↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
72/89

72 第3章:開戦(絶望のペントハウス)

第2節:狂乱する毒婦


血のような不気味な赤色に染め上げられた壁面のディスプレイ、そして手元のプレミアム・スマートフォン。そのすべての画面に浮かび上がっているのは、数分前まで彼女が勝利の証として信じ切っていた「数百億円の資産」が、すべて永久凍結され、永遠に手の届かない彼方へと消え去ったという残酷な現実であった。


「嘘だ……嘘よ……! そんなはずないわ……っ!」


超高級タワーマンションの最上階、ペントハウスの広大なリビングルームの床にへたり込み、愛華は髪を振り乱しながら絶叫した。

その声は、かつて前世の夫である一真に見せていた上品で控えめな妻の面影など微塵も感じさせない、すべてを失った絶望と狂気に満ちた悪魔の断末魔そのものだった。


「私のスイスの口座が……! 私の数百億が……! 私のプライベートバンクのエスクロー口座に振り込まれるはずの数十億円が、どうして『永久凍結』になっているのよ……っ!?」


愛華は震える両手でスマートフォンを強く握り締め、血に染まった画面を爪が剥がれるほどの勢いで叩き続けた。だが、どれだけ画面をスワイプしようとも、どれだけ生体認証を繰り返そうとも、システムの最高権限はハッキングによって乗っ取り返されており、無機質なエラーメッセージが無慈悲に点滅するだけであった。


彼女の脳裏には、数分前まで描いていた「未来図」が鮮明に焼き付いていた。

神条、陣内、陸斗という使い捨ての駒たちが勝手に自滅して消え去った後、このペントハウスに自ら足を運んでくる政財界の最高権力者・黒木宗一郎の腕に抱かれ、彼と共にスイスのプライベートバンクへと高飛びする。そして、世界を我が物顔で闊歩しながら、美しき「悪魔の女王」として巨額の富を優雅に浪費し続ける――そんな、全人類を出し抜いたはずの完全犯罪の勝者としての栄光が、今まさに音を立てて木っ端微塵に粉砕されていた。


「神条も陣内も陸斗も……みんな私が思い通りに操って、勝手に潰れ合って消えてくれたのに……! なぜなのよ! なぜ私がこんな目に遭わなきゃならないの……っ!」


愛華はヒステリックに泣き叫び、床に散乱していたグラスや皿の破片を素手で掴み、怒りに任せて壁へと投げつけた。

『ガシャァァン!!』

耳障りな破砕音が響き渡り、高級なインテリアの数々が無残に破壊されていく。しかし、どれほど暴れようとも、外の世界へと通じる重厚な金属ドアはピクリとも動かず、窓の外はただ冷たい夜の闇に閉ざされたままであった。


パニックのあまり正気を失った愛華は、ふと視線を上げた。

彼女の目に映ったのは、この絶望的な状況の中でも一筋の光――いや、頼るべき「絶対的な救い主」としてそこに佇んでいるはずの男の姿だった。


黒木宗一郎。

政財界の暗黒のフィクサーであり、あらゆる権力と謀略を意のままに操ってきたはずのこの国の支配者。


「黒木様……! 黒木様、何とかしてください……っ!」


愛華は這いつくばるようにして黒木の足元へと駆け寄り、その高級なオーダーメイド・スーツの裾にすがりついた。彼女の顔は涙とマスカラでぐしゃぐしゃに歪み、見苦しいほどの執着と恐怖に満ちていた。


「あなたなら、この状況を何とかできるでしょう!? あなたの持っている莫大な権力と人脈を使えば、こんなハッキングシステムなんて一瞬で解除できるはずよ! 私たちのスイスの口座を復旧させて……! そして、あの赤ん坊と一緒に、早くこの部屋から私を連れ出してよ……!」


愛華は黒木の足にしがみつき、まるで縋るように何度もその靴のつま先に額をこすりつけた。彼女にとって、黒木はもはや単なる愛人や共犯者ではなく、自分の崩れかけた王国を救い上げる唯一絶対の神そのものになっていた。


だが――。

その愛華のすがりつきを見下ろす黒木宗一郎の瞳には、かつて彼女に向けられていた冷徹なまでの余裕の光すらも、消え失せていた。


黒木の額には冷ややかな脂汗が浮かび、その顔面は怒りと絶望とが入り混じった尋常ではない険しさに歪んでいた。彼のスマートフォンにも、愛華と同様に、国内外の警察機関や金融庁、さらには主要メディアへの「殺人教唆・裏金工作・インサイダー取引の全証拠データ」の流出完了を示すログが容赦なく表示され続けていた。


自分自身の帝国が、そして何十年もかけて築き上げてきた暗黒の支配構造が、今まさに崩壊しようとしているその最中で、足元にしがみつき、ヒステリックに喚き散らす一人の女の姿――。


それは、黒木にとって救いの手どころか、不快極まりない「最大の足手まとい」でしかなかった。


「……離せ、愚か者が」


黒木の低く、凍りつくような声がリビングルームに響いた。


「黒木様……?」

愛華はビクッと肩を震わせ、すがりついた手を少しだけ緩めながら顔を上げた。


その瞬間――。

黒木の足が、容赦なく振り上げられた。

『ドスッ!!』という重く鈍い音とともに、仕立ての良い革靴のつま先が、愛華の側頭部をまともに捉えた。


「っ……ぎゃっ……!?」


悲鳴すらまともに上げる間もなく、愛華の体は横方向へと激しく吹き飛ばされ、大理石の床の上を数メートル転がった。彼女は壁際の調度品に激しく打ち付けられ、口元から血を滲ませながらその場にぐったりと崩れ落ちた。


「ごふっ……はっ……、ぁ……」


頭部を強打したショックと、あまりの不意打ちに、愛華は息を呑み、信じられないというようなうつろな目で黒木を見上げた。


「黒木……様……? どうして……私を……叩いたの……?」


その問いに答えることすら、黒木はしなかった。

彼は冷酷な瞳で床に這いつくばる愛華を見下ろし、まるで不潔な害虫を眺めるかのような、底冷えのする侮蔑の言葉を吐き捨てた。


「お前のような浅知恵の働く愚か者が、我が帝国のパートナーになれると本気で思っていたのか?」


黒木の声は、怒号ではなく、すべてを切り捨てるような凍てつく事実の宣告だった。


「神条も、陣内も、陸斗も――そしてお前もだ。我が計画をスムーズに遂行し、世間の目を欺くために利用するための、ただの『使い捨ての道具(捨て駒)』に過ぎん。お前が私を愛しているだと? 笑わせるな。お前が愛していたのは私の権力と金であり、私にとってお前は、都合の良い時に抱く愛玩動物以上の価値など最初からなかったのだ」


その言葉は、愛華の胸を直接ナイフで突き刺すよりも残酷に、彼女の精神を完膚なきまでに叩きのめした。


「す……捨て駒……? 私が……? あんなにあなたのために尽くして、夫を毒殺して、あなたの子供まで産んだこの私が……ただの道具だったっていうの……!?」


愛華は頭から血を流し、涙と絶望に染まった顔で叫んだ。彼女の脳裏に、かつて六本木の高級クラブで黒木に出会い、その権力に心酔し、自分が「世界の勝者」になったと信じ込んでいた過去の記憶が走馬灯のように蘇る。

すべては、最初からこの男に利用され、踊らされていただけのピエロ劇に過ぎなかったのだという紛うことなき真実が、彼女の心を破壊した。


「そうだ。お前が産んだその赤ん坊も、我が後継者などではなく、この完全犯罪を成立させるための単なる『免罪符の道具』にすぎなかった。だが、そのすべてのスキームが今、この部屋の内部からハッキングされ、私たちの足元が崩り去ろうとしている……」


黒木は歯噛みし、悔しげに拳を握り締めた。

彼は愛華から視線を外すと、もう二度と振り返ることなく、脱出口のない頑丈な玄関ドアのほうへと歩み寄った。彼は自らの手でその分厚い金属ドアを力任せに叩き、外へ助けを求めようとしたが、油圧シリンダーによってロックされた扉は、大人の全体重をかけてもびとも動かなかった。


床に崩れ落ちた愛華は、もはや立ち上がる気力すらなかった。

彼女は絶望の泥沼の中で、自分の選んだ選択の愚かさと、その結末として突きつけられた「捨て駒」という絶対的な現実の前に、ただただ虚ろな瞳で天井を見上げ、小さく震えながら嗚咽を漏らし続けるしかなかった。


そして――。

その惨たらしい「共食いと裏切りの光景」のすべてを、リビングの片隅に置かれた高級なベビーベッドの上から、一言一句見逃さず、冷徹なまでの光をたたえた瞳で見下ろしている存在があった。


佐藤一真。

赤ん坊の小さな体に宿ったその魂は、かつて自分を裏切り、毒殺し、人生のすべてを踏みにじった毒婦・愛華が、自らの信じていた男の手によって「捨て駒」として冷酷に足蹴にされ、精神的崩壊を迎える瞬間を、隅々まで脳裏に焼き付けていた。


(――どうだ、愛華。お前が求めた栄光の果てが、この地獄だ)


赤ん坊の小さな唇が、微かに、そして不気味に歪んだ。

神条、陣内、陸斗が自滅し、愛華が絶望の淵に沈み、あの絶対的な権力者である黒木宗一郎ですら、己の築いた帝国が音を立てて崩れ去る恐怖に身を震わせている。


だが、これで終わりではない。

ここから始まるのは、彼らが犯した罪の重さにふさわしい、永遠に終わることのない「魂の処刑」の本当の幕開けであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。