日少しずつ俺の食事に神経毒を混ぜ込んでいたな。俺が苦しみ、息絶える間際に「お前を愛していなかった。黒木様の莫大な富が目的だった」と、その冷酷な笑みで言い放った。……その時の言葉、一言一句たりとも忘れていないぞ』
その名前を呼ばれた瞬間、床に倒れ伏していた愛華は、まるで雷に打たれたかのように激しく全身を痙攣させた。
彼女は恐怖で半狂乱になりながら上半身を起こし、頭から血を流したまま、ベビーベッドのほうへと這い寄った。
「ち、違う……! 違うわ……! そんなはずない……! あなたは死んだのよ……! 佐藤一真はあの病院のベッドで、確実に死んだはずよ……!」
愛華は喚き散らし、信じられないというように絶叫した。
「なぜ、あなたがそこにいるの……!? なぜ、その赤ん坊の体から、あなたの声が聞こえるのよ……! おかしいわ、そんなの絶対にあり得ない……っ!!」
『あり得ない、か?』
赤ん坊――一真は、冷ややかな瞳で愛華を見下ろした。
『人間の魂や執念というものを、お前のような浅薄な毒婦が理解できるはずもない。お前たちが俺の肉体を毒殺し、その命のすべてを踏みにじったからこそ、俺の魂は消え去ることなく、この赤ん坊の肉体に宿り、お前たちの足元へ舞い戻ってきたのだ。すべては、お前たちが敷いたこの完全犯罪のレールの上で、お前たち自身を地獄へ引きずり込むために』
「ひっ……! ああ……、ああっ……!」
愛華は恐怖のあまり両手で自分の頭を抱え込み、大理石の床に額を擦り付けるようにして身悶えした。
目の前にいるのは、自分が手にかけて殺したはずの夫の魂を持った赤ん坊。自分たちのすべての悪事を見抜き、すべての富と権力を一瞬にして奪い去った真の復讐者。
その事実が、愛華の精神を粉砕し、発狂の淵へと突き落としていた。
『怯えるな、愛華。まだ終わりではない』
一真の声は、さらに冷徹さを増してペントハウスの空間に響き渡った。
『お前が命よりも愛し、すべてを捧げようとした黒木宗一郎。そして、お前がその胎内に宿し、「我が最高の後継者」だと信じて疑わなかったその赤ん坊の肉体――。それこそが、お前たちが犯したすべての罪の証拠であり、お前たち自身の手で築き上げた、「処刑台」なのだ』
赤ん坊の小さな拳が、シーツの上でぎゅっと固く握り締められた。
ハッキング端末のスクリーンには、日本中の警察、検察、金融庁、そして主要メディアへ向けて流出し続ける証拠データの進捗バーが、ついに「100パーセント」に到達したことを示す眩い光が点滅していた。
脱出口のない完全な鉄の密室。
数百億円の富と権力がすべて消え去り、信頼していた共犯者同士が裏切り合い、そして死んだはずの男が「赤ん坊の声」となって自分たちの頭上から冷酷な審判を下している絶望のペントハウス。
開戦の第1波は、「小さな復讐者」の圧倒的な勝利によって制圧されていた。
だが、ここから繰り広げられるのは、悪魔たちがその罪の重さにふさわしい絶望を味わい尽くすための、さらに深く、暗い「泥沼の最終決戦」の始まりに過ぎなかったのである。




