55 第5章:黒幕(第4の男)の浮上
第5節:DNAの絶対的真実
港区の高級タワーマンション、その最上階ペントハウスのリビングルーム。
かつて神条、陣内、陸斗という三人の男たちが醜い欲望を剥き出しにして奪い合い、自滅していったこの密室は、いまや底冷えのするような沈黙に支配されていた。
ソファで浅い眠りについた妻・愛華の規則正しい息遣いだけが虚しく響くなか、ベビーベッドの特等席に横たわる俺――佐藤一真は、暗闇の中でハッキング端末のスクリーンが放つ蒼い光を、小さな瞳に反射させていた。
前世の俺を過労死・病死に見せかけて毒殺し、その命の結晶である数百億円規模の基幹特許を掠め取ろうとしていた真の黒幕――政財界の暗黒のフィクサー、黒木宗一郎。
明後日の深夜に控えた「特許権の国外流出および巨額資金洗浄の最終決済」に向け、俺は前世のエンジニアとしての全知全能を注ぎ込み、黒木のメインサーバーおよびプライベートバンクの暗号化通信へと深く、深くダイブを続けていた。
黒木の自慢する「完璧な防壁」など、そのシステム自体をゼロから設計した俺の前では、無防備なガラス細工も同然だった。
俺の組んだハッキング・スクリプトは、黒木の秘密のクラウドデータベースを次々と突破し、彼が過去数年間にわたって行ってきた不正取引、政財界への裏金工作、そして特許奪取に関するすべての暗黒の記録を、着々とこちらのローカルストレージへと転送し続けていた。
だが――。
黒木の個人用最深部ストレージ「Project-ZERO」の最奥に存在する、厳重に三重暗号化された極秘ファイルを解凍したその瞬間。
俺の画面に表示されたデータパッケージのタイトルを目にして、俺の思考はフリーズした。
【遺伝子鑑定報告書_極秘保存データ(Genetic_Test_Result_Confidential.pdf)】
(遺伝子……鑑定……!?)
赤ん坊の小さな体の中で、嫌な予感とともに全身の血がスーッと引いていくのを感じた。
発行元は、海外の最高水準を誇る民間高度遺伝子解析機関。
検体Aは、黒木宗一郎。
検体Bは――【佐藤宗真(乳幼児・生後0ヶ月)】。つまり、いまベビーベッドの中にいる「俺自身」のDNAサンプルだった。
愛華が俺を出産した直後、病院の検診データから密かに採取され、黒木の指示によって極秘裏に送られた遺伝子解析の最終結果。
画面の中央、赤い太字で大きく印字されたその結論(Conclusion)の文字列が、俺の網膜に焼き付いた。
『――検体A(黒木宗一郎)と検体B(佐藤宗真)の父子確率:99.99999%。
結論:検体Aは、検体Bの生物学的父親(Biological Father)であると認定する』
「っ……!?!?」
声にならない叫びが、喉の奥で詰まった。
全身の細胞が一斉に悲鳴を上げ、脳内を凄まじい衝撃波が駆け抜けた。
(馬鹿な……馬鹿な馬鹿な馬鹿な……っ!! 俺の……この赤ん坊の肉体の……本当の父親が……黒木宗一郎だと……!?!?)
理解が追いつかない。
あまりにも残酷で、あまりにも醜悪な絶対的真実が、画面の上で冷酷に嘲笑っていた。
前世の俺(一真)は、愛華と結婚していた。
俺が日夜、会社で死にもの狂いで働き、過労で倒れかけていたその陰で――愛華は黒木宗一郎と密通を重ねていたのだ。
愛華にとって、前世の俺はただの「便利な特許生み出し機」であり、神条や陣内や陸斗は自分を輝かせるための「見栄えの良い使い捨ての小道具」にすぎなかった。
彼女が心から心服し、その肉体と魂を捧げていた唯一の男――それこそが、政財界のフィクサーである黒木宗一郎であり、彼女の胎内に宿った命(俺の転生後の肉体)の真の種主は、他でもない「前世の仇敵・黒木」その人だったのだ。
「フフ……あははっ……」
その時、静まり返っていたソファから、身を起こした愛華の小さく狂気じんだ独り言が漏れてきた。
彼女はベッドで静かに横たわっている(と思っている)俺のほうへ、ゆっくりと歩み寄ってきた。
腫れ上がった顔に不気味な笑みを浮かべ、ベビーベッドの木枠に細い両手をかける。その冷たい指先が、俺の赤ん坊としての頬にそっと触れた。
「……ねえ、宗真。……ううん、本当はなんて呼べばいいかしらね?」
愛華の瞳に宿っているのは、我が子に対する母親の愛情などではない。
そこに注がれているのは、自分の「完全犯罪の証」であり、黒木との絆を繋ぎ止めるための「最高の道具」を見るかのような、底知れぬ狂おしい眼光だった。
「前世のあなたは、死ぬまで自分が本当の父親だと思い込んで嬉しそうにしていたわね……。お腹が大きくなった時、『俺たちの子供だ』って涙を流して喜んで……本当に哀れで、おめでたい人だったわ」
愛華はくすくすと肩を揺らし、愛おしそうに俺の柔らかい髪を撫でた。
「この子はね……あなたの子じゃないのよ、一真。……私と、黒木様の『愛の結晶』なの。あなたが過労死する直前に、黒木様が私に授けてくださった……私にとって一番大切な、本物の血筋なのよ」
愛華の口から吐き出されたその言葉は、ハッキング画面のDNA鑑定データと完璧に一致していた。
前世の俺が「自分の子供」だと信じて疑わず、病床で息を引き取る瞬間まで愛おしく思っていたお腹の命。
転生し、赤ん坊として目覚めた時、自分の本当の母親だと信じようとしていたこの女。
そのすべてが、前世の宿敵・黒木宗一郎の「種」によって作られた、完璧な偽物と裏切りの産物だったのだ。
(――クソが……ッ!!)
俺は赤ん坊の体内で、歯が砕け散るほどの激しい怒りと吐き気に襲われた。
何という屈辱。何という地獄の悪戯か。
前世で俺の命と特許を奪い取った宿敵の「血」が、今、俺自身のこの赤ん坊の血管の中にドクドクと脈打っているという圧倒的現実。
俺は前世の仇の子供としてこの世に生を受け、その仇の特許奪取のダミーとして抱かれていたのだ。
だが――。
絶望の淵でドロドロに渦巻く吐き気と激痛のなかで、俺の胸の奥底から、氷のように突き抜けた「冷徹な殺意」が静かに首をもたげた。
(……フッ……ハハハ……!)
俺は心の中で、暗く、冷ややかに嘲笑った。
そうだ。それがどうしたというのだ?
この肉体に流れる血が黒木宗一郎のものであろうと、この遺伝子の半分が愛華のものであろうと、関係ない。
今、この赤ん坊の頭脳を支配し、この意志を動かしているのは――他でもない、お前たちに裏切られ、殺された「佐藤一真」の魂そのものだ。
黒木宗一郎が「自分の血を引く実の子供」だと思い込み、愛華が「黒木様との愛の証」として優越感に浸っているこの赤ん坊こそが、お前たち二人を永遠の地獄の底へと引きずり下ろすために送り込まれた、史上最凶の「トロイの木馬」なのだ。
自分の本当の血を分けた子供の手によって、自分の積み上げてきた数百億の資産、政財界の権力、そして社会的地位のすべてを全世界の目の前で完膚なきまでに叩き壊される――。
これ以上の、最高に美しく、最高に残酷な「因果応報の復讐劇」がこの世に存在するだろうか?
「……さあ、明後日の夜になれば、黒木様が私たちを迎えに来てくださるわ。スイスで最高の暮らしが待っているのよ……お前も、良い子でいるのよ……」
愛華は満足そうに微笑むと、俺の頭を一度だけ撫で、再びソファへと戻っていった。
静まり返ったペントハウスのリビングルーム。
ベビーベッドの特等席で、俺(佐藤一真)は小さな手足をそっと動かし、ハッキング端末の画面に向かって、最後の決戦プログラムの「実行(ENTER)」キーへと指先を合わせた。
(黒木宗一郎。愛華。お前たちが作り上げた『実の息子』という名の最大の計算違いが……明後日の深夜、お前たちのすべてを灼熱の地獄へと叩き落としてやる)
DNAが証明した絶対的な真実。
それは絶望の始まりではなく――真の黒幕に対する、究極の処刑台が完成した瞬間であった。
復讐の第二幕(最終決戦編)、開戦――。




