59 第6章:決着(対決へのカウントダウン)
第4節:妻の真の目的
港区の高級タワーマンション、その最上階ペントハウスのリビングルーム。
窓の外に広がる港区の夜景は静まり返り、決戦の深夜を目前に控えた室内には、重々しい沈黙が横たわっていた。
前世の俺(佐藤一真)を毒殺し、数百億円規模の基幹特許を奪い取った政財界の暗黒のフィクサー・黒木宗一郎。彼が「我が子(俺の肉体)」と対面し、特許権の国外不正流出および巨額資金洗浄の最終決済を完遂させるため、この部屋へ足を踏み入れてくる刻限が刻一刻と迫っていた。
スマートホームの完全密室化、超高画質防犯カメラ群のハッキング、DNA自動照合システム、そして特許決済のキル・スイッチ――。
ベビーベッドの特等席で、現代テクノロジーの全兵器を完璧にセットアップし終えた俺は、小さな体をシーツの上に横たえながら、ソファに座る妻・愛華の挙動を冷徹な眼光で監視し続けていた。
愛華は先ほどから、黒木との通話でみせていた「忠実な小鳥」の可憐な仕草や、黒木を崇拝する狂信的な表情を消し去っていた。
彼女は床に置かれたプライベート・スマートフォンを手に取り、画面を暗号化アプリの最深部へと滑らせた。
そこには、黒木の秘書や側近たちにも秘匿された、彼女自身の「完全プライベートなスイス銀行の秘密口座ダッシュボード」が表示されていた。
(……何だ……?)
ハッキング端末を通じて彼女のスマホ画面をリアルタイムでミラーリングしていた俺の脳裏に、異様な違和感が走る。
愛華は画面に表示された数十億円規模の送金予定枠(エスクロー口座)の数値を指先で愛おしそうになぞりながら、底知れぬ笑みを浮かべた。
その瞳に宿っていたのは、黒木宗一郎という男に対する「愛情」や「服従」などでは断じてなかった。
そこに燃え盛っていたのは、黒木すらも遥かに凌駕する、底なしの「ドロドロとした貪欲さと冷酷な計算」だったのだ。
「フフ……あははっ……!」
愛華は誰もいないリビングで、低く歪んだ嘲笑を漏らした。
彼女はスマホの画面を切り替え、暗号化されたローカルメモファイルを開いた。
そこに記録されていたのは、黒木宗一郎がこれまで行ってきた裏金工作、インサイダー取引、海外ファンドとの不法密約、そして――前世の俺(一真)に対する「殺人教唆および毒殺工作」の全プロセスの詳細な記録と音声データのバックアップ・リストだった。
(な……何だと……!??)
ベビーベッドの中で、俺は息を呑んだ。
愛華が保持していたそのデータは、黒木が彼女を信用して預けたものではない。
彼女自身が、黒木と密通し、前世の俺を毒殺するプロセスの裏で、黒木に気づかれないよう巧妙に録音・盗撮し、収集し続けていた「黒木宗一郎を社会的に即死させるための決定的な人質のカード」だったのだ。
愛華はメモファイルの画面を愛おしそうに見つめながら、小さな声で呟いた。
「黒木様……『あなたとあの子の天下』ですって? ……本気で私が、あなたみたいな腹の出た老いぼれを愛しているとでも思っていたのかしら?」
その一言が、静まり返ったリビングの空気を氷点下へと凍りつかせた。
「笑わせないでよ……。あなたが前世の一真より金と権力を持っていたから、足の付かない毒薬を手に入れて一真を消すために利用してあげただけよ。神条も、陣内も、陸斗も……みんな自分が私を支配していると思い込んで自滅したバカどもだけど、あなたも同類なのよ、黒木様」
愛華の口から吐き出された真実は、あまりにも狂気に満ち、あまりにも冷酷だった。
彼女の「真の目的」――。
それは、黒木を愛することでも、彼と共にスイスで暮らすことでもなかった。
彼女にとって、前世の夫である俺(一真)は「数百億の特許を生み出すための道具」であり、神条や陣内や陸斗は「自分の代わりに泥を被り、互いに牽制し合う捨て駒」であった。
そして、政財界のフィクサーである黒木宗一郎すらも――「一真を消し、巨額の特許を海外へ最高値で売り捌かせるための『都合の良い実行犯』」に過ぎなかったのだ。
愛華の真の計画は、こうだった。
明後日の深夜、黒木がこのペントハウスにやってきて、特許の最終決済(数百億円の着金)を完遂させる。
その直後、愛華は黒木と一緒にスイスへ高飛びすると見せかけ、この手元にある「黒木の殺人教唆と不正取引の全証拠」を脅迫材料として突きつけ、売却益の大半――数十億円から数百億円の資産を自分名義のプライベート口座へと全額強制移転させる。
そして、黒木が用済みになれば、彼を警察や国際刑事機構へと匿名告発して永久に社会的に抹殺し、自らは「真の勝者」として巨額の富を独占する。
そのために、彼女が絶対的なカードとして利用したのが――いまベビーベッドの中にいる「赤ん坊(俺)」だったのだ。
「この子……黒木様との間に出来た『実の息子』という最高のカード……」
愛華は足音を忍ばせてベビーベッドの傍らに歩み寄り、冷たい笑みを浮かべながら、俺の幼い顔を見下ろした。
「黒木様は、自分の血を引く男児の後継者が生まれたと知って、狂喜乱舞していたわ……。自分が死んだ後、この巨大な帝国と財産をこの子に引き継がせるんだって……お目出度い男。この子が黒木様の血を引いているという『DNAの真実』さえ握っていれば、私は黒木家全体の財産権とスイスの信託財産のすべてを、法定代理人(母親)としてコントロールできる……!」
彼女の手が、俺の柔らかい頬をなぞる。その指先から伝わってくるのは、母性など微塵もない、純粋な強欲の毒液だった。
「一真(前世の夫)を殺すのにも役立ち、黒木様を脅し取って全財産を奪うのにも役立つ……。本当、生まれてきてくれてありがとうね、私の『最高の小道具』ちゃん……」
(……どこまで……どこまで腐り切った女だ……!!)
ベビーベッドの中で、俺の全身の細胞が激しい怒りと激痛で沸騰した。
前世で俺を裏切り、毒を盛って命を奪っただけにとどまらず、自分の愛人であった黒木すらも徹底的に利用し、その間に生まれた実の子供(俺)すらも「全財産を横取りするための道具」として冷酷に計算し尽くしていた毒婦・愛華。
彼女の頭の中にあるのは、他者に対する愛や敬意など一欠片もなく、ただ「他人の命と能力と血筋を吸い尽くし、自分だけが膨大な金の上で笑う」という最悪の自我だけだった。
「フフ……あははっ! 明後日の夜が楽しみだわ……。黒木様がやってきて、特許の決済が完了したその瞬間、彼の人生も、これまでのすべての人形劇も、私が引く最後の糸で終わりを迎えるのよ……!」
愛華は満足そうに胸を躍らせ、スマートフォンを金庫へと戻すと、勝利の予感に酔いしれながら再びソファへと横たわった。
彼女は、自分が完全犯罪の頂点に立ち、すべての人間を手のひらで踊らせていると思い込んで疑っていなかった。
だが――。
そのすべての醜悪な真実と計画の一端を、ベビーベッドの特等席から一言一句漏らさず傍受していた俺(佐藤一真)の胸の内では、暗く冷ややかな「絶対的な処刑の意思」が、静かに、そして完璧に完成していた。
(――見事な計画だな、愛華)
俺は心の中で、狂おしいほどの殺意を込めて冷笑した。
黒木を騙し、前世の俺を殺し、そして我が子すらも道具として全財産を奪おうとするお前のその愚かな野望。
お前が「最高のカード」だと信じて疑わないその赤ん坊が、お前たちに殺された佐藤一真の魂そのものであり、お前のその卑劣な計画の全容を、すでに世界中の金融監視機関と警察のサーバーへリアルタイムで同期させているとは、夢にも思わずに。
黒木宗一郎がやってくる決戦の夜。
お前が黒木を脅し、巨額の富を奪い取ろうとしたその最高の頂点において――お前と黒木の二人が辿り着くのは、栄華の天国などではない。
お前たちが手を取り合って落ちていく、永久に抜け出せない「地獄の最底層」だ。
妻の真の目的が白日のもとに晒され、すべての因縁のピースが揃った。
タワーマンションの最上階。
ベビーベッドの中の小さな復讐者は、静かに、そして完璧な殺意を秘めて、明日訪れる「最終決済と実父との対面」の刻限を待ち受けていたのだった。




